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「#こんな学校あったらいいな」を書いてみて

素敵なお題

先日、期限ギリギリで「#こんな学校あったらいいな」のお題の作品を投稿してみた。

このタグが発表された時から素敵なお題だなと感じていた。そして自分自身、学校は好きだった方だと思っていて、思い出もたくさんある。今でもたとえ知らない学校を見てもそこでそんな日常が起こっているのか想像してしまうくらいだ。

自分自身、学校生活で出会った仲間や経験に支えられている部分が確かにある。そんなことを踏まえて、そこに少しだけ想像力を加えて、拙いながらも創作の物語を書いてみることにした。

フィクションで伝える。

フィクションを書くのはこれが初めてではなかったけれど、今回もフィクションを書くことの難しさを感じた。自分が経験したことや感じたことをそのまま自分の目線として書くエッセイを書くのとは全く異なる。特に、人称や視点をどこに置くかにいつも悩む。1人称の方がエッセイみたいに登場人物の内情を深く描ける一方で、それ以外の人物が描きにくい。今回に関しては冒頭と結末を担う先生を一人称。それ以外を3人称視点で書いている。

どれも少しずつ、自分

今回書いた物語は、6年生の始業式で突然発表された伝統の卒業制作に、3人の生徒が向き合うという構成をとっている。そして3人とも、歳を重ねてからそれぞれが撮った写真に影響を受けている。

野球に夢中な拓海、実は風景を撮りたい結衣、生き物が大好きな流星。3人の人物はこの物語の中だけに出てくる私が作った架空の人物だ。でも、3人ともに少しずつ、私自身の成分が入っている。野球に夢中だった少年時代や、小学校の頃から興味があったことをもとに大学を決めることになった高校時代、そして、進路に行き詰まった大学4年生。そんな自分が過ごしたリアルが、3人に投影されている。

描きたかったこと

フィクションで伝えたかったことをこうして記すこと自体、ナンセンスだとは思うけど、如何せん創作文章の初心者だから少しだけ話したい。

一番シンプルに言うと、学生時代にどんなことでもいいから何か、真剣に向き合うこと。そしてそれが意外と、大きくなってからも支えになるということだ。

自由度が高くて抽象的で、数学のテストで100点取りなさいと言われる方が分かりやすいかもしれない。それももちろん大切なことかもしれない。でも今社会人になって、そして社会人になるまでの過程を生きてみて、小学生くらい小さいときに経験した何かや、大事にしていた人間関係が今でも支えになっていることに気づく。

学校にいると色んな指標にもまれて、学力、運動、人間関係のようなものが上にいるための条件だったりする。それはそれで、大切なことだ。実際社会に出たらどれも大切でないよりはあった方が良い。

でも、そういう指標以外にアンテナを張ることもたぶん同じくらい大切で、物語の中で書いた生き物のことや、風景を写真におさめることだっていい。たとえ先生や周りの大人が評価をしてくれなくても、通知表には記されなくても、それを好きでいる自分自身だけは好きでいることに自信と評価を与えてあげたい。

私は小学生のとき、どんな教科よりも日記の宿題が好きだった。そして今も文を書くことは好きだ。得意とか上手いかは別として、今でもこうして少しずつでも文を書いていられる自分のことは少しだけ、好きでいる。大学生までは本気で、それを仕事にしようとして、色々あってそう出来なかった時は落ち込んだ。でも、今の仕事をしていてもこうして書ける場を手に入れて、今はまた、前を向けている。

学生時代の興味も人間関係も、楽しい思い出も苦くて苦しい経験もみんな、今を生きる糧となって自分を形成している。

おわりに

書いてみて読み直すと、全然学校が舞台の中心にはなっていないし、文字数も他のお題の投稿者に比べたらかなりのボリュームになっていて、我ながら力のなさを痛感した。でも、時間はかかったけれど書いていて楽しかった自分がいる。

だからまた、機会があればフィクションも書いていきたいと思う。フィクションだからこそ伝えられることが、世界が、きっとまだたくさんある。

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