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「美しく生きる」を論じてみる


何も信じられない事態に絶望し、”正しさ”がないことに疲れている人は、ニヒリズムに陥っていると言われる。

強く絶望していなくても、「何が正しいかってわからないよね」と思う人は多いだろう。

正しさがわからず、多少悶々とした気持ちは残るものの

それでも時間は経っていく。

それでも人生を能動的に生きていくにはどうしたらいいのだろうか?

 

 

 このNoteでは、価値中立的な態度にはとても多くの利点があるという前提のもと、その"価値中立"の限界点を挙げながら、その限界を超えて能動的に社会に働きかける方法を、価値中立的な態度の核心にあるものへ迫ることで考えていきます。

 

 「価値中立的」な立場でメタに世界を分析する人がいます。僕はどちらかというとそういう人だと言われることが多いです。そして場面によっては、誰もが価値中立的な態度をとりうると思っています。"価値中立"は、まず自分の考えを保留し、世の中の正しさとは何か?を再定義しようとする姿勢でもあるし、世の中をそのまま受け入れてみてあらゆる価値を認めようとする慈愛に満ちた態度の中にも見られると思っています。
価値中立的な態度の利点は、自分すらも相対化し、自分の考えの限界点も把握していて、頭ごなしに何かを否定することも無く、そして客観的に広く物事を見る視野が出来上がることでしょう

しかし、実際には生きている限りあらゆる価値に対して中立的な立場などは存在しません。つまり"価値中立"的とは実は幻想なのかもしれないのです。私たちには自分の存在が依拠する現実がある限り、思考的にいかに表面上中立に見えたとしても、必ず自分の立場があり、暗黙の判断があります。そのため私たちは価値判断を止めることなど原理的に不可能なのです。

そして"価値中立"はそれ単体では人生にあまりに役立ちません。そこには「自分がどう行為するか?」「自分はどう生きるか?」の判断はないからです。価値を保留していく姿勢は観察者の姿勢に過ぎません。


  

価値中立を追求しながらもふと湧いてくる問い:「じゃあ自分はどう行為するのか?」

価値中立的な態度に対する積極的な克服として、今からこの問いについて考えていきますが、まずこの問いにはいくつかの前提があることを確認していきます。つまり、どのような人がこの問いにぶつかるのだろうか?ということです。

この問いにぶつかる理由の第一は、価値中立の立場を追いかけて(例えば本当の正義とは何か?を考え続けて)いると、あらゆる価値が相対化されていき、人生と世界に意味が見いだせなくなる、いわゆる”ニヒリズム”に引っ張られることだと思っています。

ここでニヒリズムに危機感をおぼえ、いかに生きるか?について考え出す人は以下のようなことを考えているのでは無いかと考えます。

一 .   ”価値中立”的立場を貫き続けると、最終的には「批評家」として実践者に口を出し続けて自分は世に何の影響も与えられない存在になるのではないか。
二 . 社会に対して”我関せず”の立場で適当に働き適当に消費する「受動的消費者」として一生を過ごすのではないか
三 . あらゆるものの”価値”を考え続けていくと、ただただ価値を超越していく「仙人」になるしかなく、実社会にあまりに適合できなくなっていくのではないか
四 .   上記の人生コースをいずれも歩みたくないと思っていて、もっと能動的に社会に対して働きかけたい(生きたい)と思っている

  


 さて、そのうえで問いに戻ってみます。「価値中立とはいったい何を重視しているのか?」「”価値中立”を重視しながら能動的に社会に働きかけるには何ができるのか?」

 

価値中立の立場とは、あらゆるものの利点と欠点を見ている立場であり、メタ的な思考が得意な人というのは、同じ思考を自分や所属組織に対しても向けて考えを突き詰めることができる人と言うこともできるでしょう。


その発想の根底には、
・完全には正しくないと気付いていながら自分の意見を主張するのは嫌だ
・自分の意見は自分のものでもあるが、それよりも自分を形成してきた環境の影響が大きいと思っている
・他人の話に共感できないところがあったとしても、それはただ自分の視野が狭いだけであるのではないか?と思う
こんな考えがあるかもしれません。
人間という主体を非常に客観的に眺めていると言えます。極論、全ては”運”であって、自分が自分の意志をもって行動しているなんて幻想だ!とまで思っているような立場です。

この見方はより包括的に世界を見ている可能性があるという点で多くの利はありますが、自らの能動的な行動は抑えてしまう形になりがちです

 

 

 それでは、ここから読み取れる価値中立の立場が重視しているものをとりだし、それをもって能動的な態度を生み出すことはできないだろうか?と考えます。


正しくないことを主張したくない「価値中立の立場」が重視しているものは、裏を返せば、一遍の誤りもない「本当の正しさ」であると見ることができます。

自分が能動的に社会に働きかけることによって、まだ見ぬ”デメリット”が世にもたらされることを看過できないと思っている場合、それは完全なる「善さ」を求めている性向なのだと思います。


このようなケースに当てはまる場合、自分の態度をより能動的なものに昇華させようと思ったときに考えられる納得できる立場として、「私は世の中の普遍的価値:真・善・美 を重視して、そのものに対してなら、優劣というものが存在すると認め、真実・善いこと・美しいことを世間に積極的にもたらすように動く」という立場があるのではないでしょうか?そうした普遍的価値に寄って立つ人間になることができるのかもしれません。

 

価値中立をもって、世の中のあらゆる価値判断を再考する態度とは、完全無欠な普遍的価値にむかっていく態度そのものでありますから、この積極的な態度をもっと拡張して、日常の行動の中心にもってくることはできないのか?と考えてみます。


まず、真善美のうち、どのような普遍的価値に立脚して行動することがより素晴らしいか?を考えると、「正しいこと」に立脚するということは特に難しいのではないでしょうか?目の前の一個一個の事象に対してなら、正しいか正しくないかを瞬間的に判断するのは比較的容易だと思いますが、これがいろんな要素を考慮した判断になると大変難しい。正しいと思った行為が、別の場所の人を苦しめたり、長期的な損をもたらしたり(または短期的な損をもたらしたり)ということは多いです。

何が正義であるか?これは突き詰めれば突き詰めるほどに難しいです。倫理的であるとは、言うは易く行うは難し。

正しさには、一瞬の正解などがあるわけではなくて、
常に自分のバイアスに気づきながら、何が正しいのか?を不断に考え続けるこの姿勢こそが、最も倫理的なのではないでしょうか?

何か一定の「正しさ」に立脚して物事を考えることは非常に難しいとするならば、普遍的価値に立脚して生きるという試みは失敗に終わってしまいますが、そうではなく、この見地を脱するには、世界の偶然性や唯一無二であることそのものに価値を”感じる”という感覚、すなわちどちらかと言えば「美」の領域のことが、普遍的価値追求の基軸となるポテンシャルを持っています。

この”美しさ”を感じる感覚というのは、論理的な世界に閉じた話ではないので、何が正しい/間違っているという範囲を超えられる厚みがあります。少なくとも、普遍的な「美しさ」に関しては実は価値を疑う必要が無いと思っています。超主観的な身体感覚を伴っている美しさとは、頭の解釈ではなかなか書き換えることができるものではないからです。逆を言うと、頭の解釈では中々書き換えることのできない自分がどうしようもなく惹かれる「良さ」の裏にはあなたが感じている「美しさ」がある可能性があるということです。この美しいと感じるものは、頭で疑ったからと言ってそうやすやすと揺らぐものではない。高い価値をそれくらい腹の底から感じているものには、正しいかどうかとかの"論理"を超えたところの価値があると思うのです。

 

ここを起点にすることで、真善美すべてを包括した行動の形態が出来上がります。すなわち、まず第一に全ての行動の基軸として「美しさ」を尊重した行動を実行します。けれどそこには常に、それが正しいことであるか?という倫理性の判断と、本当に正しく世界を表しているか?/本当に上手く機能するのか?という真実性の判断を加えます。このような言わば攻めと守りのような関係性で真善美を捉え直すことで、あらゆる価値を最大高められるよつな継続的な行動の様態ができあがるのだと考えます。

  

倫理性(正しさ)と真実性の価値判断の判断基準は、常に更新し続けるべきたぐいのものであるために、それに立脚して行動することは不安定であると思っています。しかし美しさとは、身体感覚で在り、それは自分の感覚という書き換えの難しいものであるからこそ、立脚点として強力です。そこに、独善的にならないような補助線として、倫理的か?や真実か?という問いを立て続ければいいかもしれません。そして、こうした観点が統合されてゆき、善いことや真実性の価値判断を内在化して「美しさ」を判断できるとき、そこには身体感覚をもった疑いようのない、「普遍的価値への一瞬の判断」が完成する。そんなことは永遠にできないかもしれませんが、そこに近づき続けることに価値があると思います。

 

 さて、ではこうした普遍的な価値はどのような形で世の中に現れているのでしょうか?特に「美しさ」を基準としたときに、その価値は世界にどのように現れているのでしょうか?

 

例えば、絶対にその人やモノにしか表せられない独自性をもった表現を見たとき、その本質が世界に顕し出されている証左として、「美しい…!」と思うことはないでしょうか?「唯一無二であることそのもの」に人は価値を感じることが多く、人間に内在された性向として、自分なりに”美しいもの”を求めているのだと思います。そしてまた、この何を美しいと思うのか?というセンサーすらも、特に唯一無二なものとなっている気がします。

 

自然をみて感動する心、世界を説明する数式を美しいと思う心、絵画を見て感動する心、これらは世界という存在自体がもつ唯一無二性を感じたとき

また人生の悲哀のストーリーを見て美しいと思うかもしれないし、人の強烈なこだわりに美しさを見出すかもしれない、あとは全く無意味な行動をとってどんちゃん騒ぎをしていることにも”美しい”と感じるかもしれない。それらは、一見不合理でも”だからこそいいんだよ”という、判断が入っていると思う。そこにはその特定の個別の独自なものが帯びているイキイキとした唯一無二であることの価値を感じることができるのではないでしょうか。



人の命は基本的な価値において平等だという発想も、例え表層的な能力には違いがあったとしても、根底のところでの「生命」は唯一無二である. という唯一無二性を大事にする考えと言うこともできますし、唯一無二の価値を認めることには、「良い」という価値判断―――「正しさ」の判断と言っても良いかもしれません―――が密接に絡んでいるのではないか?と考えられます。

人が画一的で無機質な生産物に対して、中々思い入れが持てないことや、逆に自分の独自性を求めて自らのアイデンティティを問うこと、自分にしかできないことを通して人生に喜びを見出そうという発想をとることにも、そんな意識が表われているのではないでしょうか。

ちなみにここでいう唯一無二なアイデンティティとは、自分の存在不安をかき消すためにすがりつくような独善的アイデンティティの話ではなく、人の心の本質としてのアイデンティティの話となります。



そもそも、もっと深い意味でいくと、人間が「○○をできるようになりたい!」と思って、その実現のために動く行為そのものが、その人の中にある可能性を開花させようとするオリジナルの衝動であり唯一無二性を持ってると思うんです。また、あなたという人間は、あなたであるという時点で唯一無二です。もしもあなたを構成するのと同じ遺伝子をもって別の時代・別の場所に生まれたとしても、そこで経験する内容は違うので、脳はオリジナルとは違う神経回路を持ちます。そのため、例え遺伝子までもが同じだとしても、環境の設定がどうやったって変わってしまうので絶対に同じ人間にはなれません。今この瞬間を生きているあなたが、ここまでオリジナルのストーリーを歩んできたという事実が、唯一無二の存在であるということを表しています

即ち、ただ生きていることそのものが唯一無二性を帯びる。そしてその生命が持つ唯一無二性に目を向け続け、あらゆる人に対して輝く美しさを感じることは可能である。

さらに深めていけば、何かが"ただ動いている限り"、そのものの全くの替えが効くような存在はこの世には無く、世を流れる動きそのものに唯一無二性の根拠があるがあり、普遍的価値があると言うところまでいけるでしょう。普遍的価値の本質は唯一無二性であり、唯一無二性の本質は"流れ"そのものである。


ただ、こうした普遍的価値を”より高めていく"(もしくは正しく世の中に表していく/伝えていく)ためには、周囲の環境・社会のなかで、その存在主体(ある人間や集団、コミュニティ)が”唯一無二性”を発揮している!と思われる(="認知される")ことも重要な要素であり、そういう意味では、わかりやすい「唯一無二性」の入り口を表現し、魅せていくことは依然として大事であるとも思います。人の気を惹くだけに見えるような独自性を表層的だと断じてしまって本質に閉じこもっていてもしょうがなくて、特に社会に働きかける場合は、そうした「印象」という現象はむしろ非常に本質的なものであり、印象の力学が世界を動かしていきますから、我々としては、この唯一無二性の価値をそのままストレートかつ受け取りやすい形に表現した表層的独自性をも帯びていくことで、よりその価値を高めていくことができるのではないかと思うのでした。

  

 さて、このように個別のものがもつ唯一無二性を重視し、その結果として美を尊重することになるという普遍的価値を達成するという考え方のとき、これは実社会においてどのような能動的行動として表現できるでしょうか?

 

ここで1つ提案してみたいのが、『人(や物)がもっているポテンシャルを引き出し、その人(や物)の唯一無二性を開花させるよう働きかける』ことにトライするということです。人それぞれが持つユニークネスを引き出し、活かし、その人が持つ唯一無二の感性だからこそ見える世界と、そこに潜む普遍的価値な価値の表現を手伝っていく、そのように働きかけることは、本人にとっても、また社会全体にとっても大きな価値をもつ能動的な活動になりうるのではないでしょうか?

 

人や物とは、人に限らず、物、会社、組織、業界、コミュニティ、なんでも言えることだと思っています。自分自身に対しても言えます。

あらゆるものが、自らの内に秘めるそのポテンシャルを最大限に開花させられれば、どんなに「美しい」世界が顕れるだろうか?
 

個別の対象がもつ、唯一無二のポテンシャルを最大限に発揮できるようにする手助けという行為は、世界が内在する唯一無二性を大事にする行為なのだと思います。それは世界を愛する行為。そしてこれは、ミクロな目線でみれば、個別の対象がもつ濃縮されたストーリー(存在の背景)を見るという意味での美しさを持ちますし、マクロな目線でみれば、世界に横たわる普遍的なすばらしさを見るという意味での美しさを持ちます。これは前者が、個としての美、そして後者は普遍としての美であると整理しています。

 


そしてこの美しさを主張する僕自身は、自分がここまで行ってきた人生そのものが表すストーリーとして、いくつかの特徴を挙げられます。「自分のポテンシャルをどこまでも開花させたい」「不可能を可能にしようともがく」「どこまでも本質に迫りたい」「自他未分離の共存共栄」など、これらを強い価値観として持って生きてきているつもりです。

それ故に「ポテンシャルの開花」という事柄を中心軸に置き、そこを通して自分が社会と接する、というのは非常に僕自身の人生から現れる普遍的価値であると感じます。個のオリジナルなストーリーの中にある普遍的価値であると感じるのです。

 

 

 

さきほど、「唯一無二のポテンシャルを最大限に発揮できるようにする手助けという行為」を提案してみましたが、ここで再び「何かに対して働きかける立場」に関して"倫理性"の議論に戻ってみようと思います。本当の価値中立なんて無いんだという話のことです。価値中立なんてありえない、つまり、何かに対して働きかけることには、必ずバイアスがかかるし、そこに自分の独善的な方向への誘導が入るのではないか?という倫理的な問題です。

そこで、独善に陥らないために、例えば「私は価値判断を下さない、私はあなたに影響を与えないけど、あなたがやりたいことを尊重します」というあらゆる意見を尊重しますというような態度で人を手助けすることもだきます。しかしこの場合に責任が重いのは、例えば職業として人をサポートする人など導く方の立ち位置にいる人だと思います。上司・先輩などの導く人、教育者、リーダー、そういった人たちが「私は価値判断をくださない。すべてを尊重します」と言うと、これは自らが何かしらの価値判断を絶対に下しているという事実を無視し、自らの価値観に対する責任を放棄していることになってしまう懸念があるのです。

そのため本当に倫理的だと言えるのは、自らの立場について考え、その立場をできる限り表明しつつ、相手に影響を与えることの責任を負うことであると思います。この立場、私の目線、私の主観からすればこういう意見だ、と言うことの方がよっぽど誠実だと思うのです。立場に責任を持つとは、他者になんらかの影響を及ぼす変とき、自らもまた変えられることを覚悟している状態のことを指します。他者を一方的に操作することなど本当はできないのです。そんな錯覚をすることもあるかもしれません。しかし他者操作的な立場に立った途端に一見客観的である態度を出すことはできますが、それは静かな傲慢さとすごく近い距離にあるのでした。


なので、これもまた価値中立という立場の議論になりますが、世の中にある何の価値観とも癒着しないことで思考の潔癖性を保ちたいという立場は原理的には成り立たないし、無責任になる可能性もあるのです。価値中立的な立場とは、本当は基本的にはあらゆる価値観の利点のみを取り入れたいという積極的な姿勢だと思っていますが(往々にして、自分のこうした特徴に気づかずに自分はただ中立的で、多様性を重視しているだけだという表層的な自己認識に留まりがちですが。)、そうたし積極的な立場をもって能動的に社会に働きかけるとき、何の理念をも重視しないのではなくて、その価値中立であろうとする”動機”である「良いものの良さを認める。環境と文脈によっておこる病理(デメリット)を減らしたい」という価値観を昇華させ、そこに「普遍的価値だと自らが信じることと比べて、病理だと思われるものには、その治癒を施すことを志向する」という立場を付け加えた上での、「ポテンシャル開花」と言うことができる。


そのとき、人のポテンシャルを開花させる行為には、その人が行おうとしていることに価値判断を下さず、その潜在能力がより普遍的価値に近づく方向に自分が誘導することは積極的に自覚し、その行為に対する責任を持つ、すなわち影響を受けることへの心構えを持つ=自分の考えや心の様子が変わるかもしれないことへの開かれた心を持つ、ということができます。


 

さて、ちなみにですが、ここまでのこのNoteの話は、こちらのTweetの主張を解説することを試みることから始まりました。



「やはり自分は、「発掘する」というスタイルがあっている。世界に内在する「すばらしいもの」を”発掘”する。操ったり、生み出したりするのではなく、サラッと外から。」

 このツイートについて改めて解説しつつ、普遍的価値に立脚した立場を解説して、話をまとめようと思います。

 ここで言う「すばらしいもの」とはなにか?例えば、人がもつ「すばらしいもの」とは、ここまでの議論で述べた通り、何か良きものをこの世に顕し出せそうなポテンシャル(潜在的な力)のことです。ただし、これは「人」に限定した話ではありません。例えば、「組織」というものがもつポテンシャル、日本という社会がもつポテンシャル、あるモノがもっているポテンシャル、ある場所がもつポテンシャル、僕がもつポテンシャル、あなたがもつポテンシャル、そういったものを指します。

これらは世界の圧倒的な偶然性の中で生まれてきたものであり、そのポテンシャルを開花させること自体は、世界をより多様で豊かな場所にすること、そしてそれらの各「主体」が、自ら進みたい方向に進み、幸福になることに繋がる。

”「すばらしいもの」を発掘する”ことは、無から有をつくりだすのではなく、ある対象がもつポテンシャルを引き出すという「 ”既にある” もの の ”良さ” を、埋もれていた状態から引っ張り出す」というニュアンスがこめられることになります。

 


 なぜ「素晴らしいもの」を「操る」(などの操作するニュアンスの言葉)では無いのか?
これは疑うことが難しい、「世界に内在している驚異的な唯一無二性」を自らの能動的行動の立脚点にしているならば、そこには常にその「ポテンシャル」をつくりだしている世界の神秘に対する畏怖の念があるはずで、そこにみずからの非常に狭い価値判断をもって、対象を己のために操作的に利用することは、おこがましいという感覚があるからです。
”操作”自体は絶対に起きてしまう事象かもしれませんが、そのことに責任を持ち、操作の結果起こることに対して後始末までやる意思を常に持っておくことが重要だと思います。また、"操作してしまう自分"を無自覚に、または自覚していながらも野放しにしてしまうことは非道であり、避けるべき事態であると思っています。

だから、「サラッと外から」の介入を望むのです。不用意に踏み込むことは、毒となる可能性があるのです。例え踏み込んでいくのだとしても、人への抑圧を起こさない繊細な介入のその延長で向かう姿勢が求められるのです。



 また、「すばらしいもの」を「生み出す」わけでもないのです。「発掘」なのです。そこにすでにある価値を掘り出してゆくのです。それは生み出す行為とは言えず、既に生まれていたものへの働きかけに過ぎないのです。
本当の意味で「生み出す」行為とは、何かの対象がもつポテンシャルを意図的に組み合わせて、とにかく素晴らしいものを世界に創りだす行為だと思っています。ポテンシャルは世界に秘しているものであり、それを表すという話です。ここで言うポテンシャルとは、それ自体は神聖な性格を帯びていて、とても(無理矢理)生み出すような性格のものでは無いと思うのです。


また、一方で、他の存在のポテンシャルを引き出していく、発掘していく行為とは、自分の自由で無邪気な振る舞いの結果として起きる事象であり、それそのものを狙って行うというのも不自然な行為だとも言えると思っています。

自分のポテンシャルを発揮することを最重要視する結果、他のポテンシャルもまた花開かれていくのです。自分のポテンシャルを発揮すると聞くとイメージが涌かないかもしれませんが、これは、自分が感じる「これって価値あるよね!」という感覚を無邪気に使っていくようなイメージです。世界に対する無邪気な働きかけです。より主観的です。そしてこれ自体は、能動的です。多くの人がとれる立場であり、これはこれで一つの大事な在り方だと思います。

 まとめてしまうと、本質的には「生み出す行為」と、「発掘する行為」というのは、ほとんど同じだとは思います。意識の向け方(ものごとのとらえ方)として、”ポテンシャルを引き出している”と認知するのが発掘ですが、自分で好き勝手にやっているというニュアンスを大事にすればそれは”生み出す”なのだと思います。

なので違いをあげるなら、ポテンシャル開花の”主体”の目線が、
・自分以外のものがもつポテンシャルに重点を置いた意識の向け方をするか
・自分を軸にしたポテンシャルに重点を置いた意識の向け方をするか
の違いなのです。

最後に「発掘する」という行為を深めますと、これは自分以外の世界が既にもっている可能性を積極的に発見することに喜びを見出だす立場です。人間1人をとっても、あらゆる可能性を秘めています。環境がうつればいろんな能力が顕れてくるし、新しい物事に挑戦すれば見えていなかった新しい側面がでてきます。唯一無二の現在の自分がもつ、その可能性の広大さを考えてみたことはあるでしょうか。そしてそれは他人も全く同様で、他者の中にある変化への衝動は、その人がまったく新しい人間になっていくことを可能にします。広い世界のあらゆる存在も同様です。社会がもつポテンシャル、コミュニティがもつポテンシャル、道具がもつポテンシャル、いろんなものに、そのポテンシャルが世界に現れたときどんな姿を見せるのだろうか?と想像することができるし、その壮大さをただただすごいと感じることができます。その価値に力点を置いたとき、人は「すばらしいもの」「発掘する」行為に喜びを見出すのだと思います。

そして自分の心の奥にある、この唯一無二の輝きを世に表現しようとしたときに、私たちは「生み出す」行為=真の創造に駆り立てられるのです。

まとめ

世界の無意味さを乗り越える考え方に、普遍的価値を大事にする立場というものがある。

普遍的な価値には、唯一無二のストーリー(存在の背景)がある。それゆえ普遍的な価値を大事にする立場とは、ただただ感覚的に、「唯一無二」の美しさを愛でることでもあり、それはまた、存在から紡ぎだされるポテンシャルの展開を見ることでもある。

判断の基軸を自らのセンサーが働く"美"におき、そこに善と真への判断を加え続け、未来を描く自分へと近づいてゆく。
→正しさをアップデートしていく余地を残しながら、自分の行為に確信を持てる、普遍性への行動基準を持つ
 
これによって、世界を主体的に生きながら、善悪・真偽の判断を見失わず人生という旅を歩いてゆける。

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