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「半自伝的エッセイ(47)」名前はフタバ

ある時、おそらく暑い時期だったはずだが、チェス喫茶「R」によく来ていた山根さんが「相談があるのですが」と誰にともなく切り出した。
「ん?」とマスターが答えた。
「こんなこと相談していいのかわからないのですが」
「なに? そんな前置きして、水くさいじゃない」とマスターはその相談の先を促した。
「知り合いのことなんですが、旦那さんから殴られたりしてるみたいで」
「なんだそのバカ男は。俺が行ってやるよ」と戸田さんが割って入った。
「それで解決することじゃないでしょ、たぶん」とマスターがなだめた。
山根さんの話を聞くと、当時はそういう言葉はなかったが今で言うところのDVそのままだった。
「それでその子はどうしたいの?」
「できれば逃げたいみたいなんですが・・・」
「一度、本人から話を聞いたほうがいいような気がするんだが、どう?」
翌日、山根さんと一緒に和田さんが二、三歳の男の子を連れてやってきた。和田さんの二の腕にはなにかで殴られたような痣がたしかにあった。和田さんの話を聞くにつれ、ちょっと、というよりすでに度を超えて壮絶な生活だった。
「で、和田さんはどうしたい?」とマスターが尋ねた。
「もう無理です」と消え入りそうな声で和田さんは答えた。
「わかった。戸田さん、段取りしてくれるかな? 穏便な方法でだよ」とマスターは戸田さんに話を振った。
「了解。車は俺のところで出す。実家に戻ったら居場所がバレちゃうから、住むところは先崎のおっちゃんに頼もう。生活費はある?」
「すみません、お金は全部あの人が管理してて・・」
「だったらうちで電話番してくれないか?」と印刷屋の中村さんが言った。
「なに、中村さんのところ、そんなに儲かってるの?」と誰かが茶々を入れた。
「おお、また選挙があったりするから、ご心配なく」
「男の子の名前は?」とマスターが和田さんに尋ねた。
「フタバです」
「へえ、いい名前だね。じゃあ、プルジェクトエフということで進めよう」
「荷物はどれくらいありそう?」と戸田さんが聞いた。
「この子と私の着替えとかぐらいしか」
「オーケー。しかし、ちょっと臭うな。しばらく旦那を泳がせたいんだけど大丈夫? もし我慢できなくなったら俺に電話して」と言って戸田さんは携帯電話の番号を紙に書いて和田さんに手渡した。
「わかりました」

和田さんの夫は一流大学を卒業して一流商社に勤めているということだった。休日は昼過ぎからパチンコに出かけるのが日課だという。
「そういうインテリは外面だけはいいから困らせてやろう」と戸田さんが言った。
「穏便にと言ったでしょ」とマスターが言った。
「いや、たいしたことじゃなくて、日曜日にそいつがパチンコに行ってる間に家を出よう。夜だか夕方に家に戻ってきて、もぬけの殻だったら、そいつ月曜日からどんな顔をして会社に行くのか、見ものじゃないかと思って」
「それぐらいならいいか」とマスターのお墨付きが出たので、どこかの日曜日に計画を実行することになった。
その数日後には先崎さんが和田さんとフタバ君が住む部屋を用意してしまった。チェス喫茶というごく狭いコミュニティの中で、それぞれができることを持ち寄ってあっという間に計画が実行段階になってしまうことに私は驚いた。きっと和田さんもそうだったのではないだろうか。

二週間後の日曜日、すでに昼前から戸田さんは和田さんが住む公団の近くに車を停めていた。旦那が家を出たら戸田さんに電話が掛かってくることになっていて、それが決行の合図だった。私は戸田さんの車の助手席で缶コーヒーを飲んでいた。車の窓からは六階建てぐらいの建物が等間隔に五棟ぐらい並んでいるのが見えた。
「パチンコ、行きますかね?」と私は戸田さんに尋ねた。
「ギャンブルの習慣は抜けない」そう戸田さんに言われると妙に説得力があった。
休日ということもあってか各棟の出入り口はそれなりに頻繁に人の出入りがあった。子供をベビーカーに乗せた家族であったり、夫婦と見える若い男女だったり、買い物から帰ってきた主婦らしき女性だったり、集合ポストにチラシを入れる人だったり、一人で出てくる男性はほとんど決まって車に乗り込んだ。
そろそろ退屈してきた頃に戸田さんの電話に着信があった。しばらくして一階に降りてきた男を見て、戸田さんが「あいつだな」と言った。
戸田さんにあいつだと名指しされた男は休日だというのにそれなりにちゃんとした身なりをしておりズボンのポケットに両手を突っ込んで歩いていた。駐車場に停めてあった車に近づいた。
戸田さんは携帯電話を操作してどこかに電話した。
「いま出る。昨日言ったようにトヨタのセダン、色は白、ナンバーはXXXX。」
「誰に電話したんですか」通話を終えた戸田さんに聞いた。
「うちの若い奴」
「車を尾行でもするんですか?」
「忘れ物でもして戻ってきたら厄介だろ」

トヨタのセダンが駐車場を出るのを待って戸田さんと私は車から降り、和田さんが住む三階まで階段を足速に昇って行った。ブザーを鳴らすとすぐに和田さんが子供と一緒に扉を開けた。
「最後に聞くけど、いいんだね?」と戸田さんが尋ねた。
和田さんは小さく頷いた。
私たちは部屋の中に上がり、和田さんの指示で二人の洋服などを大きめのバッグに詰めた。
「忘れ物はない?」
「はい」とまた和田さんが小さく頷いた。
先崎さんが用意したマンションはそこから車で四十分ほどのところにあった。和田さんと旦那の生活圏が重ならないようにそこにしたと聞いていた。新しい住処に着くと山根さんが床に雑巾掛けをしていた。見回すと最低限の家具やテーブルや椅子、それに鍋やフライパンに食器類も揃っていた。
そこに戸田さんの携帯電話が鳴った。
「うん、わかった」
電話を切ってから「もう三万ぐらい負けてるらしい」と言った。ということは、どうやら電話の相手は和田さんの旦那を尾行していた戸田さんのところのいわゆる若い人からの電話だった。
「今日は早く切り上げるかもな。さて、もう一仕事するか」と言って戸田さんは座っていた椅子から立ち上がった。
「まだなにかあるんですか?」
「ここからが本当の仕事」そう言って戸田さんは和田さんに「鍵、くれる?」と手を差し出した。話ができてきたのか和田さんはなにも聞かずにバッグから鍵を取り出して戸田さんに手渡した。
「じゃあ、藤井くん、行くか」と言う戸田さんに付いて行き、車で到着した先は、和田さんがつい先ほどまで暮らしていた公団の前だった。車を止めると後部座席にスーツを着た五十がらみの男性が乗り込んできた。
「先崎さんとこの弁護士さん」そう戸田さんが男性を私に紹介した。
「どうぞお見知り置きを」とその男性は言い、ビニール袋からなにやらゴソゴソと取り出すと、前に座っている私たちにサンドウィッチとコーヒーを配った。
「すみませんね、気を使わせちゃって」と戸田さんが言った。
「いえいえ」
「長くなるかもしれないから、藤井くんもちゃんと食べておきな」と戸田さんは言った。
なんだか嫌な予感がしたが、私は言われるままにサンドウィッチをコーヒーで流し込んだ。
それから一時間ほどして戸田さんの携帯電話が鳴った。
「おお、ご苦労さん」と言って電話を切ると「あいつ、パチンコ屋出たってさ」と私たちに戸田さんは伝えた。
私たち三人は和田さんの部屋の鍵を開け、室内に入った。戸田さんと弁護士はキッチンのテーブルに並んで座った。戸田さんは私に「あいつが逃げると厄介だから、藤井君は玄関の横にいて」と指示した。
「もし逃げようとしたら僕が取り押さえる係ということですか?」
「そう」
私は玄関横にしゃがんだ。

それほど待たずに玄関の鉄扉が開いた。
玄関に入ってきた男は「くそっ」と一声発すると並んでいた私たちの靴を蹴り上げた。パチンコで負けたのがよほど悔しかったのか、蹴った靴が男物の革靴と私のスニーカーであることにはまるで気付かず、玄関を上がっていった。その横でしゃがんでいた私の存在はまるで目に入らなかったようだった。
さすがにキッチンのテーブルに座っていた戸田さんと弁護士に気がつくと、ギョッとしたように立ち止まった。
それでも男は「誰だよ、お前たち」と凄んでみせた。
「まあまあ、和田さん、そう気を荒立てないでお座りください」と弁護士が促した。
「なんで俺の名前を知ってるんだよ? それよりお前たちは誰だよ」
「わたくしは奥様の代理人の黒川と申します」
「はっ?」
「本日はお話があって参りましたので、どうぞお座りください」
「じゃあ、その横のそいつは誰だよ?」と男は精一杯の虚勢を張って戸田さんを指差した。
「俺か?」
「そうだよ」
「聞きたいか?」
そういうが早いか戸田さんは立ち上がってテーブルを回り込むと男の首根っこを抑えてイスに座らせた。
「痛いじゃないか」
「もっと痛くしてやろうか」
「まあまあ、話を進めましょう」弁護士が言った。

弁護士は抱えてきた大きな黒い革鞄からゴソゴソと紙を取り出すと、
「まず、これが委任状です」と言って男に一枚の紙を見せた。
「これでわたくしが奥様の代理人であることが証明されました。よろしいですか?」
「じゃあなんなんだよ」とイスに座らされた男が不貞腐れたように言った。
「まあ、そうお急ぎにならずに」
「あいつとフタバはどこ行ったんだよ」
「それはお教えできません」
「あっ、そう。役立たずの女とうるさいガキがいなくなって清清したしたよ」と男が言った瞬間、戸田さんの右フックが男の横っ面にヒットした。男が大きな音を立ててイスごと横に倒れた。
男はああとかううとか声にならない声を上げた。戸田さんは倒れている男とイスを一緒に持ち上げて元に戻した。
男は殴られた左頬を手で押さえながら「お前ら、警察を呼ぶぞ」と言った。
「呼ぶなら早く呼べ」と戸田さんが言った。
「まあまあ、その前に和田さん」と言って、弁護士はまた男の前に紙を差し出した。
「これはですね、ご覧になればわかると思いますが、診断書です」
男はまだ頬を押さえながらその紙を覗き込んだ。
「奥様の診断書です。全治一ヶ月の診断です。傷害罪で被害届を出すことができます」
「出せよ」
「承知しました。では、山崎小春さんについてお伺いいたします。山崎小春さんはご存じですか?」
「知ってるに決まってるだろ。同じ部署の事務員なんだから」
「事務員という以上のことをご存じのはずですが」
「なにが言いたいの?」
弁護士はまた鞄からなにやら出した。
「ご覧ください。これはですね、八月三日の午後九時半過ぎに池袋のラブホテル『出逢い』から和田さんと山崎小春さんが出てきたところです」と言って、男の前に数枚の写真を差し出した。男はその写真を一瞥すると弁護士の顔を見た。
「お前ら、なにがしたいの?」
「では、こちらの要望をお伝えします。依頼人はあなたとの離婚を希望しています」そう言って弁護士は離婚届を鞄から取り出し、男の目の前に置いた。すでに和田さんの署名は書かれていた。
「なんで離婚しないといけないのよ?」
「拒否されるのであれば、訴訟になりますが、不貞行為を働いた側は離婚を拒否することができません」
「そんな法律知らないな」
「ご存じなくてもそのようになっております。それとですね、慰謝料、これはですね、あなたが婚姻期間に働いた暴力行為と不貞行為に対するものです。そして、奥様と子供の生活費と養育費をお支払いいただきます」そう言うと弁護士はまた鞄から紙を取り出した。
男は紙をまた一瞥すると「こんなに払えるわけないだろ」と言った。
「それではこちらも訴訟にして給与から天引きということにさせていただきます」
「払わないよ」
「承知しました。では裁判所でまたお会いします」
「さっさと出てけ」
「あっ、それと、山崎様にも慰謝料を請求いたしますので」
これに対して男はなにも答えなかった。虚勢を張ってはいるもののどこか観念している様子だった。

それから和田さんともフタバ君とも顔を合わせる機会がなく数年が過ぎ、二人のことをすっかり忘れてしまった頃、私は百合ちゃんと籍を入れた。ほどなくして百合ちゃんのお腹には新しい命が宿った。ある時、子供の名前はどうするかという話になった。自分が花の名前をもらったので女の子ならやっぱり花に関する名前にしたいと百合ちゃんは言った。
「男の子なら?」と私は聞いた。
「フタバかな?」
「フタバ?」
「そう、男の子なら植物にちなんだ名前がいいかなと思って。ダメ?」
「いや、いい名前だと思うよ」そう答えながら、私は和田さんとフタバ君のことを思い出していた。思い出すといっても二回しか二人の顔を見ていないから、思い出せることなどほとんどなかったが、百合ちゃんから「フタバ」という言葉が発せられた時、なんとなくでしかないものの和田さんとフタバ君が幸せに暮らしているような気がした。

(この回終わり)


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