④ 集団内の物語は、集団の「外」に支配されて展開される。
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集団(これは国家の規模から、小さなコミュニティまでを指します)の対立は、まず内部のいがみあい、責任はどちらにあるのか?そんな話からたいてい始まります。
対立の解消に向けては、
まず、あの人と比べて自分は優れてる? 劣ってる?そんな話は置いておくことが重要です。しかし、それすらも難しいのが、対立です。では何をしたら良いのか?どう考えたら良いのでしょうか?
まず自集団が集団の"外"の世界の長期変化(外環境変化)に対応できてゆくか?に目を向けることで、あらゆる対立は、自ずと解消されると思っています。問題の所在を、次元を1つ変えることで、そもそもそんなもの無かったという状態にするのです。
長期的な 人・モノ・場所(街) の変化や自然現象の変化を読み、そうした"外"への対応を考える。集団の"内”の違いや対立を考えるのはそれからでも遅くないのではないかという言明を放つ。
先に"集団内"から始めると、本質を見失った議論のまま、先にどんどんと進んでいく。人間関係そのものが目的である(=集団内しか見ていない)集団は、自然解消するのです。人間関係自体が目的である関係性には、圧迫感もあるのです。そのため、集団内にばかり目が向かい、集団の外の目標や、共有するビジョンや、『希望』が無ければ、良き未来を創るための活動だったはずのものが、気づけば「見栄の張り合い」「有利な立場の取り合い」ゲームに成り代わってしまう。これが人間のサガであるように思います。目的が、ビジョンが、希望が、人と人の物語を、より合わせます。
先に自集団の“外"を捉える。
自分の希望な願望はおいておいて、"外"の、それも動かせそうもないくらい確度の高い大きな現実な流れを簡単に考える。動かしがたい現実を前に、われわれはどう対処するのか?という話をする。みな一人一人では無力であり、力を合わせる必要があるというところから始める。
そうすれば、まず"内”の対立やごたごたの前に、ある程度全員が当たり前に共有する外の環境での「経験」を語り、そこを出発点とする物語のはじまりの"思い"・納得する"価値”が自ずと見える。その上で内側のごたごたとしたプロセスに踏み込み、そこで展開される物語を歩む。
分かりやすくいえば、たとえば災害対策どうしようとか、少子高齢化で街の構成が変化するとか。企業なら、売上先細りをどうしようとか。。。
集団(=場(フィールド))がもつ、「展開する物語」には、新しい思いがけない何かを生む力(生成の魔法)がある。
それが集団の"外部"への新しい対応策に繋がる可能性がある。
だから、集団の沸騰や沈静の浮き沈みといった物語は、勝手に起こるものとして気楽に展開させつつ、むしろそこから集団"外部"の変化を乗りこなすのに使えるヒントが無いか?目を光らせる。
物語は黙っていても展開する。
その中の諸現象に心を奪われてしまって、創り出したい未来へのフォーカスを外してはいけない。
展開する物語の中でも目線は外。
人類は集団で厳しい自然の中を生き抜くようにデザインされている。
創り出したい未来にフォーカスする限り、あらゆる対立は無かったものになり、われわれは高い目的のための良い意味での手段となり、充実感と共に、すべてが意味のあるプロセスだったのだと悟る。そのような次元に入る。
そして話は少し変わって、「外」の環境と、「素材」についての話
「素材」は「自然」。これまでの長い"外"の変化に乗ってきて、 いまの素材や、それを扱う技術がある。「素材」は創造のプロセスの中で最もミクロな構成要素でありながら、それが自然に由来しているという点で、圧倒的に「外」なる存在なのである。つまり、集団の「内」という精神世界を出て、素材という、人の手元にある「外」を見ると、それが広大な外環境とつながっていたと分かる
何を創るか?それをどんな文脈で使うか?/ 見せるか?どんな影響を他者に与えるか?
そんな人と人の物語を展開する前に、
まず素材とその加工技術という、ここにもまた動かし難い"外部"としての「現実」があった。
創造物は、何を創るか?の意図よりも先に、素材と技術にその完成形を極端に左右されているという当たり前の現実に気づく。
素材一つ一つに違った声がある。人間1人1人に個性があり身体があり、つまり"自然"があるように。素材1つ1つに"自然”がある。
「創り出したい!表現したい!」とかそんな人間の気持ちより先に、そんな思いとは全く関係なく、人の力じゃ圧倒的にどうにもならないところに"自然"があり、素材もそこにある。
人の営み、その物語は、外部変化という現実のの中で展開するが、それ以上に、外部変化を象徴する"素材"自身に秩序を形づくられてすらいる。どのような素材を扱う集団なのか?によって、集団の性質すら規定される。
外への対応を集団で行う、というところから始まり、そして集団の内で展開していく物語は、手元に存在する"外を象徴する"素材無くして育たない。
一見、物語の中に含まれ、核を成しているものが実は"外"(物質)。それが"素材"(物質)。
素材は歴史を持ち、これまでの外部変化を象徴する。たった1つの木の切れ端が、それまでの何百万年もの森の歴史を象徴することだってある。この素材1つに対する、外部の入り込みに驚かされる。
現実としての素材がもつ「質感」をなぞる。素材とは動かし難い現実であるからこそ、この素材が行こうとしていてる方向を聞く。現れたがっているカタチを、素材の気持ちになって導いてみる。
素材は"外部"に属するものだからか、素材の声を聞いて創造していった先には、外部変化への対応に重要なパーツがいつのまにか見つかったりもする。少なくとも世の流れから言って、自然な創造物が生まれてくる。
そうして素材という現実は、人間の物語の中でその本質らしきものを顕し、人間の物語を世界の長期変化へと接続する役割を果たす。
マクロ by ミクロ。
すなわち、われわれは気づいていないだけで、人間の物語は徹頭徹尾、外部に秩序立てられているのかもしれない。我々は自然の内部でサバイブしているため、それが当然、ということか。
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