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【小説】ピーチウーロンの女



 バーに入るとすぐ、男はカウンターの隅に目がいった。中央の椅子に座り、スコッチをロックでいつも通り頼むと、一番右端に座っている女に視線をちょっとくれる。バーの薄暗い照明が、女の落ち着いた雰囲気を強調しているようだった。髪は肩くらいの黒、すらっとしていて、色白。黒いブラウスに包まれた小柄な女は、少し背を丸めて目をふせているので、余計に小さく見える。ロングのカクテルを両手で持って飲んでいる姿が可愛らしい。バーテンダーがウイスキーのボトルをコトンと目の前に置いた。

 コースターの上に置かれたグラスの中に、琥珀色の液体と、照明の光を受けて白く輝く氷。一口目の幸福感に期待して、男はグラスを傾ける。しっかりとその期待に応える酒。棚にある、たくさんのボトルを眺めながら、このために生きている、と男は思う。夏に入る前の、じめじめした天気のことなどを、バーテンダーと話しながら、男はスコッチを口の中でころがす。週初めのバーは閑散としており、三人以外誰もいない。


「ピーチウーロン。」

 静かだがしっかりとした声で、女が言った。バーテンダーが、棚から筒状のグラスと、ピーチリキュールのボトルを出し、冷蔵庫からウーロン茶を取り出す。グラスに氷を入れ、リキュールとウーロン茶を注いで、マドラーを差し入れ軽く混ぜ合わせる。一杯の酒を作るバーテンダーのこのスムーズな動きも、バーの空気の一部である。バーテンダーが女のコースターのグラスを入れ替える。どうやら、その前のカクテルもピーチウーロンだったようだ。

ピーチウーロン、ピーチウーロン・・・・・。

 男は考える。この世で、ピーチウーロンを飲む女ほど、可愛らしいものは、他にあるかと。あの純粋で、おとなしい飲み物。やさしい甘さ。爽やかな後味。確か、日本人バーテンダーの発明品である。男はピーチウーロンのような女が好きだった。それを飲む女も。

 ビールは違う。ウーロンハイも、レモンサワーも違う。スクリュードライバーやカルーアは可愛すぎる。キールやホワイトレディは洒落すぎる。それらのは、それらの酒の、それらの酒を飲む女性のは、主張の強さは、男をうんざりさせる。さりげない、ほのかな、静かな、ピーチウーロンを、それを飲む女を男は好む。だが、この、ピーチウーロンを飲む女には、ウーロンハイの代わりとして飲む人種もいるということを、最近男は知った。


「ピーチウーロン。」



 男が昨今の政治の問題について、バーテンダーと話をしていると、またあの声が聞こえた。すでに男の心をつかんだあの声が。女は先程と同じくらいの時間で一杯を飲み終え、先程の調子で註文した。男は、口数は少ないながら、バーテンダーと言葉を交わしていたが、女は無口なのか、今日に限っては誰とも口を利きたくないのか、うつむいた姿勢を崩さずに、黙ってグラスを傾けている。バーテンダーも心得ているようで、女には話を振らずに、時折目配せをしていた。男は後から入ってきたので、女がどのくらい飲んでいるのかは、わからないが、声の調子からも、グラスを傾ける動作からも、あまり酔っているようにはみえなかった。男はバーのルールをわかっていながらも、視線を右奥へ向けることを止められなかった。あくまでも、奥の棚を眺めるふりをしながらではあったが。男は、三杯目のスコッチを飲んでいて、少し酔いがまわってきた。この「少し」がまた、気持ちがいいのである。日中の、いや、日ごろの疲れも忘れ、バーに入ってきたときよりも、照明がやわらかく感じられるこの時間がいい。なにより、静かに酔えることがうれしい。居酒屋での騒がしいなかの酔いも嫌いではないが、たまには静かに酔いたいと男は思う。バーテンダーは二人のグラスに目を向けながら、アイスピックでブロックの氷を砕いている。その小さな音も、また静けさの一部である。男は手の中のグラスを眺めながら、次の一杯を考える。そろそろカクテルにしてみようか。マンハッタンか、マティーニか、上海か。幸福な悩みを抱きながら、男はカウンターの木目に視線を落とす。


「ピーチウーロン。」


 男の待ち望んでいた声音が、薄暗いバーに響く。バーテンダーが一言返事をして、仕事に取り掛かる。その間、男は平静を装いながら、妄想にふけっている。あの女はどんな女なのだろう。どんな暮らしをしていて、どんな趣味を持っているのだろうか。男はカクテルグラスの脚をつまんで、赤い上海を飲みながら考え続ける。ただ、何も浮かんではこない。そもそも情報が少なすぎるのだ。女はうつむいたままで、表情一つ変えることもなく、「ピーチウーロン。」の注文以外、何一つ言ってないのだから。笑ってる顔みたいと男は思う。つまり、笑わせたいと男は思っている。ただただ思っている。右奥のジムビームを眺めながら、男は思っている。女は目をふせていて、照明も暗いので、男には女の顔もよくみえない。だが、男はもう少し妄想の中にいたいと思った。バーテンダーも、男がこちらに視線を向けないので、話しかけてはこない。男は、ピーチウーロンの女と祭りに行くことにした。もうすぐ、夏がやってくるから。

 夕方、宵闇の中で、私はピーチウーロンの女と落ち合う。女は浴衣を着ている。さて、何色の浴衣だろう。紫にしよう。女は紫の浴衣を着て、改札の前にいる私に向かってくる。私が笑顔を向ければ、女も応える。まるで、あの一口目のスコッチのように。それから二人は歩いて祭りに赴く。ここで言いたいのは、浴衣の女についてだ。日本の男なら誰しも、自分の好いた女は、浴衣が似合うと思うものではないだろうか。もちろん何色かはそれぞれだろう。  
 さて、人がぞろぞろ歩いている中へ、二人は入り込む。周りがいくら騒しかろうとも、私は静かで、穏やかでいられると思う。私の隣には、ピーチウーロンの女がいるのだから。周りは風景、背景でしかない。どれだけ音が鳴ろうとも、対象が静かであるのなら、私は落ち着いていられるだろう。私たちは一直線に並ぶ屋台を冷やかす。

 バーから出た女は、思ったよりもきびきびと動くかもしれない。あの物憂げな姿とは別な姿に。もしかしたら、幼児のように、少女のように笑っているかもしれない。私は初め、そのギャップに戸惑いながらも、すぐにうれしくなって、女の手を引いて歩くだろう。騒がしくなければ、明るいのは大歓迎だ。空がさらに暗くなってきても、屋台の明かりがまぶしい程に照らしてくれる。二人は言葉少なに話すだろう。私はピーチウーロンを飲んでいるときのように、やさしさに包まれてうっとりするだろう。それから、屋台の香りに誘われるだろう。
 

 「ピーチウーロン。」


 バーの中で、女は言った。先程よりは酔ってきたのだろう。少し上ずった声で注文する。男は、もう少しで花火を見ようとしていたのだが、どうでも良くなった。花火の声や、歓声はどうでもいいものだ。男は七杯目のバーボンをロックで飲んでいる。グラスを氷の音とともに傾け、喉に刺激物を流し込む。この香りがいい。男は上機嫌になっている。男の席から一つあけた所に、いつの間にか二人組が座っていた。男はそろそろ帰ろうかと思う。あと一杯くらいでいいくらい男は酔っていると感じる。飲み過ぎる必要はない。今夜は十分に幸せだと思う。だが、最後の一杯は何にしよう。男は酔った頭の中で酒の名前を思い浮かべてみる。頭に浮かぶものは、飲んだことのあるものばかりだ。好きな酒ばかりだ。こんなに酔っているのだから当たり前だろうと、男は思う。バーテンダーは、隣の客たちと一緒にうまいラーメン屋の話をしている。男は席を立って、トイレに行った。

 トイレから出て、席に着くとき、一瞬、右奥のほうを見た。そこにはもう、ピーチウーロンの女はいなかった。男は氷の溶けて薄まったバーボンを一息に飲むと、ピーチウーロンを注文した。バーテンダーが棚からグラスとピーチリキュール、冷蔵庫からウーロン茶を取り出し、グラスへ氷とピーチリキュールとウーロン茶を注ぎ、マドラーの音がした。男はピーチウーロンにゆっくりと口をつける。口の中にさわやかな甘さを感じながら、男はさびしさをかみしめる。右の方を目の端で捉えてみるが、そこに女はいない。先程までの気分は、いまやすっかり冷めてしまった。胃の少しのむかつきだけが、男とこのさびしさを分かち合った。ピーチウーロン、ピーチウーロン・・・・・。改めて飲んでみると、あまりにも大人しすぎると、男は思う。結局、「ピーチウーロン。」の声しか聞けなかったと、男は思う。お会計の声も聞きたかったと、男は思う。帰りがけに、どんなカバンを持って、どんな靴をはいていたのかを見たかったと、男は思う。だが、もう遅い。その機は逸してしまった。きっともう会えないだろうと、男は思う。別に、会いたいとも思わないと、男は思う。あんな、大人しすぎる女には。隣では、まだラーメンの話をしていた。隣の駅にある、ビルの一階の店の、野菜のたくさんのった味噌ラーメンがうまいらしい。ピーチウーロンの女も、ラーメンをすするのだろうか。男はふと気になったが、どうでもいいと、思い直す。男は、お会計をバーテンダーに頼み、残りのピーチウーロンを飲む。差し出された領収書を見て、いつもと同じくらいだと、男は思う。一万円札を会計のトレーにのせる。バーテンダーからお釣りを受け取る。バーテンダーが黙ってコースターを渡してきた。

「さようなら。」

 コースターをカウンターへ置き、男はバーを出た。

                         

                             (2017、7、3)



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