透明の、向こう側
どうして? と聞かれても好きなのだからしょうがない。
幼い時、大好きなサイダーの入ったコップを部屋のテーブルの上に置いて、私はよく中をのぞき込んだ。
サイダーの泡がはずむコップ越しに見えるのは、いつもの家の、変わらない風景。
泡は、どうしてまるいのだろうと、不思議だった。
サイダーをコップにそそいでいくと、たくさんの泡が現れて、透明だったサイダーの表面が、つややかな白い泡で隠された。
白い泡は寄せては返す波のように、瞬く間にどこかへいってしまった。
ふと、泡のひとつにじっと目を凝らしていたら、海が見えた。
それはいつだったか、家族で訪れた海の砂浜だった。
波打ち際を走る波の近くで、耳に近づけた貝殻の静寂の中に、かすかに風が吹いていたのを思い出した。
部屋の窓から、朝日、差し込む部屋の中で。
***
「たくさん、飲め」
ある日、部屋着の白と黒の模様の入った浴衣を着たおじいちゃんが言った。
おじいちゃんの頭はいつも風に吹かれたあとのようになっていて、髪の毛がいろいろな方向を向いていた。
おじいちゃんはちゃぶ台にサイダーの1.5リットルのペットボトルを遠慮なしに置く。
子供の頃、おじいちゃんの家に遊びに行くと、いつも大きなサイズのジュースが、どん! と出てきた。
飲みきれないよ。と思いながらも、心の中でちょっぴりわくわくしていた。
おじいちゃんがペットボトルのふたをあけると、にぎやかな音があふれ出す。
さあ、パーティの始まりだ。
私はサイダー。
おじいちゃんはビール。
並んで座るおじいちゃんと私、思わずふたりで乾杯をした。
「おいしい?」
おじいちゃんはいつだって私にそう聞いた。
うん、おいしい。と私が答えると、おじいちゃんは笑って何度もうなずいた。
「屋上にでも行ってみるか?」
飲み終わると、おじいちゃんは私を家の屋上に誘った。
そこは緑でいっぱいだった。
鉢植えに入った植物たちが屋上に所狭しと置かれている。
あさがお、プチトマト、ほおづき、などなど。
風に吹かれて、おじいちゃん自慢の緑の葉っぱたちが一斉に揺れた。
連なって置かれた植木鉢で迷路のようなっている中、すいすい進むおじいちゃんの背中を私は追いかけた。
おじいちゃんは私の手を取ると、今摘み取ったばかりの数個のプチトマトを握らせた。
小さな赤い実から、お日様の熱が伝わってくる。食べると、とろっとして甘酸っぱい汁が口の中を満たしていった。
細いのに、とても力強かったおじいちゃんの手。
ちょっとごつごつしていたけれど、手をつなぐと、いつだって温かかった。
おじいちゃんは水道の蛇口につながれたホースをつかむと、蛇口をひねった。
その途端、指で押しつぶされたホースの隙間からはじき出された水が大きく弧を描いた。
屋上の植物たちにシャワーの雨が降りそそぎ、太陽の光を受けて水の粒がきらめく。
もしかしたら、さっき私とおじいちゃんが飲んだ、サイダーとビールを足してかき混ぜたら、こんな色になるかもな。
私はそんなことを考えた。
おじいちゃんのうしろには、青い空に、綿雲が浮かんでいた。
ホースで勢いよくまかれた水が、今にも天まで届きそうで、目が離せなくて、私はじっと空を見続けていた。
***
中学校の夏休み、私は自転車の前かごにサイダーのペッドボトルを入れて、ペダルをこいだ。
背中のリュックサックの中にある、塾の夏期講習のテキストがやたらと重たく感じる。
受験という言葉にがんじがらめになって、数式と英単語を頭に叩き込むだけの毎日に、友達との思い出も作れないまま、勉強のためだけに時間が過ぎていた。
一緒に自転車を並べて帰ってきた友達に「バイバイ」と言って別れを告げると、私は自転車の前かごからサイダーを取った。
ペッドボトルの周りについた水滴が私の指をぬらし、キャップをひねると、ブシュっと空気が一気に抜けて、あふれたサイダーが指と指の間を急いで駆けていく。
口元で傾けたプラスチックのボトルに光が反射して、目がくらんだ。
高校に入学したら、初めての学校、はじめましてのクラスメイト、あらゆることがまた、積み直しになってしまうのだろうか。
それとも、それは、新たな始り、ということなのか。
額の汗を手の甲でぬぐい、ゆっくりまぶたをあけていくと、入道雲が視界に飛び込んできた。
堂々とした入道雲の下、雲を見据えながらサイダーをごくごく飲んだ。
乾いた喉を心地よい甘さと冷たさがうるおしてゆく。
同時に、なにがあってもびくともしないような入道雲まで一緒に飲み込んでいった、そんな気分になって、私は少し、その凛とした強さを分けてもらえた気がした。
かつて、混迷の中にいた、夏の日の午後のこと。
***
ねえ、サイダー。たくさんの日々を一緒に過ごしてきたね。
まっすぐでまじめすぎたこれまでの日々を、夜空の下、思い起こす。
おとなになってから、久々に家のベランダに立った。
目に映るすべてのものが濃紺のベールに包まれる。
いつの間にか、暑い季節は過ぎ去ってしまっていた。
私は少しかじかんだ手で、サイダーのペッドボトルを持つと、夜空の中、ちらちら瞬く星に願った。
いつか、この切なさが、思い出に変わる日が訪れますように。
強くなりたいと、これほどまでに思ったことはなかった。
この空の遥か先ではきっと、星はもっと輝いているのだろう。
にじんだ星を見上げ、夜の一部がまぎれ込んだサイダーを一口、口に含んだ。
甘くない炭酸水があることを、おとなになってはじめて知った。
口の中で急ぎ転がるピリリと強めの炭酸水。
心と体に染み入る、甘やかなサイダー。
どちらにするか、その日の気分で選ぶのも、悪くはないよね。
そう思えた、冬の、はじまりの夜。
***
どう進もう。どちらにしよう。これでいいのか。
何度もその選択を繰り返し、思い出は重なってゆく。
季節は巡り、私は、男の子のお母さんになった。
横に並ぶと、私の背丈のちょうど半分ぐらいの君。もうこんなに大きくなったんだね。
もうすぐ春がやってくる、そう思わせる日に君を産んでから、時の流れがとても早い。
君は、私に似てサイダーが好き。
今日はちょっと特別に、うす黄色のクリアグラスにそそいでカンパーイ!
ちりんと触れ合うグラスとグラス、その瞬間に、泡がはじけた。
揺れる泡にコップの色が映り込んで、かすかに光る、うす黄色に染まった泡が、希望のかけらのように思えた。
その希望の中を見てみたくて、目をしっかりひらいて見つめていたら、そのうちに泡は消えてしまった。
その向こう側で、ふいに手を滑らせてグラスを落としそうになる君の手を、私は包み込んだ。
君の手も、おじいちゃんと一緒で温かい。
今日もグラスを熱心に、横から見たり、上からのぞいたりしている君。
君にはどんなふうに見えているのかな。
サイダーの透明の、向こう側には、思い出も、景色も、そして今この瞬間もあった。
すごいね、サイダー。
一口飲めば、いつも私は彩りの中。
次はどんな世界に、連れて行ってくれる?