言えないよ
プロローグ
雨が降っている。
冷たい雨が肩に、頭に降り注ぎ、薄いシャツの繊維を肌に張り付かせる。その冷たさは、むしろ痛みに近い。街灯の明かりが濡れた道路を照らし、無数の光の粒が揺れている。目を閉じれば、その光がかつての記憶と混ざり合い、微かな暖かさを生むような錯覚を覚える。
「言えなかった」と、心の奥底で呟く。
簡単な言葉だった。たった五文字。「 」。それを言えたなら、あの日の結末は違っていたのだろうか。
雨音が遠くなっていく。
いや、街の喧騒が遠のいたのかもしれない。音が消え、光が消え、思考が鈍化していく。世界の中心にいるのは僕ではなく、彼女だった。いや、いまだにそうであると信じたい自分がいる。
あの日のことを思い出す。
彼女は笑っていた。
鮮やかな色彩の中にいた。スカートの裾が風に揺れ、虹のような柔らかな光が彼女を包み込んでいた。
「ねえ、なんでそんな顔してるの?」
何度もそう言われた。僕はいつも答えに詰まり、視線を逸らすことしかできなかった。
彼女の笑顔は、真夏の太陽のように眩しかった。それに触れるたび、自分がどれほど影の中にいるのかを思い知らされた。彼女は僕を引き上げようとしていたのか、それともただ寄り添ってくれていたのか。いずれにせよ、僕はその手を強く握り返すことができなかった。
雨粒が首筋を滑り、胸の奥に冷たい重みを残す。耳だけが異様に熱い。自分がこの場所にいる意味が分からない。彼女が去ったその場所に立ち尽くすことしかできない。
あの日、彼女の後ろ姿を見送った。
足元には赤い花びらが散らばっていた。彼女が持っていた花束の一部だったのだろうか。いや、それすら気づかなかった。
「なぜ何も言えなかったんだろう」
何度も自問する。何度も同じ答えに行き着く。
怖かったのだ。
「 」と言うことで、何かが壊れてしまうのではないかと。
その恐れは、今思えば滑稽だ。壊れるのを避けようとして、結局何もかも失ってしまった。
目の前の交差点で信号が青に変わる。
人々の群れが前進し、道路を横切る。誰一人として僕に気を留めない。それでいいと思う。それが自然だ。
ふと、空を見上げた。雨の向こうに霞む街灯の光が、彼女の笑顔を思い起こさせた。その光景に胸を掴まれるような絞扼感を覚える。いや、それは記憶の断片がもたらす痛みだ。
あの時も、僕は彼女の背中を追うことができなかった。ただじっと見つめることしかできなかった。
手のひらが濡れているのは雨のせいだろうか。いや、それだけではないような気がする。
街の音が戻ってくる。車のクラクション、スマホを操作する人々の足音、遠くで誰かが呼ぶ声。
彼女の名前を口にしようとした瞬間、喉が締め付けられる。
雨の音が鼓膜を叩く。彼女の姿が見える気がする。いや、それは幻だ。そう理解しているのに、どうしても目を逸らせない。
「もう一度だけ、彼女に会えるなら――」
その思いが胸に湧き上がる。けれど、その願いが叶うことはないと分かっている。彼女はもう遠い世界にいるのだ。僕が届かない場所に。
雨が少しずつ弱まり、空が明るみを帯び始める。けれど、僕の心に残る暗闇は、まだ消えそうにない。
彼女に会えるのなら、今度こそ、僕は「 」と伝えるだろう。
そう思いながら、僕は歩き出す。
第1章:出会いと初恋
大学のキャンパスは、夕暮れ時になると金色に染まる。大きな欅(けやき)の木の影が地面に長く伸び、その下を学生たちが忙しそうに歩き回る。僕もその一人だった。音楽サークルの部室に向かう途中、ふと見上げた空は紫と橙が混ざり合い、絵の具をこぼしたように美しかった。
そのとき、彼女が現れた。
風に揺れる髪は栗色で、夕陽を浴びてきらきらと輝いていた。白いシャツにデニムのスカートという飾らない服装だったが、なぜかその姿は眩しく、目を奪われた。
彼女は手にギターケースを抱えていた。細身の手がケースの取っ手をしっかりと握りしめている。その横顔は、どこか遠くを見つめているようだった。
「君もサークルに?」
気づけば僕は声をかけていた。彼女は驚いたように顔を上げ、すぐに微笑んだ。その笑顔が、空の紫や橙よりも鮮やかで、僕の胸に深く染み込んだ。
「うん。今日、体験入部に来たんだ」
彼女の声は軽やかで、風鈴の音のように耳に心地よく響いた。僕は一瞬、何を言えばいいのか分からなくなった。
「あ、そうなんだ。じゃあ案内するよ」
少し緊張して言葉を継ぐと、彼女は「ありがとう」と言って僕の隣に並んだ。その瞬間、僕の鼓動が一拍速くなったのを感じた。
歩き始めて少しして、彼女が笑顔で話しかけてきた。
「そういえば、あなたの名前をまだ聞いてなかったね」
「ああ、僕は春翔(はると)。このサークルに入って2年目になるんだ」
「春翔君ね。私は葵(あおい)。今日は友達に誘われてきたんだけど、こういうのは初めてだから、ちょっと緊張してる」
「葵さんか……いい名前だね。なんか、春っぽい感じがする」
「ほんと?ありがとう。でも、春翔君の名前もすごくいいよね。春の翔けるって、なんだか詩的だなあ」
その言葉に少し照れくささを感じながらも、僕は自然と微笑んだ。
部室に向かう間、葵は笑顔で話し続けた。彼女の声は、音楽の旋律のように僕の耳を包み込み、そのたびに胸の奥で小さな灯りがともるようだった。
「私、あんまり人前で弾いたことなくて。ちょっと緊張してるんだよね」
葵がそう言うとき、指先がギターケースをぎゅっと握りしめた。その仕草がひどく人間らしくて、僕は自然と「大丈夫だよ」と言葉を返していた。
サークルの部室は古い木造の建物の中にあった。床が軋む音と、窓から差し込む夕陽が部屋の雰囲気を柔らかくしている。
葵は周囲を見回しながら、「なんだか懐かしい感じ」と呟いた。
初めてギターを弾く彼女の姿を見たとき、僕は息を飲んだ。指先はまだぎこちなかったが、一音一音に込められた感情が、真っ直ぐに伝わってきた。音の色は淡いピンク色で、柔らかな光を放っていた。それを見ていると、僕の胸に小さな火種が生まれるような感覚がした。
「すごく良かったよ」
思わずそう言うと、葵は頬を赤らめて微笑んだ。その笑顔に、僕はまた言葉を失った。
帰り道、二人は並んで歩いた。夜空は深い藍色に染まり、星がぽつぽつと顔を出していた。葵は空を見上げながら、「こんな空、久しぶりに見た」と呟いた。
「葵さん、星とか好きなの?」
「うん。子どもの頃からずっと。星っていいよね、何も言わないけど、ずっとそこにいてくれる感じがして」
その言葉に、僕は心臓を掴まれたような気がした。彼女はきっと、自分が言葉にできない何かを既に理解しているのだと思った。
「君のギター、また聴きたいな」
そう言うと、葵は僕の方を見て、目を細めて笑った。その笑顔は夜空の星よりもずっと鮮やかで、僕の記憶に深く刻まれた。
その夜、僕は布団の中で葵の顔を思い浮かべていた。彼女の笑顔、声、そしてギターを弾く姿。それらが頭の中をぐるぐると回り、眠れないまま時間だけが過ぎていく。
「彼女に……何を伝えればいいんだろう」
心の中に芽生えた感情は、まだはっきりと形を成していなかった。それでも確かに燃え始めていた。彼女の笑顔が夜空の光のように、僕の人生を少しだけ明るく照らし始めた
第2章:恋の始まり
季節が変わり、がほんのり冷たさを含むようになった。大学のキャンパスは秋の色彩に包まれ、地面には黄金色の落ち葉が散らばっている。僕たちの距離も、それと同じくらい自然に近づいていった。
葵は、いつも笑顔だった。どんなときも、彼女と話していると心が軽くなるような気がした。僕のように考えすぎる性格とは正反対の、自由で伸びやかな人だった。
「この曲、聴いてみてよ」
そう言って、葵がイヤホンを片方だけ僕に差し出したのは、ある放課後のことだった。差し込まれる音楽は穏やかで、でもどこか寂しげだった。メロディーが鼓膜に触れるたび、僕の心には小さな波紋が広がった。
「好き?」
彼女が問いかけてきたとき、僕はすぐに言葉が出なかった。どう答えるべきかを迷う癖が、僕にはあったからだ。でも、そのとき彼女は、僕の表情を見て納得したように微笑んだ。
「好きだと思ったよ。その顔見てれば分かるもん」
葵はそう言うと、またイヤホンを耳に戻し、音楽に身を委ねた。僕はそんな横顔を見て、胸の奥が熱くなるのを感じた。
それから僕たちは、よく二人で過ごすようになった。授業が終わるとどちらからともなく連絡を取り合い、カフェで話をしたり、街を歩いたりした。
ある日、僕たちは駅前のベンチに座っていた。冷たい風が頬をかすめ、彼女の長い髪がふわりと揺れた。
「言葉ってさ、難しいよね」
突然、葵がぽつりと言った。
「どうして?」
僕が聞き返すと、彼女はしばらく考えるように空を見上げた。
「思ってること全部を伝えられるわけじゃないでしょ?だから、足りない部分をどうやって埋めるかが、難しいんだよね」
その言葉に、僕の胸が強く締め付けられた。僕自身、彼女に伝えたいことが山ほどあった。でも、それをどう言葉にすればいいのか、分からなかったのだ。
「でも、春翔は言葉じゃなくても、ちゃんと伝わるタイプだと思うよ」
葵が微笑みながらそう言ったとき、僕は何かに救われた気がした。
季節はさらに進み、冬の匂いが街に漂い始めていた。夜の街は白く輝くイルミネーションで彩られ、その光の下を僕たちは歩いていた。
「寒いね」
葵がそう言いながら手を擦る仕草を見て、僕は思わずポケットの中の手を握りしめた。何かをしたかったが、どうすればいいのか分からなかった。
そのとき、葵が歩みを止め、こちらを振り向いた。
「手、冷たい?」
そう言いながら、彼女は自分の手を差し出した。僕は一瞬戸惑ったが、その手に触れると、思いのほか柔らかくて暖かかった。
「ほら、冷たいじゃん」笑いながら言ったその瞬間、僕の胸の中にいたずらに灯った火が、大きな炎へと変わっていった。
その夜、僕は眠れずにいた。彼女の笑顔、彼女の声、そして触れた手の温もりが、頭の中で何度も繰り返される。
「 」と言いたい――その思いが何度も浮かんでは消えた。だが、どうしても言葉にすることができなかった。もしその言葉を口にしたら、今の関係が壊れてしまうのではないかという恐れがあった。
僕の中に芽生えたこの気持ちは、彼女には伝わっているのだろうか。いや、伝わっていないのだろう。それを確かめる勇気さえ、僕にはなかった。
彼女はきっと、この僕の不器用さも受け入れてくれるだろう。でも、その甘えが、いつか僕たちの間に壁を作るのではないかという不安が頭をよぎった。
その夜、窓の外に降る雪が、街の光を吸い込むように静かに積もっていた。僕の心の中の言葉も、同じように音もなく積もり続けていく。
彼女に伝えたい気持ちが山ほどあるのに、どうして僕は何も言えないのだろう。そんな自分への苛立ちが、雪明かりの夜をひどく長く感じさせた。
第3章:すれ違い
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