見出し画像

「水に流す」という日本の文化は本当に素晴らしいと思いますが、なかなか理解されません

昨日こんな記事を書いてみたのですが、900年前の人物を憎み続ける中国人は確かに物凄いレベルで「根に持つ文化」ではあるものの、世界中の国で過去のことを根に持つのは珍しいことではありません。

アメリカでも南北戦争で南軍の指揮官だったリー将軍の銅像が撤去されるということがあり、過去の罪(その当時は罪にならないにしても)は未来永劫許さんというのが標準的な価値観だったりします。

ただ過去のことを根に持つからこそパレスチナ問題のようにいわゆる「憎しみの連鎖」がいつまでも断ち切られず、互いが未来永劫いがみ合うという不幸な構造が無くならないというのも事実です。

その点、日本には「水に流す」という本当に素晴らしい文化があります。

どんなに憎たらしい敵でも死ねばチャラというところがあり、子孫の代までは遺恨を持ち越さないようにします。おそらく日本で最も根深い会津と長州の遺恨でさえ150年も経てばほぼ和解します。
(未だに会津地方で”長州許さん”という人もいるという噂はありますが…)

個人的には「水に流す」という文化が世界に広まれば「憎しみの連鎖」もどこかで断ち切られて世界が平和になっていくと思っていますが、残念ながらこの「水に流す」という発想は日本人以外にはなかなか理解されません。

というのも、「水に流す」という文化を持たない人にとって、日本人の「水に流す」は責任を放棄して逃げているように見えるからです。

海外に赴任した日本人の管理職の方から「現地人社員はちょっとしたことでも根に持つ」という悩みを聞いたことがありますが、その裏で現地人社員からは「日本人上司は責任逃れをしている!」という不満も聞かれます。

それこそ日本人上司が「そんな小さいことは水に流そうよ」なんて言おうものなら「水に流すって何だよ、責任を逃れるのかよ!」となって信頼関係が一気に崩れてしまいます。

ということで、もし海外に赴任するなら日本では水に流すようなレベルのことでもしっかり清算したほうが良いかもしれません。

例えば上司が軽い気持ちで「これやっといて」と指示してあとで「やっぱり違う」となったとき、日本なら「ごめんごめん」で済ませてしまいますが、海外の「水に流さない文化」の相手ならちゃんと説明する必要があります。

「あのときはこういう理由でこのような指示をした」

「こういう事情が起きたので、指示の内容を変えることになった」

「最初の指示で仕事してもらった分に関しては結果的に無駄になってしまったが、その分の仕事はちゃんと責任を持って評価します」

面倒くさいと感じるかもしれませんが、ここで重要なことは「単なる謝罪」で済ませるのではなく、きちんと「説明」をすることです。

もし「単なる謝罪」で済ませようとすると相手は「責任逃れをしようとしている」と思われてしまう恐れがあります。
(逆に十分な「説明」があれば「謝罪」は必ずしも必要とは限りません)

日本のような「水に流す文化」と、中国のような「未来永劫根に持つ文化」はなかなかわかり合えないのですが、どちらも良い面と悪い面があると思います。

「水に流す文化」は過去の遺恨を引きずらないというメリットがある一方、責任の所在があいまいになって「なあなあ」になってしまう欠点もあります。

「未来永劫根に持つ文化」は無益な争いにつながる一方で、執念深さが発揮されて目的を達成できるという強みもあります。

ただ何百年前の出来事を根に持っても誰も幸せにならないので、前に進むためにはどこかで清算して水に流すしかありません。

特に国と国の関係になると何をもって「清算した」の認識を合わせるのはかなり難しいことですが、お互いの文化がそもそも真逆の発想であるというところから始めて根気強く対話するしかないと思います。

最後までお読みいただきありがとうございます。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?