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櫻の花は今が盛り(ショートストーリー)

風がひとひらの花びらを運んできた。私は、髪に付いた桃色のそれを指でそっと摘む。

「…ん…」
私の指の気配に気付いた彼が、少し顔を歪ませた後、薄く目を開けた。
「あ、起こしちゃったね」
私はそう言い、自分の太ももの上にのった彼の頭をゆっくりと撫でる。
「桜の花びらがついてたからとったのよ」
「そっか…俺、ずっと寝てたんだね」
彼は呟いて、大きなあくびをした。うららかな春の日差しが、彼を優しく包んでいる。  

◆◆◆

今日は珍しく午前中から会えた。
彼が暮らす社員寮の近くには、地元住民から“桜の名所”と呼ばれている公園がある。「あの公園でお花見がしたいね」、以前からしていた約束を、やっと今日果たせたのだ。 

平日の午前10時の公園は、驚くほど閑散としていた。みんな学校や仕事に行くか、そうでなければ自宅にこもりきりなのだろうか。有休を取った甲斐があった。私たちは広い公園を貸し切りにしたような解放感にはしゃぎつつ、満開に咲き誇る桜の下のベンチを選び、並んで腰をおろした。

夜勤明けだった彼は眠かったのだろう。花見もそこそこに「ちょっとだけ横になっていい?」と言い、私の膝を枕にして、あっという間に健やかな寝息をたてたのだ。 

◆◆◆

「せっかくの花見なのに、寝ちゃってごめんね」
彼がそう言うので、
「ううん。寝顔見てるの楽しかった」
と返す。
「えっ、そうなの?…なんか恥ずかしいな」
彼は顔を赤らめ、小声で言う。
そして、うーん、と大きく伸びをした後に、クルンと体をこちらに向け、両手を私の腰に回してギュッと抱きついた。
「どうしたの?」
彼に尋ねる自分の声が甘い。一緒にいるだけで、こんな声になっちゃうんだな。そう思いつつ、彼の柔らかい黒髪に再び触れる。
「爽香って、いい匂いがする」
彼はそう言って、くしゃっと目を細くして子どものように無邪気に笑う。
今年、成人式を迎えたばかりの彼は、私よりひとまわりも年下だ。職場で見せるキリッとした制服姿ではなく、今日のようにラフなスウェットを着てデニムをはいていると、年齢よりだいぶ幼く見える。

「ねぇ爽香…」
「なぁに?」
彼は目を閉じたまま、穏やかな笑みを浮かべて言う。
「ずっと、俺のそばにいて」 

◆◆◆ 

同じ職場に勤める私たちが親密になったのは半年前、仕事の帰りに初めて2人で飲んだ夜だった。
「先輩。俺、この前ハタチになったんですよ。どこか飲みに連れてってください」
とても20歳とは思えない幼い顔立ちの彼にそう言われて、思わず笑みがこぼれた。自分も大人だと主張する彼は、私からすると、まだまだかわいらしさが残る子どもだった。
私は胸の内を悟られないように平静を装って、
「分かったわ。じゃあ、とっておきのお店に行きましょう」
と返した。

彼は幼い顔に似合わず、責任感が強く、常にどっしりと構えて仕事をこなす人だった。
部署替えで異動してきた私は、今まで業務外だった仕事をこなすのに必死だった。客からのクレーム対応、営業の後方支援…手こずるたびに、いつもさりげなくフォローしてくれたのが彼だった。気づいたら、その頼りがいのある背中を目で追っていた。たまに目が合うと、頬を赤くしながらも満面の笑みを浮かべてこちらを見る彼にドキドキした。たわいもない雑談の最中、憧れに似た目で私を見る彼に気づいた時、その気持ちに「応えたい」と思ってしまった。

私には夫と子どもがいる。
家族との生活はもちろん大切だった。けれどもう、彼の視線を無視することができなくなっていた。
家族と過ごす平穏な毎日では決して味わえない、溶け出しそうに甘やかで純粋な瞳を持つ彼に、心を絡めとられてしまったのだ。 


彼との食事に選んだのはまだ独身の頃、女友達と贅沢気分を味わいたい時に訪れていた店だった。ほの暗い照明の中、心地いいピアノの生演奏を聴きながら南欧料理とカクテルを楽しむこの空間を、彼と共有したかった。
「こんなところに来るのは初めてです」
ジャケットを着てきて良かった、と呟く彼を見て、自然と顔がほころんだ。彼の“初めて”を奪うことに喜びを感じ、もっと奪いたい、と思った。 

何杯目かのカクテルを飲みながら、酔いにまかせ、
「まだ、女性として求められたいの」
私がそう言った時。私に向けた、彼の戸惑うような瞳の色は、今でも忘れられない。
誰に求められたいの? 彼はそう言いたげな顔をしていた。何度か口をあけて言葉を紡ぎかけて、結局なにも言えずに目を伏せる彼が愛おしくてたまらなかった。だから、落ち着きなくグラスへ伸ばす彼の手に、自分の手を重ねたのだった。

あの時の、かすかに震える彼の手と、その温もりを思い出す度に、胸がちくりと痛む。 
今思えば、言ってはいけない言葉だった。心の奥にとどめておかなければいけなかった。

あの言葉を言ったがために、私は彼を、連れていってはいけない場所へいざなってしまったのだ。 

◆◆◆ 

私たちは、ずっと一緒にはいられない。彼だってそんなことは百も承知だろう。

だからこそ彼は、「ずっとそばにいて」なんて、あえて口に出し、ほんの少しの抵抗を試みるのだ。そして、その言葉を聞いた私の動揺する姿を見ないように、目を閉じ続けるのだ。

まだ20歳の彼に、こんな思いをさせてしまって悪かったなと思う。でもきっと、どういう道筋をたどっても、私は何度でも彼を愛してしまうんだろうとも思っている。
だって彼の、あのまっすぐで無垢な愛情に抗える人がいるのだろうか。包み込むような懐の深さを拒絶できる人がいるのだろうか。その愛を受ける資格はない私なのに、それを押しのけてまで求めてしまうほどの魅力を持った、清廉で純粋な彼を。

  ◆◆◆

暖かな風が、ふわりとそよぐ。
公園のベンチで彼とふたり、たわいもないおしゃべりをする幸せ。このまま時が止まってしまえばいいのに。

「私は桜になりたいな」
「え?桜に?どうして?」
彼は相変わらず、少し眠たげな声で問う。
「だって、桜の花は美しいうちにパッと散っちゃうから」
「…うん」
「私もね、あなたに“綺麗”と言ってもらえるうちに散ってしまいたいの」
彼はキョトンとした顔をして目をしばたたかせる。また変なこと言ってるな、と思っているのだろうか。
やがて彼は小さくあくびをしてから、いや、爽香はいつまでも美しいからね、大丈夫だよ、とひとりごとのようにブツブツと言う。
「なんて言ったの?」
聞こえないふりをして尋ねる。
「…うん、爽香はさぁ…きっと、おばあちゃんになってもかわいいんだろうなぁ」
彼は眩しげに目を細めて私を見上げる。
「ちょっと、いきなり私をおばあちゃんにしないでよ」
「あー…そうだよね」 
あはは、と彼は笑う。風がまたふわりと吹き、花びらが彼の回りを舞い落ちていく。

今、彼の瞳には、私と桃色の桜が映っている。雲ひとつない青い空を背景にして。美しい光景になっているといい。彼の視線に止まる私は、いつも綺麗でありたい。 

私が彼にあげられる愛は、ただそれだけだから。

◆◆◆ 

桜の花は、今が一番の盛りだ。おそらく数日後には、花はあらかた散ってしまうだろう。私と彼の恋も同じだ。今が盛り。もう少ししたら私たちは、お互いに背を向けて、別々の道を歩き出す。その鍵は私が握っている。彼は、私が“その言葉”をいつ切り出すか、静かに待っているような気がする。 
そっと目を閉じ、口の端には穏やかな笑みを浮かべて。


欲深い私は家族を裏切り、彼の純粋な心を淀ませてしまった。いつかきっと、罪の意識にさいなまれる時がくるのだろう。
それでも私は、彼を好きになったことを後悔しない。ふたりで、儚くも美しい花びらを追いかけた日々を忘れない。

私は自分の心に焼きつけるように、じっと満開の桜を眺めた。


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こちらの企画に参加いたしました。
桜の花の美しさと儚さが表現できたらいいな、と思って書きました。
yuca.様、素敵な企画をありがとうございます。

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