排他と包摂の交錯~『ハンター×ハンター』キメラアント編×橘玲『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』~

ゼブラックで現在(1/5)無料公開されている『ハンター×ハンター』(以後『HxH』と表記)のキメラアント編を読んだので、思いつきを書き出しました。
キメラアント編の内容自体は半年前位にざっと日テレアニメ版を流し視していたので既知のものではありましたが、今回同時期に読んでいた本と合わせて思索していたら解像度が上がってきたので、これは抱負的にも書くしかないだろうと。

『HxH』におけるキメラアント編の位置付け

・追うもの(ハンター)を追うもの(ハンター)というタイトル通り、メタ構造ゲーム(あるいはゲームメタ)としての『HxH』の側面から、キメラアント編を考えてみる。
(ex.「ジンというハンター」を追うハンターとしてのゴン/ハンター試験編の「試験というゲーム」の上で新たに生じるメタゲームとしての「ゴンやヒソカらの個人的闘争」/天空闘技場編の「闘技場というゲーム」の上で新たに生じるメタゲームとしての「念能力バトル」等々)

キメラアント編の問題と構造

キメラアント編は、ハンターに対するメタとしてのキメラアントの物語である。
ハンターのモデルとしてのポックル・ポンズ、さらにはカイトまでもがキメラアントに狩られる……「ハンターがハントされる」……ことで、ハンター協会と蟻同士の決定的な対立構造が成立し、人類とキメラアントの対立は避けられなくなっていく。

仲間・集団と暴力、それに対する個々人の感情

ここで見落としたくないポイントは、キメラアント編における重要なテーマとして「仲間・集団」と「暴力」があることである。

「仲間・集団」が色濃く表れているシーンは、
「キルアと芽生えた友情によって開眼したイカルゴ」「ゴンの行動に感化され開眼したシュートと、別れ様にそれを祝したモラウ」
「そんなシュートを無視したユピーにキレるナックル」「敵であるピトーがカイトとコムギに為した行いが真逆であるという不条理を赦せない上に、カイトを喪ったことも受け容れきれなかったゴンによるゴンさん」
……等が挙げられる。

一方で、「暴力」が色濃く表れているシーンは
「NGLや東ゴルドーにおける悪政」
「多様な能力の意義を認めた上で、それら全てに対し絶対的に作用する暴力の意義を信じてコムギを殺そうとしたメルエムが、むしろ野鳥に襲われるコムギを助けずにはいられなかった」
「メルエムの提案する人類包摂論と、それを“人と蟻の間で揺れている”と評するネテロ」
……等が挙げられる。

排他と包摂について

本試論において重視したいのは、これらキメラアント編で重要視されている「集団と暴力」の2要素が帰結させる「排他」と「包摂」の2種類の機能構造である。

集団を想定しよう。集団がその範囲を拡大し、その集団でなかった者達を集団にするといった行為は「包摂」である。
一方それとは逆に、外部の別集団や、その集団にハマりきらなかったり属しきらない中間的な者達に対する差異を強調し、集団がその範囲を限定したり時には縮小したりするといった行為は「排他」である。

この「排他」と「包摂」は、結果として暴力を伴う場合が多い。NGLや東ゴルドー、キメラアント統治のように「包摂」であったとしても暴力はつきものである。

社会性動物であるが故に、集団形成が「排他」と「包摂」の二種類に分けられるという点では、人類と蟻の間に違いはないと言えるだろう。
しかし、人類と蟻の生物的差異である蟻の摂食交配システムは、「殺したものを取り込む」という点で「排他の上の包摂」という入り組んだ構造を内包している。
この違いによって、人類と蟻ではこの「排他・包摂」行為の意味付けは逆転していると考えられる。つまり、蟻が人類を「排他」するとき、それは実際の所「包摂」を含意してしまっているのだ。
また、そのことを明確にキメラアント達自身が意識するのはかなり遅れてのことになる。

キメラアント編における人類と蟻の対立には、こうした入り組んだ構造が散見される。それらについてより分かりやすく考える為、次項では「排他」と「包摂」の視点からパターン分けを行う。

「わかりあえる」×「わかりあえない」

人類と蟻の間には、「わかりあえる」と「わかりあえない」の2種類の状態があった。しかし、本編を一読した読者からばただ単純に「わかりあえる」と「わかりあえない」しかなかった訳ではなく、むしろそうした状況が展開によってひっくり返った例が幾つも浮かんでくるのではないだろうか。
本項ではそうしたシーンを具体例としながら、どのようなパターンがあったのか、またそこでは前項の「排他」と「包摂」のどちらの機能が働いていたのかを考えていきたい。
※ここで「わかりあえる⇢わかりあえる」としているときの「⇢」は論理学記号における導出の意を表している。つまり、「わかりあえる⇢わかりあえる」と書いている場合、「わかりあえる だから わかりあえる」ということを表す。

人類vsキメラアントの対立。
⇢典型的なパターンである「わかりあえない→わかりあえない」かつ「排他」構造。

人間社会におけるNGL・東ゴルドー・流星街といった政情不安地や、蟻社会の排他的分裂。その裏に蔓延る差別やカルト、戦争等の社会集団における包摂性と裏返しの排他性。
→同様に考えると、これは「(本来)わかりあえる→(実際には)わかりあえない」かつ「排他」構造と考えられる。
また、後述する「わかりあえない→わかりあえる」包摂構造に相似形で、逆説的に考えると「既に包摂されているものを何らかの形で排他している」と言える為、「包摂の上に成り立つ排他」構造とも考えられる。

人間同士の友情や、蟻同士の友情
→「わかりあえる→わかりあえる」かつ「包摂」構造。

メルエムとコムギやキルアとイカルゴ等、種族を超えた友情や、ユピーがナックル達に見せた一種の憐れみ等の共感性、一定の相互理解
→「わかりあえない→わかりあえる」包摂構造。「わかりあえなさ」を超える「特定の努力・研鑽」に基づくものであり、ここでは種族の垣根を超える努力と仮定できる。
上述した「わかりあえる→わかりあえない」構造と同様逆説的に考えると、「(必要とされる)努力・研鑽を積んでいないものを排他している」為、「排他の上で成り立つ包摂」構造と考えられる。

包摂・排他論の説明、橘玲『残酷な~』の「伽藍とバザール」の発展形

そもそも、この「包摂・排他」論の原案は橘玲『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』(以後、『残酷』と表記)において紹介された「伽藍とバザール」論である。本論はこの「伽藍とバザール」の発展・応用形としての「包摂・排他」論が『HxH』において提示されていたのではないかという試論である。

『残酷』における「伽藍とバザール」論とは、閉鎖的な空間で参入退出が制限され、ムラ社会的に内輪において生産活動や評価が行われる「伽藍」と、開放的な空間で参入退出は個々の自由とされた上でオープンな生産活動や評価が行われる「バザール」という、二種類の組織・評価形態の考え。E・レイモンド『伽藍とバザール』における、二種類のOSS開発方式の対比を発展させる形で『残酷』では提示されている。

「伽藍」は「わかりあえる→わかりあえる」・「わかりあえる→わかりあえない」の前半部の「わかりあえる」=「包摂」に等しく、「バザール」は「わかりあえない→わかりあえない」・「わかりあえない→わかりあえる」の前半部の「わかりあえない」=「排他」に等しい。

この試論における「包摂・排他」論では、メタ的に包摂・排他どちらの機能が発揮されるかによって、「伽藍とバザール」の帰結している「包摂的な伽藍」と「排他的なバザール」だけでなく、「排他の上で成立する包摂」と「包摂の上で成立する排他」の二通りも成立するということを考えに加えられる。
自分は当初、「伽藍とバザール」で人類と蟻の違いを分かりやすく理解できるかもしれないと感じた。しかしそれでは、人類同士や蟻同士の「わかりあえる⇢わかりあえる」の「包摂」と、人類と蟻の「わかりあえない⇢わかりあえない」の「排他」といったように、両種族が単純に棲み分けられた構造しか説明できないということにも気が付いた。
キメラアント編本編をご一読された方なら、本編で描かれた事態はそう単純なものではなかったと理解されるのではないだろうか。

だからこそ本試論では、「包摂」と「排他」という構造にまでさらに分解することによって、人類と蟻両者の折り重なった関係性を分析する。これは、キメラアント編のクライマックスを考える上で重要な働きをするのではないかと考えられる。

キメラアント編の回答・帰結としてのネテロvsメルエム、その裏返しとしての会長選挙編・ジンのポジション


上述の構造のひとつの帰結としてのネテロvsメルエム戦を分析する。

メルエムはコムギとの交流によって「心」を養い(ゼノの「話が随分違うじゃねェかよ」)、「わかりあえない⇢わかりあえない」という単純な「排他」構造ではない「わかりあえない⇢わかりあえる」「排他の上の包摂」の理解に至り、異なる人類を包摂しながらキメラアントが世界を救うという可能性に至った。
しかしその未来は所詮キメラアント社会という「伽藍(橘玲)」の包摂性に依って立つものでしかなく、「伽藍内部における努力・研鑽」に基づく包摂構造はむしろ外部から伽藍ごと排他されてしまう危険性があることをメルエムは理解できていないし、だからこそネテロ戦そのものが人類側の壮大な罠に過ぎないということにも気付けない。

伽藍ごと排他される危険性……『残酷』では日本企業や斜陽産業の衰退が具体例として挙げられているが、『HxH』においては(皮肉ではあるが)まさにそのキメラアントによってジャイロ主導のNGLが滅ぼされた事例が当て嵌まるだろう。その意味では、メルエムはネテロに自分の未来観を語った段階で同時に自分たちがNGLに対して行ったことに対する認識も本気で改めなければならないことに気付くべきだった……とも言えるか。)

一方のネテロは、世界そのものや武術(つまり「特定の努力・研鑽世界」=『残酷』における勝間のポジション)の「わかりあえない⇢わかりあえる」「排他の上の包摂」に対して畏敬と感謝を抱き、その帰結として武の境地に至ったからこそ、むしろそれら包摂世界の土台となる「心」の強さの喚起に至っていた。メルエムとは「排他の上の包摂」という点で近いが、ネテロにおける排他は武術としてのもの、ネテロの包摂はハンターという同僚としてのものなのに対し、メルエムの排他は種の違いであり、メルエムの包摂は種としての尊重であった。

メルエムは、肉体の差(蟻の王としての耐久性)とゲーム的に激戦を楽しむ「心」の強さの二点においてネテロの百式観音・零式を耐え抜き、粘り勝つ。

同時にネテロは、個人の技能という「努力・研鑽」に基づく「排他の上の包摂」(これはコムギがメルエムに気付かせたものでもある)の総決算としてのメルエムとの戦闘に敗北し、それによってネテロの武道者としての立場もメルエムの前に絶えることとなった。
そしてだからこそネテロは、(嫌悪してはいただろうが)「包摂の上の排他」というもう一つの道を実践するに至る。
それこそが予めその身に備えさせられていた「貧者の薔薇」の起爆である。ネテロはメルエムの望みであった真名の開示と自らの命の二つと引き換えに、メルエムの生命、キメラアント社会の未来というメルエムの夢を成立させる唯一の必要条件を奪い去り、「包摂の上の排他」が跳梁跋扈する人類社会を勝たせたのだ。

また、この「絶対的な暴力によって一方的に命を奪う」という行為自体、暴力の絶対的優越性を信じたメルエムがコムギに暴力を振るおうとしたこととそのまま対応する。
もしメルエムかあのときコムギを殺してしまっていたら、コムギとの穏やかな最期どころか、ネテロ(に貧者の薔薇を仕込んだ政治家達)と同レベルの所業に手を染めた……ということになるのだ。それではメルエムのキャラクターとしての格は無きに等しくなっていたし、そうしたネテロ戦以前のメルエムの自我の不安定さこそ、まさしくネテロのいう「人と蟻の間で揺らいでいる」ということだったとも言える。
その意味でも、コムギを襲った鳥はギリギリでメルエムを人に引き戻したという点でファインプレーだったと言えるだろう。

ともかく、貧者の薔薇という唯一かつ最大の排他行為によって、人に近づきつつあったプフやユピーら純粋なキメラアント達は、再び純然たる蟻としてのアイデンティティを取り戻した。
王が排他されたことを直観したプフがナックルに蟻としての顔を見せている描写は、まさしくその表出だろう。

そんなプフとユピーの蟻としてのアイデンティティはしかし、メルエムの死と復活という宗教的苦難体験とその解放体験を経たことで、世界宗教の文化レベルに至るまでの精神的進化を遂げる。また、メルエムは円の能力の拡大と共にキメラアント達の「心」をすべて読める、いわば神のような視点を獲得した。
この視点故に、メルエムはラストにおいて発揮されたような、人としての死を受け容れる精神的境地・有限な生を生きる者としての自覚といったものを獲得出来たとも言えるだろう。

メルエムは勝間和代?

このネテロメルエム戦における「排他の上の包摂」が「包摂の上の排他」にとって代わられる構造は、『残酷』における「勝間香山論争」に近しい。
「勝間香山論争」では、努力による自己実現を掲げる勝間和代の自己啓発イデオロギー性に対して、香山リカは勝間の提示する「努力を自らに強いる体制」が齎す精神的悪循環を指摘し、反論する。これに対し筆者である橘は香山的な文脈としてドーキンス・デネット・ピンカーらの先天的影響重視論を紹介し、努力の方向性を個々人の遺伝などの素質に基づいたものにすることを提案している。

ここに「(努力・研鑽による)排他の上の包摂」が、実際には「その上の排他」としての「個々人の素質の限界」に左右されてしまう、という排他構造を見て取ることが出来る。

メルエムがネテロに勝った「王としての耐久力」といった先天的な差や、そのメルエムを死に至らしめた貧者の薔薇の「絶対的な破壊能力」等、ネテロが尊重していたような「個人の努力」では覆しようのない「絶対的な差」は存在する。

キメラアント編は「差」が多く描かれた。「人類と蟻の差」「キルアにとってのカイトとゴンの扱いの差」「軍議では無敗のコムギが暴力にはいっさい無力という差」「ピトーのカイトとコムギに対する処置の差」「貧者の薔薇という差の象徴」……

これら無慈悲な「差」を回避したものや乗り越えたものも、キメラアント編は提示する。「ゴンを守り抜き、その命すら共にする覚悟を決めるキルア」「イカルゴを尊重するキルア」「メルエムとコムギ」「キメラアントとなって蘇った人間が、人間社会に戻っていく」「死から復活したメルエム」「死に瀕して尚見つけることの出来る人生の意味や幸福」等……
それは決して「差」やそれが齎す死や喪失を無化する訳ではない。だが、それを回避したり乗り越える方法が絶無でありはしないということを意味する。

この「差」にどのように向き合うかという点で、『HxH』と『残酷』は似ているように感じた。

また、『残酷』は伽藍の崩壊のみを喚起しバザールを称揚している側面があるが、『HxH』では「貧者の薔薇」等、『残酷』で指摘されなかったバザール(とその背景としての現代経済社会)の負の側面が描かれていたのではないか、とも考えられる。

ネテロの思想について

・ネテロの「心」とは。W・ジェイムズ「健全な心」がその究極的な段階では「病める魂」の裏返しのものでしかありえなかったように、人間社会の「心の無さ」(それに伴う「包摂の上の排他」)が、逆説的に「心」(それに伴う「排他の上の包摂」)を養う必要性・重要性を成立させている……といったものではないか。

・なお、ジン曰くジンもその意志を引き継ぐようだが、ネテロのPVPゲーム的姿勢……個人の非合理的な努力と才能を帰結させることで超越する、そんな不可能を可能にする「心」の強さ一辺倒の姿勢……は引き継がれず、ジン自身のPVEゲーム的姿勢……GIや会長選挙編で語られたジンの過去の様に、不条理な難題を、多様な個々のプレイヤーがポジティブゲーム的・協力的に力を合わせることで解決する、皆で「心」を養い合っていく姿勢……で「心」の重要性を喚起する方針になっていて、それ故に己が心のみを軸とするバリストンと対立する道を選んだのではないかとも考えられる。

補記

蟻の摂食交配システムが「殺したものを取り込む」という点で「排他の上の包摂」であり、その目的に従おうとしてしまったメルエムら純粋なキメラアント達は「(排他の上の)包摂の上の排他」に負かされたのだと考えると、納得も行くか。

また、キメラアント編のラストでクルトら記憶継承者が人間社会に回帰する顛末が描かれていた事例や、会長選挙編におけるコアラと転生カイトの対話においてキメラアントの摂食交配システムという「排他の上の包摂」が、あの世界における輪廻転生や永劫回帰的な構造を副次的に証明してしまったことが示唆されている点も見逃すことは出来ない。

そうしたアイロニーやアポリアをどのように活かすかが他者との向き合い方、ひいては人生観に繋がるという話になっている(ように見える)が、そこは本試論が取り扱うものではない。ここと関連しそうなバーナード・スーツ『キリギリスの哲学』という書籍を読んでいるが、その先で何か思いつくかもしれない。

本論とは関係無いが、個人的なベストシーンは、陰キャ的でビビリだったシュートがここ一番でゴンに感化され開眼し、モラウやナックルにも認められたシーンだ。アレが何より一番心に刺さった。ビビリの陰キャなので。

ただアレがゴンさんなのを考えると危うさも感じる。


この記事が参加している募集

#読書感想文

189,568件

#マンガ感想文

20,127件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?