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page 12 『 曖昧な色の落とし物 』ノンフィクション

第6章『 感情の交差 』

 時計の針が、まもなく夕方の4時を指そうとしている。刻一刻と夫の出発時間が近づきつつある中、私達はマドレーヌやフィナンシェ等の焼き菓子を口にしながら、思い思いの時間を過ごしていた。ある者はコーヒーを片手に本を読み、ある者は携帯電話を触ったり、お喋りを楽しんだりと。

息子「次はどれにしようかな〜?」

30分程前に学校から帰ってきた息子は、目をキョロキョロさせながら2個目の焼き菓子を選び、嬉しそうに口へと運ぶ。

夫「これ飲み終わったら、そろそろ出発するわ」

私「うん」

最後のひと口を飲み終えた夫は鞄を手に取り、玄関へと向かう。

皆 「気をつけてね。いってらっしゃい」

夫 「いってきます。では、3週間よろしくお願いします」

夫はそう言い、出張先へと向かう為、自宅を後にした。遂に、両親と息子と私だけの生活が始まった。

両親に病気のことを打ち明けたとは言っても、
ここからの3週間がどんなものになるのか。
今は全くと言っていい程、見当がつかない。

変化を不安と感じてしまう私には...。
生きていれば、変化はあたりまえのことなのに。
頭ではわかっているのに。

ここからは夫が不在という以外に、治療のための薬を飲むという変化がある。
この薬は不安感を抑える薬、ルボックスという。選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI薬)に分類される抗うつ薬の1つだ。

残念ながら、この薬に即効性はない。体が慣れるまで、効果が出てくるまでには大体4〜8週間程時間がかかるそうだ。飲み始めは、特に副作用を強く感じやすいからと先生や薬剤師さんからも説明を受けている。

夕食後、私は少し緊張した面持ちで初めて薬を飲んだ。今日から次の受診日迄の6日間は、1日50mg服薬。1日2回朝晩25mg×1錠を服用する。
始めのうちは、特に吐き気が強く出やすいそうなので、一緒に処方してもらった吐き気止めの薬
(モサプリドクエン酸塩錠5mg)も服用した。
1日2回朝晩5mg×1錠だ。

しばらくの間、私はダイニングの椅子に座り、
ゆったりと過ごしたが、特に変化は感じない。
けれども今日は早めにベッドで休むことに決め、両親と息子にその旨を伝えることにした。

私 「先に寝るね。お先に、おやすみなさい」

両親「おやすみ」

息子「おやすみー」

私に声を掛けながら、息子は時計を見た。

息子「お母さん、寝るの早っ!まだ8時!」



「ピーピピッピピピピ...」
近くで音が鳴り続けている。携帯のアラーム音のようだ。

もう朝なの?

そう思いながら私は手を伸ばし、アラームを止めた。その音が鳴り止むのと同時に、現実が頭をよぎり、少し憂鬱な気分になってしまった。きっとこれからの生活に自信がないせいだ。
 
今日は服薬後、初めての朝である。
私はベッドからゆっくりと起き上がった。

うん...?
なんだかちょっと焦点が合わないというか...目の前がぐるぐるしていて、軽い目眩のような感覚?


私はゆっくりと立ち上がり、歩いてリビングへ向かったが、右に左にと体が引っ張られてしまい、少しフラフラする。真っ直ぐには歩けないようだ。

座ったら治るかもしれない。

そう思い、今度はリビングダイニングの椅子に座ってみた。しかし、一向に治る気配はない。
まだ誰かが起きてくる様子はなく、このままの状態で様子を見ることにした。

貧血のような感じで、食欲もないのだ。風邪をひいても食欲だけはほぼ落ちない私は、食べることが大好きで朝食も抜いたこと等ない。今日は1年の中でも、随分と珍しい日のようだ。

これって副作用?
それともただ、ちょっと具合が悪いだけ?

そういえば...

私は、昨日のM先生の言葉を思い出した。

先生「胃や腸が動いていない時、おなかが空っぽの時は、どうしても吐き気が出やすい。
飲み始めの時期は特に、より強く副作用を感じる。おなかが空きすぎた時のような吐き気を感じてしまうから、何か食べて。でも飴では効果はないから」

そんな時、母が寝室から出てきた。
母「おはよう。どうしたの?」

私「おはよう。何だかムカムカ、くらくらする。貧血みたいな感じ」

母は事情を知ると、すぐに朝食を用意してくれ、私だけ先に食べることになった。

大好きなサラダ。だが、食べたいという気持ちが全くない。私は仕方なくトマトを選び、口に運ぶ。普段なら喜んで完食となるはずの朝食も食欲のない時に食べなくてはいけないというのは、結構辛いものだ。いつもの倍くらいの時間をかけ、私はどうにか食べきった。
そしてまた、あの薬を飲まなくてはならない。

起きてきた息子と早朝散歩から戻った父は、一緒に朝食を食べ始めたところだ。私は薬を飲み2人の会話を聴きながらしばらくの間は、ゆっくりと過ごすことにした。

その後体調を見ながら洗濯と掃除をし、母と一緒に家の周りの散歩を兼ねて、買い物へと向かう。徐々に気分も良くなってきていた。家事や散歩や買い物で、体を動かしたからなのか。はたまた、おなかに食べ物が入ったことで胃や腸が動き出したからか。少し早めに昼食を摂るように心がけたからなのか...。

午後は、治療を始めたばかりの強迫性障害のインプットタイムに使おうと私は考えていた。服薬は少量でも、既に身体が副作用を感じている様子だから。

病気のこと、治療のこと、お薬のこと。
少しずつでも勉強しておこう。


まずは、出来そうかなと思えることから
出来る限り、行動してみよう。

少しずつではあるが、そういう気持ちも生まれてきていた。

まもなく夕方を迎えるという頃、私の身体にある変化が訪れた。何故だかはわからないが、気分が一気にすっきりとした。今朝感じた目眩や貧血のような症状、気持ち悪さも全くない。
もういつもの私だった。急によくしゃべるようになった私を見て、父も母も自然と私の調子が良くなったことがわかる程の変わりようだ。

その後の夕食の美味しさといったら...もう絶品の美味しさで、ここぞとばかりに箸を進めている私を見て、母は失笑するばかりだ。

その後は少し休んでからお風呂に入る。するとお風呂から出た直後に、私は父から注意を受けることとなったのである。

父「お風呂が長すぎる!シャワーだけなのに、
1時間もかからないだろう 」

私「お風呂に入りながら、一緒にお掃除もしてるから... 」

半分は事実、半分は言い訳だ。体はいつも2回洗い、シャワーヘッド等は触る度に洗う不潔恐怖の私は、どうしても時間のかかる入浴なのだ。
反対に、入浴ついでに掃除をしているというのは、本当のことだ。わざわざ翌日に改めて行う必要もないし、服が濡れてしまう心配もない。

父「しかも、そんなに手が荒れているのだから
掃除はやめればいいだろう」

私「.........」

お父さんだって、散歩から帰ってきた時の手洗いが物凄ーく短いこと、私は知っているんだからね。
ハンドソープを使っていない時があることも!


危うく、そう言い返してしまいそうになった。
そんなことに気がつき、私は反省していた。


何も言えない。
こんなに手が荒れていても、痛みが伴っていても、菌が気になり掃除をやめることができないのだから。
頭の中の何処かに、ほぼ常に綺麗か汚いか。
こんなことが浮かんでいるから。


白と黒の世界は、完全に私を包み込んでしまっている。

曖昧な色、中間色のグレーを受け入れられるようになりたい。

その夜の私はひとり荒れた手を見つめながら、
切実にそう感じていた。


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