ジヴェルニーの食卓(原田マハ)
原田マハさんの描く印象派画家たちの人生。
マティス、ピカソ、ドガ、セザンヌ、モネーー
画家本人ではなく、一番近くで愛を持って見守っていた人々の目線で描かれる彼らの本質。だからこそリアリティに溢れているのだ。
画家は、自らを語らない。いや、おそらく言葉では語れない。自分自身のあらゆる側面を、幾たびも目の前のキャンバスに写し出してきた。それを見ればわかるのだ。彼らの描く絵は、彼ら自身であり、本質なのだ。
彼女の作品は、すべてフィクションだ。
しかしわたしは、一瞬でも歴史的画家たちの生き様に触れられたような気がして、そのたびになぜか涙があふれる。色鮮やかに、この胸いっぱいに、彼らの人生が広がるような。原田マハの作品は、そんな体験をさせてくれるのだ。
去年手術をし、全身麻酔から覚め身体の痛みを忘れたいがために手に取った作品も、彼女の『たゆたえども沈まず』だった。本書と同じく一言では伝えることができない、熱を持った小説だった。
先日、親しい友人から、reinaはまるでモネの絵だ、と言われた。
『その姿や生き様みたいのが儚く美しい感じに見えてる。綺麗で惹かれるけど、儚さとどこか寂しさ脆さもあってなんか繊細で。ひっそりと、寂しさと繊細さの美しさ漂う、そんな感じ。』
まさに、モネの描く光と影には空や木々、花々、そして人の本質を表すような柔らかで繊細なコントラストがどこか儚さを感じさせる。それが美しいと感じる人は多いはずだ。
わたしは、幼い頃からドラクロワの描く女神になりたかったのだ。手に入れたいのは、モネじゃなかった。
でも年齢を重ねるごとに、そうじゃない、そうなれない自分を突きつけられた。
どうにもわたしは、強い意志を持って、民衆を導けるような、そんな強さを常々持ち合わせている人間ではなかったのだ。
心の中にはいつも、ふわふわとふらふらと、広い池に浮かび、たゆたう睡蓮のような景色が見える。睡蓮は開いては閉じる。こちらの都合はお構いなしだ。なんて自分は、頼りないんだろう。
わたしは、儚さなどいらないし脆さも欲しくない。強さが欲しかったのだ。
でも、もしかしたら。
どうしようもない自分の儚さや脆さを抱き締めて生きていくことを決める、そんな強さもあるかもしれない、ということを原田マハの描くモネはわたしに教えてくれたのだ。
多くの困難や悲しみを乗り越えて、睡蓮の池を描き続けた空の下の画家。
作中でモネは言った。
『今見ている景色だけが全てじゃないんだ』と。
これは、人が新しい自分自身と出会う時、心の底から湧き出るような叫びなのかもしれない。
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