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寂しさが飽和する、逃げ場のない世界ー正欲(朝井リョウ)


※長いし、ちょっと暗いし出口がない。でも私なりにまとめた感想です。

目次
⬛︎読んだきっかけ
⬛︎正欲に登場する人々
⬛︎"明日死にたくない"が、正常?
⬛︎隠れている自己責任論
⬛︎共通するのは"理解されたい"気持ち

⬛︎読んだきっかけ

『過去10年で最高の言語体験でした。』と大学時代の友人が薦めてくれたので読んだ。

読み終わって感じたことは、『この世界には逃げ場がない』。
友人にそのまま伝えると『欲望に対していい悪いをちゃんと向き合ってこなかったのかと不安になったけどそんなもんやろと思わんと逃げ場ないやん』と言われた。

うん、そうだよな。と、思う。
だからみんな、『まぁそんなもんだから、そんなもんだよ、ね。』とふわっとさせなきゃいけない。ひとつひとつを真剣に、向き合って考えてたら馬鹿を見る、いや、そんなレベルじゃなく、たぶんどっかでおかしくなって死ぬ。人間はみんなそんなぎりぎりの世界で生きてるのだろう。

⬛︎正欲に登場する人々

この物語の中には、色んな人生がある。
蛇口から水が出ている状態を見て興奮する人、セックス中の相手の涙に興奮を覚える人、風船が割れるのを見て興奮する人、兄に性的なトラウマを持つ人など。そしてそれぞれの目線からそれぞれの人生が語られ、世界観や苦悩が見えて来る。

正しい欲ってなんだよ
他人に迷惑かけてないんだからいいだろ
ほっといてくれよ
でもわかり合いたいよ
さみしいよ
一緒にいたいよ
と言う声が聞こえて来るのだ。

⬛︎"明日死にたくない"が、正常?

そんな問いかけがこの物語にはあった。
例えばもし本当にそうだったら、この逃げ場のない世界で"正常な人間"ってどれくらい居るのだろうか。
義務教育卒業して、そこそこの大学出て、就職して、結婚して、子供作って…
いわゆる王道の人生を歩んできてても、死にたくなる人だっているのが今の現実だ。
だからこそ朝井リョウの正欲はフィクションだし、だからこそ、ものの見方は偏っている。
たとえばこの物語の中で、小児性愛に関しては、誰も突っ込んでいない。"正しくない欲"だという前提で話が進んでいるからだ。
『蛇口から水を出しっぱなしにすることに興奮する?まぁ小児性愛・児童ポルノじゃないんだから、別に良いのでは?』というフィルターがかかっている。
でも小児性愛について、はっきりと正しくない欲である理由を、この物語を読み終えたあなたは答えられるだろうか。
王道の人生を歩んだ人であっても明日死にたくないわけじゃない。多様性という名の下に小児性愛者の存在を認めない理由をきちんと答えることができない人もいる。これが多分今の現実、ノンフィクションだろう。

⬛︎隠れている自己責任論

何が隠れているんだろう。
わたしには、人は人、自分は自分。あなたが決めたんだから、あなたの人生なんだから、責任取りなさいという、自己責任論に思える。
そんな中、生まれた多様性という言葉。
薄っぺらすぎる『みんな違ってみんないい。』の裏にある勝ち組と負け組の果てしない格差。

例えば異性に恋をして、セックスに興味を抱く。思春期ならみんなそうでしょと言う王道=大多数=勝ち組。
そうじゃなかったら負け組。それは自分で抱え込んで生きていかなきゃいけない。『性欲の対象が人間の異性じゃない』というのは、生まれ持ったものであったり、何かしらの要因があったり、それはさまざまなはずだ。その色々あって負け組になった人生、全部ひっくるめて自己責任なのか?本当にそうなのだろうか?
今の世の中は、全体主義の社会のように共通善があるわけじゃない。こうなるべき、これこそ正しいという考えを押し付けないのであれば、自己責任論はどうしても他者の切り捨て行為になる危険性を孕む。はっきりとした共通善がない中での自己責任論は、すごく危険なのだ。多様性という言葉とくっつくと、このようにさらにややこしさが増す。
正欲の中では、一般的な考えに基づいて、小児性愛者は罰されるべき存在であるというのが共通善だ。
他の欲に関しては『誰も傷つけてないから問題ないのに理解されないから苦しい』という対比にしている。
でも多分、本当に考えるべきなのは小児性愛のような一般的に悪いと思われ悍ましいと思ってしまうような性欲についてなのではないか、とも思う。
そこに正しい・正しくないの線引きが隠れている気がするのだ。

⬛︎共通するのは"理解されたい"気持ち

先日『偽りなき者』というデンマークの映画を久しぶりに観た。
小児性愛者と疑われた幼稚園勤務の男性が村八分にされ、苦悩する話だ。
この話では、女児の方から男性に近づいた。でも男性はいけないことだと拒絶し、傷ついた女児が乱暴されたと嘘を振り撒くことからはじまるのだ。
この女児の家庭では常に両親が喧嘩ばかりで、そばにいて、寂しさを埋めてくれたのが幼稚園の先生である男性だったのだな、と思わせる描写がある。

そのシーンを観ると思う。
寂しさが飽和した時、人間の心には隙間ができるのではないだろうか。その瞬間、その隙間にスッと入ってくるモノだったり人だったりへの欲望は、依存性が高く、一瞬で人を狂わせるのかもしれないと思うのだ。
"理解してくれる人にそばにいて欲しい。"
多分彼女はそう思った。それも欲だ。その欲は、正しいものなのではないだろうか?
少なくとも、正欲の中では正しい欲のように描かれている気がする。

だからといって、わたしは決して小児性愛を良いといっているわけではない。
以前、『ケーキの切れない非行少年たち』という本を読んだ。
元々の認知能力の低さや適切な自己評価を行えていない場合にストレスがかかり、小児性愛も含め悪とされることをしてしまうということが書いてあった。そして立ち直るには何よりも他人からの理解を必要とする。しかしそれでも立ち直れない人はいる。私たちはそのことを理解する必要があると。
結局悪とされている人々の行いも、『他人から理解されない辛さ』は共通しているように思えた。

正しい欲ってなんだろうということを突き詰めて考えると、唯一すべてに共通するのは、『理解されたいと思う気持ち』かもしれない。

『自分の本当の部分を理解されたい』と思う気持ちも、『"理解されたくない"という気持ちを理解されたい』という気持ちも、正欲なんだろう。
だからこそ、人と人との間に理解し合いたいという気持ちが双方向に働いていない場合が一番危険だと思う。多くの場合、一方的な身体的・精神的な搾取が起き一方的に傷つけられる。


多様性を認めようよ、辛いことあるなら曝け出そうよ、とかそんな軽い気持ちで救えるような世界では、もうなくなっているけれど。

まだ答えが出ない、私の中の問い。
『理解されたいと思う気持ちの暴走が誰かを傷つけてしまった時、それを自己責任と言わない世界をつくることはできるだろうか。』

一旦わたしの今の考えとしてはここが限界だ。
これ以上は、今は答えが出せない。
これからの人生でゆっくり、出口を作っていきたいと思う。

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