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晩夏に散る

 ある夏の、補習の帰り道で、とても暑い、うだるような熱気の発するアスファルトの上を歩きながら俺たちは駄弁っていた。
「なあ、りぃ。俺今目の前に駄菓子屋が見える」
「奇遇だな、みぃた。僕にも、見える」
 このクソ程暑い中で、目の前のぼろっちい建物で揺れる氷の文字。オアシスというのはこういう物をいうのだろう。
「なあ、奢ってやろうか?」
「僕も奢ってやるよ」
 財布の中を確認してニヤリと笑って顔を見るとあいつもニヤッと笑っていた。
「じゃあ買いに行くか?」
「僕も買いに行こうじゃないか」
 じわじわと泣きわめく蝉がうるさくて面倒くさかった。
「ありがとうございました」
 買ってみるとあいつは棒アイスを持っていた。勿論と言っては何だが俺も棒アイスだった。
 「お前かき氷にしないのか?」
 「奇遇だな。貴様の手にしている物もアイスに見えるぞ」
 俺たちの間を生温い夏風が通り過ぎて行った。
 「俺の聞き間違いだろうけどお前奢るって言わなかったか?」
 「…僕も聞き間違えたかもな」
 沈黙の流れた俺たちの顎から汗の雫が伝って落ちた。
 蝉が一層甲高く鳴いて沈黙は続いた。
 「なあ、防波堤の方、行かないか?」
 あいつがニヤッと笑った。俺は顎から滴る汗を拭って頷いた。あいつは軽快に笑って、アイスを持ったままで走り出して俺を振り返った。
 「競争だぞ!負けたらアイス次…いや、かき氷奢りだからな!」
 「はあ?!聞いてねえし!」
 かき氷は意外と高くて300円以上する。そんなものを二人分も買ったら俺のお小遣いは一網打尽だ。絶対嫌だ。
 「「はぁ、はぁ、」」
 数分後。ゼエゼエと喘ぎながら、俺たちは防波堤の上でぐったりとアイスを握りしめていた。
「ぁあ!アイス溶けてないかな!?」
「どぅえ?!マジか」
「溶けてはなかったわ」
「んだよ。紛らわしい」
 キラキラと眩い光を反射しながら寄せては返す海を見つめながらアイスの封を切りシャクシャクと咀嚼する。
「硬いと言えばさ」
 何となく口にしてみた。
「俺の姉さんパスタの茹でる前のやつ揚げて食ってたんだけど」
「カロリーと硬さ凄そうだな、それ」
「歯茎にめちゃくちゃ刺さったぞ。俺が食ったら」
 じわじわとシャワシャワと煩い蝉がジジっと木から飛び立った。それにつられて空を眺めると、空はとても青く蒼く、白い雲を浮かべてそこにあった。
「なあ、空を見てるとさあ。吸い込まれて蒼く染まって溶けそうに思うんだよね」
 俺が言う前にあいつが笑いながら言った。
 なんだか凄く驚いた。なんでか。何時もこいつは俺と同じような考えで。何時も通じてたのに。
 まるで会ったばかりの頃に同じだって知った時みたいで。
「…どうした?」
 棒アイスの棒を銜えてあいつは俺を見た。口に残った冷たいアイスの欠片を飲み込んで俺は笑って見せた。
「ポエムかよ。詩人になれるぞ」
 あいつは、はははっと笑って「そうかもな」と海を眺めて遠い目をした。
「なあ、みぃた、将来の夢ってあるか?」
 喉が渇いて、寂びれた雰囲気の自動販売機に小銭を投下した時。あいつが言った。
「…あれか。作文。テストで出たやつ」
 ガコンッと鈍い音を立てて飲み物が出てくる。キィと軽く音を出す取り出し口を開けて黄色の炭酸飲料を持つ。
「まぁ……そう言う事にしとこうじゃないか」
 ニヤッと笑ってあいつは次いで小銭をこの鉄の塊に飲み込ませた。
「うーん……俺は夢無いなぁ」
 俺がそう言うとあいつは小銭を握る手に力を入れた。
「あ。僕これにしよう」
 ガコンッとまた飲み物が排出される。あいつはそれを取ってカキッと蓋を回した。黒い炭酸水が、蓋周りに茶色い泡を作ってゴクゴクと音を立ててあいつの喉に飲み込まれていく。
「お前、夢無いのか?」
 あいつはコーラを口から離してキョトンとした顔で俺を見た。その顔に俺は少々びっくりした。
 生温い潮風が俺たちの隙間を吹いていく。お前は違うのかと問いたくなったが、あいつの顔を見て辞めた。キョトンとしつつもハッキリと戸惑いを顔に出しているあいつが何だか意外だった上に、俺の心もそんな心境だったからだ。
「何で?」
 呆然と、俺を笑って見たあいつは戸惑っていた。
「何でって……夢なんて叶わないし。叶えられるのが奇跡なんだよ」
 モクモクと入道雲が怪しくも美しい予感を持って立ち込める。汗をかき始めたペットボトルを持つ手に力を籠める。
「りぃも夢無い人?俺は無いよー。昔は夢あったけど諦めたわ」
 どうにかしてこの沈黙を破ろうと、俺は必死に話題を逸らした。
 なあ、びっくりしたよ。俺らって何時も一緒の考えだったじゃあないか。小さい頃からさ。実は違う人間だったって言うのも変だろうけど。やっぱり何時も何時までも一緒って訳にはいかないんだろうなって。
 思った。
 ポタポタとペットボトルと顎やこめかみから汗が滴る。防波堤から聞こえるさざ波の鳴き声が波立つ俺たちの心みたいで。
「僕は……っ夢、そうだよなぁ。叶わないよな」
 はははっと心成しか乾いた声であいつは笑った。何だか少しおかしく感じる。いつものあいつじゃない。サぁッと生温い風が俺たちの隙間をいつも通り、通り過ぎたのに心許なくて。
「お前最近悩みあるか?……いや、何でも無いよ。忘れろ」
 頼りなく揺らいで見えたあいつを、繋ぎ止めないと、と焦りを生んだ。焦燥が暑さと共に身を焼いて焦がすようで。
「っ――……」
 あいつは目を丸くしてくしゃりと顔を歪めた。
「っあのな、僕―…」
 あいつが何かを口にしようとしていた時、突然に雨がぱらつき始めた。すぐにざあざあと大降りの雨が降り始めて、俺たちは、大慌てで色々な驚きの言葉を思いつく限り口にしながら走って木陰に避難した。
「めっちゃ降ってる!」
「うぅわ濡れる、濡れる!」
「いやもう濡れてるだろ!」
「そりゃそうだろ!」
「ふふ……あはははは!面白い!」
「お前めちゃくちゃびしょびしょだぞ!」
「オールバック!似合う?!似合うか?!」
「似あわないよ! 女子も逃げるぞ!」
「「ふふ……はははは!!」」
 先ほどの重苦しい空気感なんて忘れて俺たちはバカみたいにはしゃぎあい、ひたすらに笑った。もうこれ以上ないくらい、まだ今までにも無いくらい楽しくて、でもこれからもそう思うことくらい何度もあって、その度に怒って泣いて笑って行くんだろうって、そう思っていたんだ。
 それは口に出すこともないくらいに、確認することもないくらいに、
 確約されて、絶約されて、
 確信して、疑うなんて皆無、
 間違うなんて絶無、逸れるなんて微塵もなく、
 違うなんて造作もなく、その道を選ばない事なんて、
 何より面白味が無かった。ずっと、友達だと思ってた。
「なあ、みぃたの昔持ってた棄てた夢ってなんだ?」
 雨が静まってきたどんより雲の立ち込める空を見上げながらあいつは言った。
「捨てたって言い方は無いんじゃあないか?」
 やけに拘るな、そう思った。
「気になってさ」
 どことなく気恥ずかしさを覚えながら、俺は口に出した。
「昔さ、俺らって一緒の本を読んだりして将来作家になるって言ってたじゃん。でもいざ書いてみると難しくて。俺には才能が無いからさ」
 口にしていて少し悲しくなった。今でも実は書いていた。
 俺をヒーローにして、あいつはその付き人兼一番の理解者で、一番のライバル。でも詰まってしまうし書けないし、言葉もしっくり来なくて。キャラクターのデザインもぶれてしまうし何度もやめたくなった。
 あいつは少し驚いた顔をしていて、それから歪めて悲しいような切ないような顔をした。
「そんな約束……もう忘れていいのに」
 ボソッと呟かれた言葉は、俺の耳に届くことなく、俺の歓声にかき消されて行き場もなく消えた。
「おい!晴れたぞ!」
 キラキラと濡れたように、それでいて乾いたように青空が垣間見えて光が差し込んだ。
「ごめん、さっきなんか言ったか?」
 俺が振り返ってあいつを見ると、あいつは呆けたような顔をしていて、とても笑えた。なんだ、その顔、と笑っている俺を見てあいつは雨の雫を落としながらふにゃふにゃと笑った。
「僕にも分かんないや」
 光に照らされて俺たちは笑いあった。
「なあ、砂浜で寝転がって服乾かして行かないか?」
 あいつがヘラヘラ笑ってワイシャツをグイッと引っ張って主張した。
「……いいじゃん!なかなか主も悪よのう」
 顔を突き合わせてニヤッと笑ってやる。いつもの俺たちだ。なあ、お前がさっき俺に誤魔化した事って一体何なんだ。隠すなよ。俺とお前の仲だろう。お前が行きなり夢の話なんかふるから、変な勘繰りしてるじゃねえかよ。
 俺とお前だろ。俺とお前なんだから。
「砂浜っていつも熱いから寝転がれないけど雨の後って冷たいだろうなって狙ってたんだよね」
 あいつがのほほんと少し生乾きな砂浜に寝転がる。真似して寝転がるとあいつは真っ直ぐに空を眺めていた。なかなか空を眺めるって事をしてこなかったからだろうか。空はどこまでも果てしなく蒼さはどの絵具よりも群を抜いて、気を抜くと自分が青になって消えてしまうかのような錯覚を覚える。
「こないだ、同じクラスの佐々木が彼女出来たって言ってたな」
 あいつが照り付ける太陽を見ながら思い出したように呟いた。ジワジワと鳴く蝉の声が響いて消えて。波の音も絶えず聞こえてきていて当たり前のその音に安心した。
「佐々木が?あのモブっぽいやつだよな。なんで俺がモテないんだろ」
 心からそう思って俺は砂を、どすっと蹴った。
「ははは。みぃたを見ている奴もちゃんといるって。そう落ち込むなよ」
 あいつがゴロンと寝返りをうって、俺の方を向いた。キラキラと太陽と海の光を吸って、あいつの瞳が輝いている。濃い茶色の髪の毛がサラサラとあいつの輪郭をなぞって、光を零しながら風になびいて光を落とす。
 にこっと、寂しげに笑うあいつは形の良い唇に薄く笑みを刷いて俺を見ていた。切なさと言うか、悲しさと言うか、儚さと言うか。俺にそういう感情が向けられている。心が傾いた気がして。
 あぁ、やっぱりこいつ、俺に何か隠している。不意に泣きそうな胸を締め付けられるような感情が込みあがってきて。
 隠すなって言ってもこいつは俺に隠すだろうから。ため込んでも良いことなんて無いし、どうせ解決何かしないんだ。
「見て。空がさ、ブラックホールみたいに僕らを飲み込みそうだと思わない?」
 空に向けて真っ直ぐに手を伸ばしてあいつはキャラキャラと笑った。
「海と空って似てるよね。どっちも蒼くて広くて飲み込みそうじゃん?」
 海から吹くしょっぱい風が乾いていく俺たちを撫で上げる。
「僕さ、昔、空に手を伸ばして……手が届かなかった事に凄く驚いたんだ。でも空に手が届かない事なんて当たり前だったし、実際雲が掴めるって確信していた訳じゃなくてさ」
 懐かしそうに空を眺めて伸ばした手から光を透かしたり遮ったりしながら、あいつは、目を細めた。ただただ単に眩しかっただけかもしれない。
 でも俺には昔を供養しているように見えた。何故そう感じたのかは解らない。でもあいつを一番近くで見ていたのは俺だったから。
「あの空に手が届くようになれば僕の願いや夢は叶うのかなぁ……なんて、僕も大概だよね」
 ケラケラと笑ってあいつは細めた目を閉じた。なんて言えばいいのかなとか。なんて返せば正解なのかなとか。
 そんな事思ってない。
 よいしょ、と立ち上がってあいつは俺を振り返った。
「僕が……夢って物を本気で追うって言ったら……お前は、馬鹿にする?それとも止める?それとも……応援してくれる?」
 逆光で表情は窺えないがあいつは微笑んでいる気がした。キラキラと濃い茶色の髪の毛が光に透かされて薄い茶色に見える。甲高い鳴き声を上げながらゆりかもめが滑空していく。妙に艶めかしい笑みが垣間見えて頭がクラッとした。
「応援……したいよ。なんなんだ?夢って」
 俺が声を出そうとしても、何故か喉の奥がキュッと絞まって、なかなか声が出なかった。妙に喉が渇く。
「でも、夢って叶わないんだろう?お前、さっきそう言ったじゃんか」
 ドキリとした。だってそう言ったからだ。でもこんな話をすると聞いていたらそんな回答はしなかった。でもそれは自分の意見を物に寄って変えるということで、それも腹が立った。
「あれは俺の意見だ。お前に押し付ける事ではないだろ」
 ごもっともらしく意見して見るとあいつはふいっと海の方を見てしまった。静かに寄せては返す波を見ていると、あいつがポツリと言った。
 狡い。そう聞こえた。
「なあ、海。飛び込んでみようぜ!」
 クルッと振り替えったあいつにグイッと手を引かれた。蝉の声が耳に戻ってきて、俺は抵抗らしき抵抗するのも忘れてあいつに起き上がらされて。
「バシャッと行けば暑さも忘れるだろ!」
 グイグイ引っ張られて俺はなされるがままに海の瀬戸際まで来ていた。
「ちょ……ちょ、おい!待て、着替え無いって!」
「知らない!行くぞ」
 グイッと強く引っ張られて俺はめちゃくちゃに抵抗した。
「ちょ、ここは一緒に飛び込むところでしょう?!」
「い・や・だ!!」
 グイグイと引っ張りあいながら俺たちは波の瀬戸際をバシャバシャ走りまわった。とうとう太ももまで海にどっぷり浸かってしまっている。
「来いよぉ!」
「いやいかん!」
「観念しろ!」
「い・や・だ!」
 グイグイと引っ張りあって、とうとう俺は手を放してしまった。
「あ」
 軽い声を出してあいつは海の波に向かって落ちていった。
「っつ――……!!!」
 思わず後を追って海に飛び込む。波の中であいつをキャッチして泡の中で抱きすくめる。強く抱きすくめて俺は海面を目指した。
「―――――っぶはっ!!」
「ぷはぁっ!!」
 ボタボタと髪やまつ毛から塩辛い雫を落として俺たちは呆けたように見つめあった。最初に沈黙を破ったのはあいつだった。
「あはは!足つくのに!濡れたくなかったんじゃないの?! アハハ!」
 ケラケラと笑ってあいつは俺に水をかけてきた。
「ぅおっ!?」
 びっくりして声をあげるとあいつはケラケラと笑った。
「濡れちゃったね」
「ああ、りぃのせいでな」
 後から分かったことなのだが、どうやらあいつは俺が追いかけて来ると分かった上で海に落ちるがままになっていたようなのだ。濡れぼそってトボトボと帰宅中に、あいつはいつも奢ってくれないと言うのにいきなりアイスを奢ってくれた。
「どういう風の吹き回しだ? おら。言えよぉ」
 あぁ、楽しいな。何時までも続いたらいいのに。
 防波堤沿いを歩いていると、あいつが俺を呼び止めた。
「ん。何?」
 スクールバックを肩に下げて、あいつは俺を見ていた。
 紫がかったオレンジの空に照らされて、あいつの濃い茶色の髪の毛が明るく染まる。ツクツクボウシの声が、蛙の鳴き声が何処からともなく聞こえてくる。
「っつ――……僕、さ」
 あいつが俺になにか言った。
「――  …??!」
 何か言った。だがしかし、突然上がった花火の音にかき消されて届かなかった。二人仲良く海の方を見るとそこでは大輪の花が咲いていた。
「船上花火の日だったのか……」
 あいつがぽつり、呟いて、
 一瞬で咲いて一瞬で散る花に、俺たちは照らされて。
 時が止まったかの様な錯覚に、動くのは花火だけで、
 俺たちは、照らされ続けた。 
 花火が終わって、消炎の臭いが辺りに満ち、
 オレンジの空が、薄い暗さに変わっても、
 俺たちはそこにいた。
「なぁ」
 あいつがニヤッと笑ってバックからあるものを取り出した。
「お、お前、それは!」
 驚愕に声が震える。
「そう……まさかのあれだ」
 ドヤッと俺に向かってあいつはそれを突き出した。
 そう……――
「花火!」
 花火を。
「一緒にやらないか?」
「やる。」
 即答だった。
 その後は想像にお任せする。
 取り敢えず……俺も若いってことだけを言っておく。火傷はしていない。まあ、はしゃげる時にはしゃいでおきたいよな。
 線香花火に照らされるあいつの顔を見ていた。細い輪郭を温かい光がなぞる。

「なあ、俺とだけで良かったのか?」

「何が?」

「折角の花火なんだし。クラスの奴とか…呼びたかったかもなと思って」

「…いいよ。りぃとやりたかったんだよ」

「隣行っていいか?」

「いいよ」

 時が止まった

 気がした。

「なあ、僕…やっぱりお前のこと好きだわ」

「はは。何言ってんだ今更。幼稚園から一緒だったろ。俺もお前が一番の親友だよ」

 線香花火がポトリと落ちた。

「だよなー」

 あいつはにへらと笑って俺に少し寂しそうな声で言った。

「何時までも今のままのお前でいてな」

 何故そんなことを寂しそうに俺に言うのか。

 俺には分からなかった。

「もう帰らないと」

 あいつがスッと立ち上がって俺に笑った。笑みが俺に染み入ってきて俺の中で溶けていく。


「じゃあまたな。バイバイ」
 あいつと家の前で別れて、あいつは俺に手を振った。別れた後で気が付いた。あいつ、俺にまたなって言うことはあってもバイバイなんて言ったこと無いよな。
 居ても立っても居られなくて俺は玄関から飛び出した。あいつは俺の家の門のすぐそこに居て、追ってきた俺に目を丸くした。
「どうした?なんか忘れ物あった?」
 何でもないように笑うあいつの頬には涙と思わしき跡があった。ギュッと心が締め付けられる。
「いや、あのだな、んー、また遊ぼうぜ」
 あいつはフハッと笑って目をこすった。
「何それ。分かってるって。ほら、お前、おばさん心配するだろ。もう八時なんだから。帰りな」
 グイグイと背中を押されて俺は家に戻らされた。あいつはもう一度俺に手を振って、帰って行った。次の日からは俺だけが補習の毎日だった。あいつの家には灯りが灯らなかったが、あいつの家は里帰りをするから、そのたぐいだろうと思っていた。
 夏が明けて、学校が始まった。あいつには始業式でも会えなくて。その日。
「転校した生徒がおります。一緒に卒業できないのは悲しい事ですが…」
 耳に入って来なかった。転校。俺は
 聞いてない。親友だった、のに。
 そして時は過ぎていった。
 ただ暑いだけの日が過ぎていった。
 誰も彼もここにいるのにあいつはいなくて。
 携帯も解約したのか繋がらなくて。
 あの日の約束は、また遊ぼうだった。
 何て言えばここにあいつはいたんだろうか。あいつは俺に何回も言おうとしていたんじゃないのか。教えてくれよ、なあ、
 心にぽっかりと穴を開けたままの状態で俺は大人になった。
 ある日。本屋に寄った。
 そこには有名な賞を受賞して、有名になった本が平積みに置かれていた。
 『有名作家木下樹
 顔を公開インタビュー特集番組、今日放送!』
 ドクンと心臓が高鳴った。
 その顔は、その髪は、その瞳は、その笑みは。
 何処からどう見ても。あいつだった。
 震える手で本を買った。
 すぐに家に帰って、封を切った。
 その本では、樹と言う高校生の男の子と、圭と言う同じく高校生の男の子が駄弁りながらアイスを買うシーンで始まっていた。
 海に飛び込んだり。競争をしたり。花火をしたり。
 何より気になったのは、その物語は樹と圭の一人称で進む。圭の気持ちは、俺があいつに抱く気持ちだったのだが。
 樹の圭を見る気持ちは、そう、まるで、恋だった。
 ふとした時の愛しさ、ふとした表情に潜む気持ち、言葉に隠した心、隠しきれずに言ってしまう囁き、好きと言う気持ちに戸惑い拒絶してしまった日々、抑制して雁字搦めの想い。
 好きと言う言葉を使わずに好きだと伝える毎日。
「…なあ、お前、いつもそんな気持ちで俺を見ていたのか?」
 小説の一節にこんな言葉があった。
『僕は壊れてしまったのかな。同じ男の子なのに、こんな気持ちで。それとも僕のこの気持ちが正しくないといった世界が壊れているのかな。誰にも聞けないんだ。君に言いたいけれど言えない。僕は遠くに行くことにする』
 遠くに行くと言った樹は圭に何も言わずに飛び出すのだ。この狭く狭く無情な世の中から。
 テレビに映るあいつは全然変わってなかった。
「僕は昔好きな人がいて。その人に何も言わずに引っ越して、夢を追い続けました。そいつとは幼馴染で、本に書いたようなことをして最後に遊びました。どうしようもなく好きで、どうしようもなく楽しかった。そいつと本を読むのが好きで、だから作家になったんです。そいつとも将来作家になろうって言ってたんですが、そいつは諦めてしまっていた。約束をしたのですが…まだ果たされていないのです。メッセージ、いいですか?」
 馬鹿だな、俺が見てるって確証も無いのに。
「なあ、お前、悩んでないか?僕にはもうパートナーがいるよ。何も言わずにいなくなってごめん。僕に、会いに来てくれますか…?」
 画面越しにあいつがあの頃と全く変わらない笑みを見せた。馬鹿、何でいなくなった、俺は何にも変わらないままで大人になったのに。
 言いたいことは山のようにあって。涙が堰を切ったように溢れて。
「なんて、届いているか分からないですよね。お時間有難うございました」
 あいつがインタビューに戻った。色々なことを聞かれながらも大人に対応するあいつはやっぱり変わっていた。あの頃とは。どうしようもなくそれが悲しくて嬉しくて。
 本の裏側の帯にパーティーのお知らせがあったのだがもうそれは終了している。
 本の裏を見る。出版社の名前。俺の住む場所はその出版社に近くはないが遠くもない。俺は上着を掴むと家を飛び出した。車に乗って、電車に乗って、地下鉄に乗り、コンビニで金を下ろした。
 タクシーを拾って、乗り込みしばらくしたところで運転手に聞かれた。
「お兄さん、恋人とのデートに遅れでもした?それとも恋人の迎え?仕事じゃないだろうし」
 びっくりして何故か問いかけると運転手は軽快に笑った。
「そんなに急いで。それに長年の勘が愛しい人を待ってるって言ってるよ」
 びっくりしたと同時に笑いそうになった。
「そんなんじゃないですよ」
 運転手は何をしに行くのかと問うてきた。
「気持ちに気づけずに傷つけて、疎遠になっていた親友に会いに行くんですよ」
 運転手はまたも軽快に笑った。
「親友、なんだねぇ。なかなか…青春じゃあないか」
 青春だなんて、この人は俺を何歳に見ているのだろうか。
 運転手は優しく微笑んで俺に言った。
「いや、やり残した青春を捕まえに行くのか」
 言い得て妙、なかなか的を射ている発言に俺は頷いた。
 出版社の前につく頃には、家を出発した時には夜だったのに、もう朝になっていた。流石に開いていない出版社に俺は少し脱力した。
 何やってんだ俺。近くのネットカフェに行き、軽食を摂り少し眠る。昼の十二時になる頃には頭も少し落ち着いてきた。
 チェックアウトする頃には昼の二時を回っていた。
 小走りに出版社に向かうと少し人だかりが出来ていて。期待に胸が疼いた。近づくとどうやら違うようだ。そんなにうまいこといくわけないか。
 肩を落として振り返った。
「…稔?」
「…理人?」
 あいつが、立っていた。
「稔、放送見てたのか?早いな来るの。あれからどうしてた?」
 昔みたいに喋っているあいつを見ていると勝手に涙が零れた。
「稔?」
「…馬鹿!どこ行ってたんだよ!俺がどれだけ寂しかったか分かるのか?!馬鹿!親友だったろ!お前なんか馬鹿だ、馬鹿だ…」
 みっともなく泣いてあいつの肩を押す。
「受け入れられなくてもそばにいる事くらい出来ただろ!馬鹿!馬鹿やろー、」
 あいつは目を伏せて、それから俺を抱きしめた。
「うん、ごめんな。もう大丈夫だから。俺が隣にいなかった間の話、聞かせてよ」
「言われなくても語ってやるよ!後悔しろよ、隣にいればよかったって。親友してれば良かったって。お前の話も聞くからな、絶対に聞くからな、」
 離れて、涙でぐしゃぐしゃの顔で笑う。
 ごめんな。受け止められないよ、好きって言うのは。
 今も昔もお前は俺の親友だから。

「それでもいいか?」

「それでいいよ。さあ、話そう?」 




「「あのな───……」」

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