祈りのカクテル.final
「もう少し性愛について真っすぐ向き合われてはいかがですか」
バーテンはうつむく私に向かってそう言った。
「先ほど、人は自然界から離れていっていると言いました。現代の生活習慣病や、精神疾患などは、自然界を離れた生き物として行き過ぎた行動を取った人達が罹ってしまいやすいものです。人は生き物です。言葉を話して文明の中で高度な暮らしをしていることは、何も当たり前のことではありません。よくよく考えたら、不思議な行為なんですよ。『私には生きる価値がない』とか『生きている意味って何だ』とか考えることは。そんなもの、元からありません。深く考えすぎてはダメです」
「それで、性愛ですか? より良く食べて、より良く寝て、より良く性交ですか」
「そうです」
「首絞めとか?」
「その話はどうか忘れてください」
私は少しおかしくて笑ってしまった。
「性交のことを昔の人はまぐわいと言いました。目合と書きます。目が合うと書きます。本来心を通じ合わせるものですから。大きな幸福感をもたらしてくれるはずです。その相手を見つけようと思ったら、一朝一夕では見つかりませんから、自身が魅力的な人になるために、やらなければならないことは沢山あります。素敵なパートナーが出来た後も、相手との関係性を深めて維持していくためにやらなければならないことも、また無限に出てきます。この段階に入った人にとって、『人生の意義について』なんて、考えている暇なんてありません。もう少し、人の体温の伴った諸活動について向き合うべきです。カッコつけたりせずに」
「そうですね。人の愛情を感じて生きていくことが出来たら、永遠に近い幸福を手に入れることが出来るのかも」
「そうです。人が内側に抱えている感情はナマモノなんですから。放っておくと腐ってしまいますよ。一度腐ってしまえば、もう二度と元の状態には戻りません。定期的に、人との関係性の中で出し入れしていかないと」
「そうですね」
「生きているということは、変化するということです」
「変化」
「そうです。私は高校生のときに、この言葉に出会いました。今でも、自身の奥深くに刻まれている言葉のひとつです」
私は小さく呟いた。「生きるということは、変化するということである」
「その通りです。一瞬たりとも、同じ姿をしているものはこの世に存在していません」
彼はウォールアートの方を見た。優しい眼差しで、全ての葉一枚一枚を愛でるように眺めた後、ぼんやりと上を眺めたまま彼は言った。
「毎秒毎秒、刻一刻、脈々と生物は変化し続けている。過去の記憶も、未来への羨望も、自身の体も、人と人との関係性も、社会の在り方も、絶えず変化し続けている。この私も」
「変化……」
「その『変化』は自発的に起こせるものと、そうでないものがあります。私達は不可逆的かつ不可避的な変化に対応すると同時に、外部からもたらされる影響によって歪められてしまわないように、自ら進んで変化を起こし続けていくことが大切なんです」
「外部からの避けがたい影響によって自身が歪められてしまわないように、人は自らを変化させ続ける必要がある」
「その通りです」
彼はにっこりと笑いかけてきた。
「自分の頭で考えて、物事を恐れずに選択していくことですね」
※
バーを出ると、黒服のバーテンダーが三十段はある階段を降り切って私の姿が見えなくなるまで、見送ってくれた。
こういう所も、隠れ家的な店が末永く顧客に愛されている所以だろう。私はこれから、どうやって生きていこうか。もう少し、自身の奥深くに眠っている根源的な欲求にも、向き合ってみよう。
社会的な文脈は、あくまで無視して。
人生って、本当に長い。
人が狂ってしまうほどに。
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