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母の感想文を読んでの私の感想文➀

 母が中学生の時に書いた、芥川龍之介の「杜子春」を読んでの感想文を、今朝もあらためて読んでみて、

 まずは、文章自体のうつくしさを感じました。中学生なので、書ける漢字と書けない漢字があるんだろうなと最初は思いましたが、結果的に、漢字とひらがなのバランスが浮き彫りになっていると思います。
 
 私も小説を書く時に以前はよく意識していたのですが、ひらがなをベースにした文字の流れの中に、漢字がアクセントのように書かれることで、より、その漢字の意味を読者に伝えるという工夫を、最近は意識するのを忘れていたようなところがあったので、思い出すのと同時に、日本語の美しさをより感じることができました。

 それから、「杜子春」のあらすじというよりは登場人物が、感想文を読むだけで、だいたい把握できることにより、「杜子春とはいったいどんな物語なのか?」と読んでみたくなるところがあるのではないかと思います。

 私は、「神将」と「神兵」って、「神」という漢字がつく存在なのに、権力で杜子春を痛めつけてるよなー…、それでホントに神なの?と思いました。でも、いや…これは仙人になるための修行だから、やっぱ神でいいのか……閻魔大王も、悪いことをした人間をこらしめる大王だしな~…なんて、考えたりしています。

 あと、「老人」と「仙人」も、どこか、かぶる存在というか、一度読んだことがあっても、「老人」を覚えていれば「仙人」を忘れ、その逆もあるような、私にとってはそんな存在なんですよね。

 「杜子春」は、どちらかというと、子供向けの寓話なのかもしれないけど、それだけではない、けっこう読み込む必然があるというか一筋縄ではいかないというか、けっこう複雑な構造を持つ小説なのかもしれない、とも思いました。

 私は「杜子春」を、おそらく2,3度は読んでいると思うのですが、確か最後は夢オチのような、夢なのか現実なのかわからなくなるような終わり方じゃなかったっけ?と記憶しています。

 何度か読んでもこのような記憶になるということは、やっぱり、よくわからない部分もある、ストーリーをきちんと覚えにくい、あるいは、忘れてしまう物語なのではないかと思い、そういうところにも、物語や小説の持つ凄みを感じたのでした。

 ②に続きます。

 

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