見出し画像

自我を手放した先にあるのは楽園か?ー約束された場所で(村上春樹)

この世にいるのが辛い時、私たちはきっと、誰かから愛されたり理解されたりした記憶で生きている。でもその受け皿がもしなかったとしたら?
そんなことを考えさせられるような、オウム信者たちの自己喪失のプロセスがわかる一冊だった。

被害者側の体験を記したアンダーグラウンドとは違い、信者側(実行犯よりオウム内で地位が低い人々だが)のインタビュー。
『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』も良かったが、本書の後半にも河合隼雄氏との対談があり、相変わらず面白い。
河合隼雄氏の著書、『子どもと悪』にも言及していた。
※以前感想を書いたnoteはこちら

信者の見てきた世界観は、現実世界とはすでに縁を断ち切る"出家"というものがある。

逆さ吊りの拷問
すべては自分のカルマのせいである
男は学歴、女は顔で尊師に選ばれる
バルドーの導きといって、目隠し、後ろ手錠、狂ったような大声で、もう現世には戻りませんと言わせるまでの拷問

こういったことが当たり前のように起きている世界観だ。
到底理解できない話だが、信者たちは素晴らしい世界を見ていたという。

彼らにとって、生きるのが辛いと感じ何のために生きているのかわからないこのくそみたいな人生の受け皿としてオウム真理教が存在していたからだと言わざるを得ないだろう。

びっくりするほどに、サリン事件の後も信者や元信者の中にも、教団に属している(もしくはいた)ことに全く後悔していないのだ。むしろ救ってもらったと解釈している。

例えばちょっと人生に疲れた時、私たちは映画を観たり、本を読んだり、旅に出たり、美味しいものを食べたりしたことがあるのではないか?
振り返ってみてほしい。
その時の行為に後悔はあるだろうか?

おそらくNoだ。
その時の自分にはそうした没頭という環境が必要だったとほとんどの人が思うはずだ。

オウム真理教の信者たちも、同じ気持ちなのだ。サリンを撒き無差別に人を殺したことに関しても、驚く他ないと。何よりも自分たちはこの環境が必要で、癒されていたのだからと。

信者たちは、私たちの歩んでいる人生と、さほど大差がない感覚で生きている。

違うのは、煩悩を煩悩として抱きしめて生きているかの違いだけだと、河合隼雄は言う。

でも煩悩があってなおかつ、という生き方ができることーーーこうしたい、これは嫌だ。お昼ご飯は何を食べたい、自分の人生はこう生きたいなどーーーそんな風に生きていくことができない弱さが、信者たちにはある。

こんなことを考える自分は良くない、こんな風に辛いのはどうしてなんだろう、と自分の煩悩を責め追い詰められる。

そんな時にそっと、『それはあなたの前世からのカルマが原因ですよ、すべてわたしが引き受けますから、あなたはこれに従ってください』そんな風に言ってもらえたら。すべてをカルマのせいにすることができる箱の中で生きることができるのだ。
何も考えず、何も責任を取る必要はない。決められたことをこなし、淡々と過ごすだけで魂のレベルを引き上げてもらえる。まるで楽園のように思えるかもしれない。
でもこれはとても怖いことだ。
自分の自我をすべて他人に預ける行為だからだ。

物事すべてを数値化したいと言っていた信者がいた。感情や見えないものすべてを数値化したいと。
理屈ですべてが成り立つ世界じゃないからこそ、人は悩み、苦しみ、痛めつけられるのだろう。
そんな時、自分の痛みに寄り添う方法を私たちは教わらない。学校では教えてくれない。
肉親からも愛情をもらえない、身近な人に理解されない、そんな時に寄り添ってくれる人や環境が欲しいと思うのは当たり前だ。
今の日本に、そのような環境はあるだろうか?

近代化に伴い、どんどん何もかもが便利になり、一方で効率よく社会が進むことについて行くことができなくなる人も出てくる。その拾いきれない人々を社会は保護する義務があるのではないか。この河合隼雄の意見には共感する。

くだらない社会に対する思いは消えない。
今もきっとどこかでそんな思いを抱えて生きている人はたくさんいるだろう。

しかし村上春樹は言う。ネガティブなところから出てない物語はないと。影や深みを生み出すものは全てネガティブなもの。
どこで総体的な世界と調整していくか、どこて一本の線を引くか、それが大きな問題だと。

そして河合隼雄が言うには、ネガティブなものをかかえこんで抱きしめて醸成する。
その時間がたっぷりあればあるほど、それに見合ったポジティブなものが自然に出てくる、と。

きっとそれは理屈ではないのだ。
人を動かすのは感情であり、感情的な人間関係や、煩悩と言う名の願望なのだろう。

その理屈にならない願望を叶えたいと願う気持ちを否定せず、抱きしめ、生きていく。そこに他人の自我は必要ない。自我を手放してはいけないのだ。
自分の中の悪も含めた願望というものを自分の責任においてどれだけ生きているか。
ただここに尽きるのだと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?