ぼちぼちnoteを始めていきたい/あるいは、メディアにおけるテクストについて

初めまして、Truthです。大学で哲学を学ぶ三回生です。
今に至るまでnoteもVlogも読み専で、何かを思いついたらメモ帳とtwitterに垂れ流したり、まとまった形ではsteamストアのレビューや授業等の必要に応じてまとめるのみであり、自分自身はそれで満足していたのですが、そうした思考・構想をnoteやVlogを通して一定の形にしていく一定の意義や重要性を感じ、オドオドしながら書き出しています。

なぜ私はnoteやVlogといったメディアで書かなければいけないか についての仮説

概略

わざわざこうして書き出す理由は、端的に言えば、noteやVlogにようなまとまったテクスト=デッサンのようなまとまった形の素描に備わっている説得力と、それがもたらす自己限定性の必要性を理解出来てきたからです。

勿論、twitterやメモはサッと書き出してすぐ読み返せる点で便利ですし、それを称揚するビジネス書の存在等も耳にしたことはあります。その利点を否定したい訳ではありませんし、事実twitterやメモを使わなくなるという訳でもないと考えてはいます。

しかし、年末の課題の為に自分のツイートやメモ、これまで書き出してきたレポート等を読み返していたとき、少しずつ「メモやツイートでは、良くも悪くも一種の説得力に欠けるのではないか」「そうした違いを自分は今まで軽視していたのではないか」と感じる様になりました。

まとまったテクストの持つ説得力・影響力が、自分に及ぼす影響としての自己限定性

説得力というと、他者がそのテクストに触れた際の説得力を想起させるかもしれませんが、どちらかというとここで私が強調したいのは、「自分自身が過去の自身のテクストから受ける影響力」が、noteやVlog等とツイートやメモの間に意外と重要な違いを生じさせているのではないかという点です。

そもそも、活字中毒的な面があった私自身自覚がありますが、読む対象、情報処理の対象としてだけならツイートやメモとnoteやVlog、それらの集合体としての各種書籍等といったメディア群におけるテクストがもたらす影響の間にそう違いはありません。

むしろ読む対象としてのテクストに限って考えれば、メディアの差よりもテクストの内容の差の方がテクストのもたらす影響力により影響を及ぼすと考えられます。事実、長らく読み専だった自分にこれらメディア間の違いは良く分かっていませんでした。

しかし、書き出す側になってみたとき(自分の場合「書き出す側としての自覚を強めたとき」でしたが)、メディア間の違いは決して読み専視点におけるそれの様に些細なものでは無く、かなり重要だったのではないかと感じられたのです。

重要性について

では、どのように重要であるのか。それは、自分自身の思考に依って立つという点においてです。メモやtwitterのテクストは、良くも悪くも依って立つにはあまりに素材のままの状態であり、気体や液体の様な掴みどころの無さ、非固形な定まらなさを有していることで、guistというか、一種の精神的な段階でのテクストとしては機能を発揮するメリットを有すると考えられます。

しかし当然デメリットもあることに気づきまして、身体的ないしはオブジェクト的な段階でのテクストとしては意外と扱いづらい等が挙げられます。

例えば、レポートなどでサッと引用しようとしても形になっていないのでその都度成型する必要が生じます。逆に精神的なまま機能するエッセーや詩やツイートそのもの、ないしはむしろそこからテクストではない別の形に仕上げる必要がある絵画やパワポやゲーム、精神的な側面を多分に含んだ哲学的テクスト等の制作資料としては前者のままが効力を発揮するとも考えられます(勿論、制作の段階にも依るとは考えられますが)。

一方、noteやVlogのテクストは、単純に逆説的に考えるなら固体・固形、プログラムで例えれば予めメモリに読み込ませておいてすぐに参照するといったように、固形であるが故のメリット・デメリットを持つと考えられます。

先ほど挙げた例とは逆に、論文・レポートや自noteへの引用、Vlogの相互参照(これ自体が一種のビジネスと化していることはある程度有名ですが)等がこのメリットの代表例とも言えるでしょう。勿論、上述したエッセーや詩、絵画やゲームに転用するには向かなくなると考えられます。

自分が為すこととの接続

自分は卒論等もあって、後者の重要性を再発見しました。趣味で絵やゲーム、詩を作っている段階では前者で十分だったのですが、後者も後者で使い道があるぞ、と。

また、上の様にきっぱりと二分しておいてなんですが、単純な二項対立ではないとも感じていまして、例えば『虐殺器官』『ハーモニー』を手掛けた小説家の故伊藤計劃氏が、映画体験やゲーム体験をテクストに落とし込んだ経験を小説に活かしていた様に、前者の精神的なテクスト-作品を突き詰めることによって可能になる後者の固形的なテクスト-作品と、それを突き詰めた先の前者の精神的なテクスト-作品と、更にそれを突き詰めた先の……といった善の循環というか、太極図的な流れは可能なようにも思えます。

その意味で、今までの自分のツイートやメモにも積極的な意味付けは可能であるとも考えられます。また、だからこそ、それを踏まえた上での後者の活動もそれなりに必要じゃないか、とも感じられます。

おわりに

後半は多分に直観的なものになってしまいましたが、このようにつらつらとテクストを綴る習慣を少しずつでもつけていけたらなと考えています。
今後ともよろしくお願いします。

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