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Polar star of effort case1 アスリートとアスリートに関わる全ての人達に・・・

    Case 1  14歳男子 陸上競技部 短距離
 
秋も深まり、冬の訪れが近づいたころ、母親に連れられ来館してきた中学生、谷沢 秀斗。
 細身で175cmの長身、口数は少ないが真っ直ぐな視線が負けん気の強さを感じさせた。
 小学生の頃から脚が速く、特に練習もしていないのに走り幅跳びで市の大会で優勝するなど身体能力の高さを窺わせた。その経験から中学で本格的に陸上を始めることにしたという。
 中学1年の秋の大会までは順調にタイムは伸び、100mでは「12秒63」を出したという。ところが、中学2になってから自己ベストを更新できないでいる。背も伸びて、筋肉もついてきたはずなのに、どう考えてもおかしいと感じ、私の施設を覘いてみたとのこと。
 早速身体のチェックを行う。一目で分かるのが上半身は比較的細いのに対し、太腿とふくらはぎの筋肉が大きく、身体の使い方のバランスが崩れていることを物語っていた。
 さらに特に目立ったのは、前屈の制限。膝を伸ばしたまま手を床に近づけていくと、指先が床から15cmも離れていた。
 これは中学2年生、14歳の陸上短距離選手としては深刻な問題と言っていい。速く走る以前に、このままでは、腰痛や下肢の肉離れなどの傷害に見舞われるのは時間の問題と言わざるを得ないからだ。よって、走る動作云々もあるが、大腿裏の筋肉であるハムストリングスの柔軟性向上が急務と判断した。

  ハムストリングスは大腿部の裏側にある筋肉で、競技パフォーマンスの向上に重要と言われている有名な筋肉の一つである。
 太腿を後ろに動かし、膝を曲げる筋肉なので地面を蹴って身体を前に進めるよう働く、よってパフォーマンスの向上というとハムストリングスの「筋力」に目が行きがちになる。
 だが、実はパフォーマンスを左右するのは「筋力」よりも「柔軟性」である。
 チェックしてみよう。
 まず、ポイントの一つが、「長座」である。「長座」をストレスなく楽にできるかを見てみよう。
 楽にできるか否か、左右するのは骨盤の傾きである。骨盤が前に倒れて、太腿の上に乗るようなポジションが取れれば、楽に長時間座ることが可能。
 ところが、骨盤が後ろに倒れてしまっていると、腹筋が疲れてしまい楽に座ることができない。無理に前に倒そうとすると太腿の裏が痛くて耐えられなくなる。

果たして秀斗君はというと、完全に右側だった。
「前屈-15cmなんだから、そりゃそうだろうな・・・」と心の中で呟いた。
本人に聞くと、やはりストレッチは痛くてキツいから嫌いだと言う。だから部活で行うストレッチも早々に終わらせて走る練習を始めるとのことだった。
 秀斗君もそうであるように、速く走るために柔軟性が重要であることを本当の意味で理解している子は少ない。
 秀斗君が速く走る為に重視しているのは「蹴る力」、臀部、ハムストリングス、ふくらはぎの筋力だと言う。
 身体の前面ではなく裏面に視点が行っているのは、なかなか良い。
 しかし、残念ながら速く走る為に最も重要なのは、「重力を利用する」ことと、「柔軟性」なのである。
なぜそう言えるのか? 人間が速く走るためには・・・・・

 まず推進力、前に進む力 イコール 下肢の筋力。ではなく
 前に倒れていく力、地面に引っ張られる力 イコール 「重力」なのである。
 直立した状態から、骨盤を前に倒していくと重心の位置が前方へとズレていくため、身体が前に倒れていく、このまま何もしなければ、地面に顔面を強打してしまうが、そうならないように人間は反射的に脚を前に出すのである。
 極端に言うと、歩く、走るとはその繰り返しなのである。
 つまり、推進力は「倒れる」こと

 より速く走るには、骨盤を前に倒す角度を大きくすればよい。
 極端にやると、こんな感じ。

 ここまで骨盤を前傾させると「倒れる」スピードは、かなり速くなる。
 ハムストリングスの柔軟性が保たれていれば、お尻が高い位置で、なおかつ体幹部の姿勢を崩すことなく重心の真下で足底を着地させることができる。

 すると、ハムストリングス、殿筋の張力を引き出すことができ、倒れるスピードをハムストリングスの張力により、さらに加速させてくれるのだ。つまり、感覚的には「勝手に走る」ように感じるのである。

 ところが、ハムストリングスが硬いと勢いよく倒れた身体が転ばないように脚が前に出た時、ハムストリングスが骨盤を引っ張り、お尻が落ちてしまう。すると体幹部の姿勢が崩れてしまい体幹部の出力を引き出せない。

 こうなると、前に倒れる力にブレーキが
かかってしまうため、前に進むためには脚の筋力で地面を蹴らなければならなくなる。
 無駄な力を加えなければならないので、スピードを出すために最も重要な効率的な動作を妨げてしまう。
 このように、速く走る為には、重力を利用して倒れることと、ハムストリングスの柔軟性が重要ということになる。

秀斗君の話によると、今までは、特に考えず走ればタイムが上がっていったが、1年の秋の大会が終わると同時にもっと速く走りたいと考えるようになったという。速く走るには蹴る力がアップすれば必然的に速くなると考え、走る際、意識的に蹴るようにした。
 さらに、殿筋、ハムストリングス、ふくらはぎの筋力をアップさせる筋トレを自己流でやっているということだった。
 なるほど、上半身と下半身の筋肉の付き方のアンバランスは、そういうことのようだ。
つまり、ストレッチ不足に加えて、良かれと考えて脚の力で蹴ることで、元々持っていた良い走り方が崩れたこと。さらに自己流の筋トレによって疲労がたまり、ハムストリングスの柔軟性が徐々に低下していった結果、パフォーマンスの低下につながったようだ。
頑張っているのにタイムが上がらない事に対する焦りもあったのだろう。
皮肉にも、本人的には頑張って努力を重ねたことが、逆にタイムが伸びないという結果を引き起こした。ということになる。
 私は、秀斗君に今やっている、筋トレを止めるよう話した。
秀斗君は「え?マジですか?」と少し戸惑ったように答えた。
 自身が良かれと思ってトレーニングしていることを突然止めろと言われれば。そりゃ戸惑うだろうし、日ごろやっているトレーニングを止める不安も良く理解できるが、一刻も早くこの状態を抜け出すため、また今後の方針がブレないようにするためにも、ここはハッキリ言うことにした。
 そこで私はこんな説明をした。
 「実は、ハムストリングスの柔軟性を高め、この考え方で走ると、筋トレで鍛えなくても、蹴る力もアップするんだよ。」

 例えば、空手の「前蹴り」の場合。

 ということは、柔軟性を高め、正しい動作で蹴る、走ることができれば、その動作を繰り返すことにより、必要な筋肉が必要な分鍛えられる。結果、走るための筋力はアップするのである。これは、動作力学、トレーニング論の基本中の基本である。

 私は、さらに話を続けた。「その代わり、週3回はここで可動域を広げるためのトレーニングをすること、あと、部活前、自宅での風呂上がりのハムストリングスのストレッチをしっかりやって欲しいんだよね。ただ、今やってるストレッチは効果が薄いから、こんな風にやって欲しい。」
その方法とは、とにかく楽にリラックスしながらストレッチすること。
 
 お尻に骨盤が楽に前傾できる高さの台を入れて長座のストレッチを行う。

 このように、本や漫画を読みながら、あるいはゲームができるくらい楽に時間をかけて伸ばすように勧めた。1,2分もすると急に抵抗がなくなり、深く前屈することができるようになる。さらに1分もするとより深く前屈ができるようになるのである。ついでに同じやり方で、開脚も勧めた。
 もう一つ、走る際に地面を蹴る意識をなくすこと。
 以上のことを一先ず続けてみよう。と伝えた。
 秀斗君は、「わ、わかりました。」と静かに答えた。
 誤解を恐れずに言えば、14歳という若さは無理ができる。多少無理矢理筋肉を伸ばしても筋肉の修復が早く、効果が如実に現れる。
 バレリーナの育成の際、幼い時期から大人が上から乗って、無理矢理ストレッチさせたり、相撲では早い時期から「股割り」といって無理矢理開脚させるのも、その一つである。
 成人してから無理にストレッチをすると、それはもう「ただの怪我」そのものになる。しかも、オーバーストレッチによる筋肉の損傷は、重症であれば肉離れや内出血を伴い、軽傷でも完全に違和感がなくなるには年単位の期間が必要になる。
 これは、十二分に気を付けなければならない。

 秀斗君は、トレーニングを継続してくれた。我々トレーナーがいくら働きかけても、本人が実行してくれなければ、トレーナーは無力である。
 確かに仕事柄、競技成績が上がった、身体が良くなったとお礼を言って頂けることがたまにあるが、私は、決まってこんな風に答えるようにしている。「それは、○○さんがトレーニングを継続された成果です。継続していただいて、こちらこそありがとうございます。」と。

 翌年の夏、真っ黒に日焼けした秀斗君が、トレーニングに訪れた際、嬉しそうにこんなことを報告してくれた。
 「夏の県大会で、100m、11秒74の自己新記録で決勝、5位でした。」
 私は、その日、自宅で第三のビール(350缶)を開け一気に飲み干した・・・

スタートラインに立ち、結果を残すのはアスリート本人である。
トレーナーとは、常に裏方の存在なのである。

このお話は、一部事実を元にしていますがフィクションです。
この事例が、全ての人に当てはまるとは限りません。トレーニング、ストレッチをする際は、専門家にご相談ください。



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