「けしからん人」を見ても、決して石を投げないと心に決めました
「水清ければ魚棲まず」という格言があります。
人間も性格が潔癖すぎて他人の間違いを許せなくなるとやがて誰も寄ってこなくなるという意味ですが、これって社会や組織にも同じことが言えるのではないかと思います。
その社会や組織を構成する人々に「清廉潔白、品行方正」であることを求めるのはいいのですが、全てにおいて完璧な人間などいないため、純度100%の清らかさを求めると最終的には誰も居なくなります。
多様性を謳うなら、欠点がある人間だって堂々と存在してよいはずですが、今のご時世は問題を起こす「けしからん人」への風当たりがどんどん強くなって来ました。
例えば某牛丼チェーンの元役員が不適切な発言で職を失いましたが、このような軽はずみな下品な発言で職を失うケースは後を絶ちません。
もちろんどこかで線引きは必要なので、社会なら法律(刑法)、組織ならルールがありますが、法やルールは破らなくても「けしからん」と見なされると社会や組織から排除されるのが現実です。
もちろん「けしからん人」など居ないほうがいいという考えもあると思いますが、私にはどうしても「けしからん人」が自分とは全く違う人種とは思えず、たまたまその人が「けしからんこと」をしただけで、自分は絶対にしないと言い切れる自信はありません。
世の中には「けしからん考え」を一切持っていない心の底からピュアな人間は存在するかもしれませんが、私は少なくとも違います。
表向きは品行方正に振る舞うことができても、心の中で「いけないこと」をたくさん考えています。今はたまやま制御できているだけで、この先自分が「けしからん人」にならないとも限りません。
ということで、ニュースとかで「けしからん人」を見ても、あるいは目の前に「けしからん人」が居ても、決して石を投げずに見守ろうと決めました。(仮に自分に被害が及ぶようならそのときはお巡りさんにお願いします)
私ごときに石を投げる権利など最初からないのですが、例えみんなが石を投げても自分だけは絶対に投げないようにしようと思います。
もしみんなで石を投げてしまうと、水はどんどん清らかになりますが、魚の住めない場所になってしまいます。
例えこの世の全員が石を投げてもせめて一人ぐらい石を投げない人がいれば、「けしからん人」も救われるかもしれません。
「けしからん人」も存在できる社会や組織のほうが自分も存在しやすいので、これからは「けしからん人」に寛容な人でありたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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