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映画『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』感想

予告編
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額縁


 公開開始は5月の下旬。「まだ上映してたんだ」とちょっと驚き。友人に誘われて劇場にて鑑賞。『ジョジョの奇妙な冒険』の原作漫画は断片的に、アニメ版は一通り観て、『岸辺露伴は動かない』の漫画は、いくつかは読んだことがある、けどTVドラマ版は未見……。とまぁ、非常にライトな『ジョジョ』読者なので、あまり原作のアレがなんだかんだといった話はできませんが、悪しからず。『ジョジョ』云々も良いですが、あくまで映画の感想文として楽しんで頂ければ幸いです。



 
 映画の冒頭にモノローグで語られる、本作の物語のキーとなる〈最も黒い絵〉の話。そのシーンの映像は、ただただ真っ暗で真っ黒で、何も描かれてはいません。ですが、後々のシーンで実際に登場する〈最も黒い絵〉の形(縦×横の比率)が、本作のスクリプト比と近似していたために、その真っ黒な画面が、ただ〈最も黒い絵〉という特性に合わせた演出ということ以上に、その冒頭シーンが〈最も黒い絵〉を象徴していたんじゃないかと思わされるんです。いわゆるシネマスコープに比べて横に短い画面になっていたのは、そういう理由もあったんじゃないかな。(……もしかしたらTVドラマの劇場版だからTV放送の時の比率に似せていただけかもしれませんが)
 
 ——冒頭の真っ黒な画面が〈最も黒い絵〉を象徴している——(まぁそれが事実なのか僕の思い過ごしなのかはさておき、)暗い劇場の中、映画(物語)が始まり、その冒頭(物語の入り口)でそんなシーンを描くことは、観客を〈最も黒い絵〉の中に誘(いざな)わんとするようにも感じられます。まるで作品内で描かれる〈最も黒い絵〉の性質を表現しているような、本作の世界観を堪能させてくれる仕掛けの一つ。また、「絵の中に誘(いざな)う」という解釈は、本作の映像それ自体を、どこか絵画のように眺めたくさせるような力も同時に生み出していたような印象です。絵画含め、芸術に関しての素養なんか持ち合わせていない僕ですが、残念ながらここから先の感想はほぼ全て、そういった認識の上での考察が多くなると思われます。


 
 それこそTVドラマ版との比較が必要になってくるかもしれませんが、本作はやたらと “なめる” ショット(画面の手前に何かを映し込ませ、それ越しに、その奥にある主体となる被写体(俳優等)を撮る手法)が多いように見受けられました。もしかしたら一つ一つに何か意味があったのかもしれませんが、そんなこと以上に、僕にはそれら “なめショット” に映り込む諸々が、本作の映像の額縁的な役割を担っているように思えたんです。(まぁ役割というよりは装飾って言った方が正確かも)

 そう思えたからこそ、そんな額縁的な役割のものが消える瞬間にドキッとさせられる。本作、そして〈最も黒い絵〉に関して重要な存在となる奈々瀬(木村文乃)と、若き日の岸辺露伴(長尾謙杜)が会話をするシーン。ある時、露伴が彼女の地雷を踏んでしまったような、或いは逆鱗に触れてしまったかのような、空気が一変するような雰囲気が訪れる。彼女の、果ては〈最も黒い絵〉の深淵に触れるかのようなそのシーンに差し掛かった時、カットは同じまま、じわじわと少しずつ、カメラがズーム(もしくはトラックアップ?)するように奥の二人に接近していく。それによって、それまで見切れていた〈障子などの “なめショット” を構成していたもの〉が画面から排除されていく……。「額縁が映る(=見える)」ということは、まだ “絵の外側”。「奥の被写体に近付くことで額縁が消える(見えなくなる)」ということは、まるで “絵画の中” に入り込んでいくかのよう。物語、或いは〈最も黒い絵〉の深淵に迫るかもしれないシーンで、そういった見せ方に切り替わるのは、とても面白い表現だったと思います。しかも、「これ以上は踏み込まないでおこう……」みたいな空気になり出すと、途端にカメラがトラックバックするように動き、先ほどと同様に再び「見切れ」、“なめショット” が描かれる……。長々と能書きを垂れましたが、正直言って、自信はありません。でもこれって狙っての演出なのかな? だとしたら物凄いこだわりだと思います。

 
 そんな本作の終盤。ネタバレ防止のため詳細は割愛しますが、なんやかんやあって騒動が解決し、今回の舞台となったルーヴル美術館を眺める露伴(高橋一生)と泉(飯豊まりえ)の二人が描かれる。そこで「ルーヴルは人の手に余る」と口にする露伴の奥に見えるルーヴル美術館の姿は、手前に居る二人よりも大きく映されることにより、露伴のそのセリフを体現していたような気がします。……と思っていたら、露伴だけが手前に移動することによって、スクリーン上ではルーヴル美術館よりも大きく見えるように映し出される。口では「人の手に余る」とは言いつつも、なんだかんだで本作の主人公は岸辺露伴なのだと、見せつけていたのかもしれません。こういうキザな解釈が出来てしまう……というよりは、したくなってしまうのは、どこか『ジョジョ』らしいとも言えるのかもしれません。



 
 〈最も黒い絵〉に振り回されることになった本作の物語。「絵の本質」だなんて言うと大仰かな? 絵が持つ「性質」ぐらいに留めておきましょうか。「今」や「瞬間」を切り取って後世に残せる〈絵〉は、時間が経ってもその過去を振り返ることを可能にしてくれる代物。一方、ある種〈絵〉と似た性質を持つ〈写真〉を手にし、それと「今」を見比べながら泉が口にした「過去に近寄れる」という言葉からは、どちらかといえば “過去が近寄ってくる” ような印象の方が強かった〈最も黒い絵〉とは若干異なる考え方のように感じられました。似ているようだけど、過去そのものを否定しない、決してネガティブじゃない捉え方。流石は露伴に「百に一つは良いことを言う」と言わしめた人物だ、と思えて面白かったです笑。
 
 また、その血筋や過去の因縁や歴史等々、血縁の中で積み重ねられてきたものが根っこに隠されていた本作は、それこそ血統や受け継がれる意志などが大切なテーマでもある『ジョジョ』らしさにも繋がるような気がします。



 
 ……なんか途中から、感じたことを上手く言語化できなくなってきて、非常に読みづらい感想文になってしまったようにも思います。すみません。


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