音楽の花嫁_表紙

【長編小説】音楽の花嫁 5/19

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駅へ走りながら気分は家出娘だった。足音と呼吸音を撒き散らしながら、ちりぢりの考えが生まれては風景と一緒に後へ後へと消えて行く。娘に本当に産んだの、と言われて傷つくくらいなら産まなければいいのに、と思った。思いやりが無いなりに考えてみようと思った。さっきの、炊事洗濯を自分でやることを考えた時の鉛のように重く沈む気分を思い出した。あれを母は私の分まで背負ってくれている、それは気の遠くなるほど有難いことで、他人じゃ絶対にやってくれないことで、なのに今までやってきてくれているということは要は母は本当に私の母なのだった。それは感謝すべきことだが、本当に感謝し尽くしたら他人になってしまうような気もした。性格も合わない呼吸も合わない冗談も通じない母と私を一番よくつなぎとめているのは母が私を「世話」してくれていることな気がした。でもそれを当たり前と思わずに愛情とかいたわりとかを返してほしいと母は言っているんだろう、でも感謝と言っても私がお願いしたわけではなく母は自分の意思で私を産んだんだし、でも母が産んでくれなかったら私はここにいないわけで、どうにも感謝すべきな気がするけれど、「べき」で縁取られた感謝なんてねじけて使いものにならないのだった。そこでふと、腱鞘炎になるほどヴァイオリンを弾き倒して合宿直前にドクターストップがかかった部長のことが思い浮かんだ。見せつけるように巻かれた白い包帯を見たら、すごく、疲れた。「分かる、分かるよ」という部長の取り巻きの声と「あなたには分からないのよ!」という母の泣き声が同時に聞こえた。世界で一人の娘に分かってもらえない母が不憫だった。私はひどくバチあたりで恩知らずな子供だ。そう思うのは、潰してはならないと分かっているニキビに爪を立てて血と白い膿を絞り出す時のように痛く、気持ちが良かった。もっと、もっと。若い母親だった母は女の赤ん坊を育てながら友達みたいな母娘になれることを無邪気に夢見ていたかもしれない。こんな子供を産むつもりではなかったかもしれない。思いやりの無い子、そうだ、私は、気配りの出来ない子、女の子らしい女の子になれない子。母の望みに適わない子。涙が沢山出て来たので道路にDNAをぼたぼた落としながら走った。泣きすぎた顔で電車に乗りたくなかったのでそのままの勢いで一駅分走ってしまった。ライヴハウスに着く頃には泣きやんでいた。
 受付のお兄さんは私の制服姿を見るとしばしポーズし、まごついた手で他の人とは色が違うドリンクのチケットを渡しお酒は頼めないことを告げた。ただでさえ汗だくで泣き腫らした瞼で醜い姿なのに制服で来てしまい恥ずかしかった。でも制服以外この場所に何を着てけばいいのか正直分からない。
 フロアに入ろうとすると私のカバンが小さく震えた。携帯を開くと数分おきに十件近く母からの着信が並んでおり呪いを浴びたようだった。反射的に電源を切った。今だけは音楽に逃げさせて欲しかった。
 逃げる。逃げると言うなら私はここからこそ逃げたかった。音を洩らさないよう重く作られたドアを開けると既に戦争花嫁のステージは始まっており、曲間のチューニングの最中だった。教室より狭いだろう、百人も入ったらぱんぱんになってしまいそうなフロアには人はまばらで、小さなテーブルの周りに二、三人ずつかたまっており、ほとんどが男の人だった。私以外の全員が知り合い同士で来ているように見えた。効き過ぎた冷房で一気に汗を冷やされた私は自分だけ別な温度をまとわりつかせた異質な人間に感じる。早く演奏が始まってほしい。

チューニングを終えたギターはみぞおちにぎゅっと引きつけて楽器を構えると、刃物のような視線をフロアに一巡させた。まるで、客の中にまがいものを探すように。フロアは冷え固まったように密度が高まる。耳が痛くなるような静けさが落ちる。ギターがネックをくっと落とし、再び高く上げたと思ったら斧のように振り落としクラッシュシンバルにぶち当てた。それを合図に全ての音が溢れ出した。頭が割れたようだった。待ち詫びた大音量が私の耳を浸し、脳までを浸食しようとまっしぐらに攻めてきた。定期的に打ち出されるバスドラが私の内臓を蹴り上げる。自分の境界が水面のように激しく揺さぶられているのが分かる。このまま脳も内臓も溶け出してしまいそうだ。ギターは爪まで削ごうとする勢いで弦にピックを擦りつけていたがその音は直接にはほとんど聞こえず、既にエフェクターで増幅され反響し合い天井を亡霊のように泳ぐ過去の音の一列に加わり、雑然さを増した。音はどんどん大きくなる、これ以上大きくならないだろうと思うのにもっともっと大きくなる。音の圧力に負けて潰れそうだ、新旧折り重なる音が天井までびっしり満たして息が出来なくなる、限界だ、と思ったところでギターは楽器を放り投げ、床に置かれた拡声器を拾い、マイクにそれを押しつけて、叫び始めた。
「きっと何者にもなれないお前達に告ぐー!」
 フロアがどっと沸いた。この曲は最も人気のある曲だった。生きていることを示すように沢山の男の声が思い思いの咆哮で答える。
「お前たちは! 包囲されている! 言葉に、利器に、安全策にー! 無駄な抵抗はやめて、大人しく出て来なさい! お腹が減ったでしょう?!」
 ウーウーと消防車のサイレンのような不快な音が左右のスピーカーを交互に巡る。拡声器の潰れた声が私を裂こうとしてくる。
「あなたの住所はどこですかー?! あなたのおうちはどこですかー?! あなたの信義はどこですか? あなたの味方はどこですかー?!」
 自白を強要するかのように白い照明が私達に突きつけられる。私は観念して目を閉じる。目を閉じても瞼の裏をライトが灼いた。
「あなたは何者なんですかー?!」
 ライトは目の奥を突き抜け私の頭蓋骨の裏側まで到達した。その光にレントゲンのように全てを見透かされ、私は殺される。音楽が、私の耳から遠ざかっていく。無音で、何も見えず、靴の裏に感じているはずの床の感触さえおぼつかない。このまま何も感じず名前も何者かも分からずに自分が無くなってしまってもいいと思った。音楽に観念して全身を投げ出す。水死体のように幸福な気持ちだった。一瞬眠ったような気がした。光が弱まったように感じて静かに目を開けてみると、ステージには相変わらず拡声器を持った男とドラムとベースが立っていた。私の耳に轟音が戻って来た。今しがた私の中には何も無いことを暴いた拡声器の男は紛れも無い何者かとしてステージに君臨し、私を見下している。
「お前の命を人質に取ったお前は数時間後無事警官によって保護されました」
 新聞記事を読み上げるように最後にそう告げると拡声器はギロチンにかけた首のようにゴトリと床に落とされた。それでもう最後の曲だった。
 
 ライヴが終わってもまだ何事も無く世界が続いていることが不思議だった。それがまさしく私が何者でもない証拠で、私に何が起こっても世界には関係無いのだった。
 何故お金を払ってこんな悲しい思いをしにわざわざ出かけているのか自分でも愚かだと思った。音楽に救われる、音楽に癒されるという表現があるけれど戦争花嫁は私を救わない。名前も何も無くなってもいい、ただ口を開けて音楽を浴びるだけの肉の袋になってしまってもいい、それより幸せなことなんて無い、と、彼らの音楽は私に思い知らせる。そして数分後には無責任に娑婆に放り出す。私はライヴ以外の時間をどうやって生きていたのか分からなくなる。頭蓋骨の裏まで見透かした光がまだ私の頭に留まり痺れを残している。
 戦争花嫁の面々はフロアに出て来て仲間とお酒を飲み始めている。お疲れお疲れと肩を叩かれ褒めちぎられる。私以外の客は号令にかけられたように数人グループを作りだす。また気詰まりな時間が戻って来た。早く帰ってしまいたいけれどドリンクチケットが勿体無いので飲み物だけもらって帰ろうと思った。カウンターに立って順番を待ちつつ横目でばれないようにギターの彼を盗み見る。手しか見えない、けれど手が大きいと思った。私は兄のギターを試しに弾いてみたことがあるけれどあまりに手が小さくてすぐに断念した。兄も私の手を見て「こりゃだめだ」と断言するほどだった。
 紺野が一緒にいれば「良かった、超格好良かった」と言ってはしゃいでいられるのに、一人だとやたらと気分が落ち込んだ。メンバーに話しかけてみようと思ったことは無かった。それは落ちた入試の答え合わせをするような不毛さを感じるから。


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