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世界の真ん中/宇宙の真ん中/生死の真ん中

2021年7月、橋の下盆踊りんピック開催。

仏恥義理(ブッチギリ)で最高でした。

なぜ人々はあの橋の下を目指すのか?

これは思想云々ではなく、

人間の本能、種の本能、生物としての本能に根付いた行動だろうと。

この答えについては後ほど述べるとして、

橋の下は古くから民衆の文化や表現の場として活用されていたようですし、年代物の何か見えない吸引力が働いてるとしか思えないほどのパワースポットでもあります。

毎度ながら、あの日、あの場にアレだけの幻の町とでも言うべき素晴らしい光景を生み出すTURTLE ISLANDはじめ、"火付け ぬ組" の仕事っぷりには毎度脱帽しまくりです。

だから毎回、自分もその時点での最高傑作を携えて出店参上しなきゃ飲み込まれてしまう。

2011年の東北大地震によって今までの凡ゆる価値観がひっくり返され、表現心を根底から揺さぶられた。

現実的復興、心の復興を命の祭りとしての表現に賭けた人達、2012年の橋の下世界音楽祭は狼煙を上げました。

2012年から2018年まで様々な変化を繰り返し、日本をはじめアジア各国、中東、ヨーロッパから豪華出演陣が揃いながら入場無料、そして投げ銭を願い橋の下を縦横無尽に練り歩く群れは名物の一つとなった。

現代日本において衣食住に洋装が当たり前となっているのに、あの橋の下に数日のみ出現する、日本人が置き去りにしてきたであろう着物、浴衣、櫓、幟、笠、提灯、畳、障子戸、響き渡る太鼓、篠笛、三味線、鉦、民謡、唄の音が出現し、懐かしくも新しく文化が現代にミックスされて、タイムスリップしたかのような感覚を訪れた人々に与えます。

日本文化な音や踊りだけでなく、アジア各国の民族音や衣装、踊りまで一同に観れる。

祭の中心となっている世代は今や40代。橋の下が始まった当初は30代中盤。それが全国の老若男女を魅了した。

SNSの普及も相まってその光景は世界中を駆け巡り、懐かしくも新しい、現代日本の新たなる祭像なるものを見せつけ、毎年凄まじい人々が北は北海道、南は沖縄まで全国津々浦々から集まってきたのです。

そして毎年増え続ける来場者と共に制御不能でルール無用な人達も増えて "ぬ組" の皆さんの対処も疲れも倍増してた模様。

2018年の雰囲気はちょっと危なっかしかった。だから一回止まってくれて良かったと思ったのが正直なところ。

自分の写真見返しても2017年がピークだったようにも思えます。自分のデータにも2018年の写真があまり無いってのも物語ってますし。

だけど本祭の合間に何年か連続で行われた橋の上、橋の下の盆踊り大会は人出もそれほどではなく、2012年の初回を彷彿とさせる祭りの姿形を思い出させてくれた。

2012年の橋の下世界音楽祭以来、一回の盆踊り大会を除いて全ての橋の下、ぬ組による祭には出店参加してます。その唯一出店しなかった盆踊り大会には遊びに行ってましたし。すなわち全参加。

そして2020年、2年ぶりに本祭が復活との報が。

しかし新型コロナウィルス騒動により中止の発表、
また橋の下とは違う形として、2021年6月に遊牧民祭なる祭開催の発表も、また緊急事態宣言により中止、、、

2度の中止もなんのその!
(間違いなく現場では大変な苦労があったことでしょう) 

2021年7月に橋の下盆踊りんピック無事開催となりました。

故 遠藤ミチロウさんが東京オリンピックによって世界中から人が集まってきた時に、日本の祭りや踊りを見せてやろうという言葉を、オリンピック開催に合わせて実現したワケであります。

アレがダメ、コレがイイ、アイツがダメ、コイツがダメ、コレならイイ、、、様々な意見の嵐です。

だけど現実にあの祭り(盆踊りんピック)は開催され、いつもの顔ぶれとの再会や奇跡的な光景に命を洗濯された気分であります。

さて、

橋の下の祭りのみならず、飲食店や音楽を生業とする人達はコロナ疫病騒動において、その都度、強制変化させられずにはいられなかったように、

この世界同時進行で人間に襲い掛かった "目に見えない恐怖の敵" に対して、創作者である自分自身も変化しなければとモガいてた1年半でした。

2020年初頭、映画や小説みたいな世界が現実に起きちゃったワケです。

金を持っていようがいまいが、誰もが皆平等に侵される。いくら金を積もうが治らない。

資本主義の崩壊、ポスト資本主義などの見出しもよく目にしました。

ただでさえ地震や津波、火山、豪雨、土砂崩れ、原発事故にテロなど生命に危機を感じる出来事を現実として目にしてきたのに、ココでトドメ刺しにきたなと

やはりリアルに死ってのを意識してしまいました。

路上でバタバタ人が倒れてくだの、さっきまで元気だったのに急変してそのまま御陀仏だの、情報も交錯して何がなんだか…スリラーでしたね。

まぁそんなこんなで世界中の皆さんが外出自粛して自宅に籠った、そして自分も。

2019年の12月中旬、大阪にて作品展をしましたが、ソレが終わったらポコンと心に穴が空いた感じになってしまいまして、

2010年くらいから休み無くイベント企画開催や個展やライブペイントやイベント出店をやり続けてきて、その都度小さな変化は起こせど、真新しい大きな変化をここ5年ほど自分の中で起こせてないなと思ったのです。

だから2019年が終わる時点で、2020年は一度止まって考えようと決めてました。

それから自宅にある本の数々を見直し、更に気になる本も買いまくり読みまくり、自身のルーツや欲望を洗いざらい剥き出しにしようとした。

記憶を幼少期まで掘り下げて、何が今の自分自身を形成させてきたのか、なぜ創りたいのかなど、2ヶ月ほど毎日みっちり考え抜き、

自分を形成した最大の影響はマンガだと気付きました。

なぜ森山大道さんのアレブレボケ写真に惹かれたのか、

寺山修司さんの言葉や映像にニヤつきが止まらないのか、

岡本太郎さんの存在と造形物や言葉に揺さぶられるのか、

横尾忠則さんの多種多様なスタイルに飲み込まれるのか、

なぜライブハウスのチラシまみれの壁やストリートの壁、路地裏の長屋飲み街、ツギハギだらけのボロ布に惹かれてしまうのか、、、

パッカーン、全てマンガで片付けられたのです。

よっしゃ!薄っすらだが点なる光が見えてきたぞ!って思ったらコロナ騒動本格化。

あの志村をも亡くなり、リアルに死を意識させられ更に思考は深まりだし、

文字や絵や写真や音など表面的に目に見える形で表現された創作モノだけでなく、日本や世界の変革の歴史も掘り下げ、そこで起きた人間の思想や行動の変化、心理学まで注目するように。

並行して、日本政府の様々な空振り感のあるザルな対応にヤキモキして、何やかんやと制作は続けてました。表現の勘が鈍らないように。

でもまだ何か出し切れてない感覚は続き、まだまだ気になる写真集や画集を探しては買う行為を繰り返してました。

いったい何が創りたい?
何を表現したら自分に納得できる?

結局、ずっと何処かから何かを引っ張ってこようとしてたんですね。

そんな時に観た映画がJOKER。

自分に最も創作的影響を与えた映画といえばTAXI DRIVERですから、JOKERがTAXI DRIVERみたいな内容だから絶対好きなはずって意見は貰ってたんですが、なかなか観るタイミングなくて、やっと観たんです。

いやはや面白かった。

そんですぐ、デニーロ×JOKERのステンシル作った。

コレ作ってた時、下地に様々なフリーハンドカットした三角をペタペタと塗ってた時に、あれ?コレはコレで良くないか?!ってのがずっと引っかかってたんです。

だけど、カッコイイものを追い求めてたからその三角群を形にしないまま2021年になり、まだ今一つモヤモヤがクリアにならずイライラは募り、

すがる思いで名古屋行って横尾忠則展を春先に観た。
そして散々に面喰らったその夜、ホテルで独り観た動画の中での横尾忠則さんの言葉で全て吹っ切れました。

"表現のアイデンティティが一つじゃいけないなんてことはない"

納得し過ぎちゃいました。

確かに横尾忠則展の作品はバラエティに富んでいた。アイデンティティが一つじゃなかった… 全てひっくるめて横尾忠則でした。

じゃあカッコイイのは一先ず置いといて、ずっと頭に残ってたあの三角の残像を形にしてみようと出てきたのがコレでした。

結局、何もかも削ぎ落とされた三角形となって現れた。

今までのようにカッコイイのが出来た!とか手応えも無く、でもなぜかホッとした自分がいましたね。

コレを見て、どんなにカッコつけてても自分の本質、根っこはマンガ的だなと再確認させられました。


ESSENCE(本質)

コレこそ自分の本質かもって思っちゃった感じ。

コレでようやく何か始まる予感がしたのです。

まだ手探りではあったけど、過去版と●▲を組合せて作品制作してみたり、


▲を一人歩きさせてみたり、

コレらが自分が想像してた以上の反応が各所から来たのでビックリ。

コレが出てきたのは岡本太郎さんの影響が大きい。

それまでも森山大道さんのハイコントラストのモノクローム写真、寺山修司さんの幻想写真コラージュや江戸川乱歩的なストーリー、粟津潔さんのいう日本古来の浮世絵や民話などなど、点でそれぞれ享受してきました。

ただ、まとまらなかった。

そこで、芸術とは? を1番のテーマに考えてた矢先、

岡本太郎さんの言葉と民俗学に喰らいまくった。

人間の本能や本質、知恵、伝達、祈り、踊り、行動、創作に夢中になりイメージは加速。

宇宙にまで拡がりました。

そして何と言っても、我々人間の存在意義。

こればかりは誰も解明出来ない宇宙の謎。

ソレに対してイラつき始めたのです。

なぜ生きてる?なぜ死にたくない?
そもそも存在してる理由もハッキリ分からないくせに。

だから意味も実体も見えない、捉えきれない途轍もないモノに対し、矛盾を糧に全身全霊で人間というちっぽけな存在を様々な表現で示すんだと。

思考の深まりは底なしに…

粟津潔さんも岡本太郎さんも、同じく日本に古から伝わる民話や伝承話に注目していた。

火のないところに煙はたたないように、恐ろしい鬼や天狗や山姥や河童や神隠し、人さらい、生け贄など全て根拠となるものがあったはずです。

芸術(アート)って概念は後付けであり、凡ゆる創作物は自然、動物、火、水、大地などに弱い人間が対峙し、そこから生じた様々な生死に関わる出来事、それに対抗した人間の行動が様々な形となった"モノ"を後に芸術と言ったのではないか。

だから岡本太郎さんは芸術とは呪術だと言った。

言葉がなかった時の伝達手段は絵や、音、リズム、声、身振り手振りや踊りだったろう。そして絵から文字が生まれ伝達が簡素化、共通理解された。

人間が到底解明できない、敵わない大自然や宇宙に対して精一杯に足掻いて何かを創る、伝える。

次の世代に伝えた、そしてたまたま残ってきたものが後に、文化遺産、芸術、美術と捉えられているんだろう。
あの縄文土器も火や水や風のウネり、動植物、狩りなどが表現されてると言うし。

そこで今回のこのコロナ疫病騒動。

目に見えない脅威や恐怖に対する人間の足掻き、様々な矛盾。 

現代に生きる表現者はあの疫病に対してそれぞれ何を想い、何を創るのか?

それらを呪術として捉えられるほどのモノは生まれたのか?!

正しいかどうかは分からないですが、自分の中から出た▲に関してのアイデアは凄く出てくる。

今までの自分が描いてきたイメージにも反発するでなく、難なくハマる。

そして▲が自分の表現の一つとして出てきてからは、色々な本探しや本読みも落ち着いてきた。

点在していた自分の興味群が線で繋がりだし、面となって拡がっていく感覚。

自分の中で何かしらの到達感を得たのだと思います。

そして最後に手を出したのが、ついつい後回しになっていたこの本、

切腹ピストルズ隊長が、この中で検証されているのは自分たちの事だと言ったとか。

この本のメインで言わんとしてるところは、政治や社会などにおいて大きく変革をした年の1年前に必ずや全国の民衆を巻き込んだ踊り(踊狂)が発生していたという歴史。

その根拠、根源を順番に検証していくという内容であります。

エージャナイカ、エージャナイカ、ヨイヨイヨイヨイ〜

ぐらいは誰しも一度は目に耳にしたことでしょう。

古くは縄文まで遡って検証されております。

そして古事記における、イザナミ、イザナギ、スサノオ、天照の大神、、、

古事記のストーリーが今なお続く様々な信仰や祭りなど全ての根っこであり、科学なんて全く無かった純粋ウブな人類が死を恐れ、生きるため、生き延びて繋ぐため(性) 、凡ゆる自然現象や天変地異に対して民衆を治める為のストーリーを創作、それを信仰とした。

どうやらずっと人間存在の本質は変わってない。

更に遡ると、人間に最も近い種であるチンパンジーは、古から立てた棒の周りを輪踊りしてたとか。これは種の本能ですね。

死を回避するため、生き残るため、最大の目的は繋ぐ性であり、

そして死を招く天変地異や疫病から守るために祈祷(火、音、踊り、生贄、動物信仰など)する、それが祭り。

真ん中に奉る棒や櫓は男性器の象徴だそうです。

そして大地が女性。母なる大地と言いますもんね。

大地(女性)に立ちモノ(男性)を挿す。

正にそういう性的な意味。

古い過去に疫病が流行り、バタバタと人が倒れていく中、疫病退散やココから入ってくれるなと人々は願い、町の入り口には男性器と女性器をモチーフにした厄除像が立てられたり。

日本に儒教が入ってくるまでは、朝廷も民衆も一緒に性的行動を喚起する祭に参加してたとか。

日本はやはり性に対して大らかだった。春画も世界を驚かせましたよね。そして大正時代まで地方では盆踊りにそのような性に繋がる儀式は残っていたそうです。

そして時の権力者は何よりも性的行動を喚起する祭による民衆の結束力を恐れ、制限したり処罰の対象とした。

何だか鬼が出てくる昔話って大体若い娘よこせって言いませんか?

間違いなくそこにも性的な話が潜んでるはず。

柳田國男さんの遠野物語も一通り読み、それを踏まえてまんが日本昔ばなしを観たりしましたが、日本人のコレらの想像力、創作感覚こそ世界に誇る部分だと思います。

日々の生活が生きるか死ぬかのギリギリな農民達は草木などで仮面を作り、ボロを纏い、自ら異形となって練り歩いた田楽。(妖怪のはしり?)

捨て聖、畜生法師、動物の剥いだ皮を纏った皮聖として全国を歩き周った空也、一遍などが提唱した踊り念仏も民衆の心を掴んで広く普及した。

集団で一晩中鳴り響く太鼓と鉦の音、リズムを刻む地団駄踏みで床を鳴らし経をよむ、コレらによって凄まじいグルーヴを生んで集団はトランス状態になって現世の辛さ、死の恐怖を忘れたとか。

だから自殺も増えたらしい…

全て生きるため(性)に、死を超越した心持ちでその場をヌケ出し、文字通りのヌケ参り、御陰参りとして伊勢神宮を目指すディスカバリージャパン状態が全国に飛び火。

下民衆が地を踏み鳴らし、跳ね躍り、鉦と太鼓を鳴り響かせながら行脚する異形な田楽から婆裟羅、歌舞伎へと変化。

"躍り"は"踊り"へと芸能の色を強めていった。

下民だけでなく、若き青侍も下剋上よろしくと権力に対して衣装や立居振る舞いでカブキまくった。代表的なのが織田信長。

そんな権力者に豪快な振舞いで立ち向かう悪の華、悪のヒーローな伊達漢はいつの時代も民衆の心を掴む。

あの映画TAXI DRIVERのトラビスにしたって、JOKERにしたって、分かりやすい悪のヒーロー像ですね。西洋も東洋も関係ない、人間としての本能を刺激するのでしょう。

さて、

ここまでダダダ…と簡単に書き連ねてきましたが、この時代の流れに全く影響されない人間の本能に基づく行動の数々。

段々と、なぜ橋の下の祭りに全国から人が集まってくるのかが分かってきたんじゃないでしょうか?

僕は文筆家ではないんで、読んでる人にしっかりしたビジョンを与えることは出来てないかもしれませんが、何となく点が線になって、面として現代の祭像に繋がっていくイメージを与えられてたら幸いです。

そしてタートルアイランドのヨシキくんがいつも櫓の上から言ってる、次は若い奴らやお前らがヤレっての。

現代の若き青侍、悪の華たちが立ち上がりはじめるニオイをプンプン感じてるのは自分だけでしょうか?

始まりは震災からの復興、天変地異からの死を捉えて、超えて生きているという存在証明を放つ命の祭として機能し、人々が生きている実感を得る為に集まってきてたように思います。

そして特に今回は疫病騒動に対する権力者たちの対応に不満が溜まりまくってる上、生命の危機感、生活の不安感、更に増幅したであろう権力者に対する憤り、反抗。

祭や踊りを通して、今生きているという存在証明。

そこに色々な表現形態や挑戦がある。

現代には現代の表現が個々人様々にあり、必ずしも一つにならないといけないことはないわけです。一つの場に集まってるだけでいい。

そのパワーの集合、集団は凄まじく場をウネる。

それぞれがそれぞれの表現、存在を橋の下に持ち寄り、瞬間瞬間に一つになれば良い。

根底にある想い、事実は皆同じ。

其処に今、生きているということ。

それを互いに出会うことで確認、体感できる。

死を身近に感じてこそ生きるためにジタバタ足掻き、挑戦する。

とある世界の部族の話らしいですが、成人の儀式なるものが命の危険があるからと今後一切やらないようにと権力者から言われてしまったと。

そうするとその部族はヤリガイを無くし堕落し、消滅したとかどうとか。

つまり、生きることにおいて、死の恐怖に対して挑戦するということがどれだけ命を燃やし、奮い立たせてくれるのかってことです。

毎年、山車を曳いたり馬(駒)などの動物を扱う全国各地の祭りに死者が出ても止まらないのはそういう毎年挑戦する気持ちが根底にあるからでしょう。

生きる為に性を繋ぐ、命を繋ぐ、全て死を前提とした挑戦です。

死ぬかもしれないギリギリ感、命懸け。

恐怖を乗り越えて生きる。

ナマハゲを代表とする全国各地の奇祭の根源がチラホラ感じられる。

祭の本質は生(性)と死。

いくらカッコつけてたって本質は生物的に弱い丸裸の人間。

生(性)や死をしっかり捉え、乗り越えてムキ出しの表現をする。

宇宙、大自然に対して、何てちっぽけな人間存在。

この矛盾に対して精一杯、自身の存在を鼓舞して足掻き倒す。

心身躍り踊る。それぞれの表現形態を携えて歩き出す。

今回、自分は●▲■の表現形態を携えた。

そして目指した橋の下。

命の叫び、祭囃子が聞こえる方へ。

またいつの日か、いざ参らん。

明日はどっちだ。


田中周平
(REBELMAN★ARMY)

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