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【あの銘店をもう一度”94年組シリーズ”第2弾 環七「野方ホープ1994」 創業者がんこババアに捧げる、35年間の成長。

 新横浜ラーメン博物館は、30周年を迎える2024年へ向けた取り組みとして、過去に出店した約40店舗の銘店が2年間かけ、3週間のリレー形式で出店するプロジェクト「あの銘店をもう一度"銘店シリーズ"」が2022年7月1日(金)より、1994年開業時のラーメン店が約3カ月前後のリレー形式で出店する「あの銘店をもう一度”94年組”」が2022年11月7日(月)よりスタートしました。

【これまで発表された出店店舗】
銘店シリーズ(3週間のリレー形式出店)
・第1弾  和歌山「井出商店」(2022年7月1日~7月21日)
・第2弾  福島・会津「牛乳屋食堂」(2022年7月22日~8月11日)
・第3弾  埼玉・川越「頑者」(2022年8月12日~9月1日)
・第4弾  福井・敦賀「中華そば 一力」(2022年9月2日~22日)
・第5弾  静岡・伊豆「あまからや」(2022年9月23日~10月13日)
・第6弾  岡山・笠岡「中華そば坂本」(2022年10月14日~11月3日)
・第7弾  札幌「名人の味 爐(いろり)」(2022年11月4日~11月24日)
・第8弾  久留米「大砲ラーメン」(2022年11月25日~12月15日)
・第9弾  青森「八戸麺道大陸」(2022年12月16日~2023年1月9日)
・第10弾  高知・須崎「谷口食堂」(2023年1月10日~1月30日)
・第11弾  博多とんこつ「麺の坊 砦」(2023年1月31日~2月20日)

94年組シリーズ(3ヶ月前後のリレー形式出店)
・第1弾 目黒「支那そば勝丸1994」(2022年11月7日~2023年2月26日)

94年組のコンセプトは「94年当時の味の再現」
“94年組”の第2走者は、環七「野方ホープ」さん
「創業者のがんこババアに捧げる、35年間の成長」をスローガンに、野方ホープを支え続けたスタッフが一丸となって温故知新のラーメンを披露します。

あの銘店をもう一度”94年組” 第2弾 環七「野方ホープ1994」
出店期間:2023年3月2日(木)~7月17日(月)
出店場所:横浜市港北区新横浜2-14-21 
     新横浜ラーメン博物館地下2階
     ※94年組 第1弾 目黒「支那そば勝丸」の場所
営業時間:新横浜ラーメン博物館の営業に準じる。
     詳細はコチラ

・野方ホープの歴史

創業者 小栗 冨美代(おぐりふみよ)1947年~2012年 享年65歳

ガンコババァの愛称で親しまれる創業者 小栗 冨美代さん

1947年(昭和22)4月24日、7人兄弟の末っ子として石川県の能登半島に生まれる。中学卒業後は兄の繊維工場を手伝うも「東京に行けば、いいことがある」という一心で上京。

20代前半の小栗さん(旅行先にて記念撮影)

上京後は会社勤めを経て21歳で結婚。23歳には長女を授かりました。
24歳の時に飲食店を経営。すぐに繁盛店となる。その後も経営は順調で2店舗目もオープン。
しかし34歳になった時、歩くこともままならないほどの過労によるうつ病を発症。突然、娘も仕事も全て投げ捨て逃げだしたのです。
この時から小栗さんの波乱万丈の人生が始まります。
小栗さん曰くこの時「電車に飛び込んだらどんなに楽か、と思ったくらい精神的にまいっていたのと同時に、娘に対して本当に申し訳ないという気持ちでいっぱいだった」とのこと。
翌年離婚。その後うつ病も治り、別の男性との間に長男を授かります。
このままではいけない!と、保険の外交員を始め、日中問わず働いていた頃、小栗さんの運命を変える出会いがありました。

ある日曜日の深夜、友人に誘われて行ったラーメン店には長い行列が。
友人から「今日は日曜日だからいつもより少ないけど普段はもっと混んでいるよ」と聞き、その繁盛ぶりをみて「ラーメンって日曜日の深夜でも遠方から人が訪れるほど引き付ける力があるのか。自分もラーメン店をやってみたい」と、ラーメンの道に進むことを即決したのです。

・シングルマザーで始めた人生最大の挑戦

しかしながら飲食の経験はあるもののラーメンの経験・知識は全くありませんでした。お金も時間もないため1ヶ月間だけラーメン店で修業をし、独学でラーメン作りを始めることとなりました。
通常豚骨は骨を割ってダシを取るのですが、小栗さんはそのまま骨を入れ「骨は割っていれるものだよ」と出入りの業者さんから教えてもらうほど知識がなく、それでも独学で試行錯誤を重ねました。
そして辿り着いたのが「”こってり”だけど”すっきり”」した唯一無二のとんこつ醤油ラーメン。

創業当時のラーメン

創業は1988年(昭和63年)。小栗さんが41歳との時。
シングルマザーで5歳の息子を育てながらのオープンでした。
当時、ラーメン業界は“環七ラーメン戦争”の真っ只中。

環七ラーメン戦争の象徴「なんでんかんでん」の行列(引用:@プレス

小栗さんが選んだ場所は、環七沿いの西武新宿線の野方駅、中央線の高円寺駅のどちらからも遠い、人通りの無い10坪の小さな木造のスナック居抜きでした。この立地は飲食店としては成立しない場所ではありましたが1,500万を借り入れ「これでだめだったらもうどうにもならない。やるしかない。必ず行列店にしてみせる!」と強い気持ちをもって開業しました。

野方ホープ本店(1993年撮影)

長男は朝、保育園に預け、夜迎えに行き、2階の住居で育てるといった日々が続きました。

野方ホープ本店(1993年撮影)

今では当たり前のことかもしれませんが、小栗さんは当時ラーメン店では意識されていなかった温かい接客をこころがけていました。
何度もお越しいただくお客様には「いつもありがとうございます」と顔を覚え、遠方からくるお客様には「遠方からありがとうございます」と女性店主だからこそ気づく気配り、そして、独学ながら試行錯誤の末に誕生した「一度食べたら病みつきになる味わい」により、徐々にお客さんが増えていきました。

そして創業から4年経った頃、念願の行列ができ始めました。

行列ができ始めた頃の本店外観

この時小栗さんは「お客様への感謝で涙が止まらなかった。」と、あの日のことは自分の原点であり、絶対に忘れられない1日だったとのこと。

その評判はさらに広がり、この年にはわずか11席の店舗ではあったものの、多い日で1日700人ものお客さんが訪れる大繁盛店となりました。

・ラーメン博物館への出店

当館が小栗さんに出店の話を持ち掛けたのが1992年4月27日。
その交渉記録によると「声をかけてもらったのは嬉しいし、興味はあると言われているが、非常に警戒をされていた」とのこと。
交渉時に小栗さんはボディーガード兼相談役として、ボクシング部出身の男性を同席されていました。契約後に聞いた話では「私は若いころ色々な人に騙されてきたので、今回も騙されるのではないかという不安があった。また見た目は男性のように見えるが女性であるため、何かあった時のボディーガードとしていつも同行してもらっていた」とのことです(笑)

その後の交渉で小栗さんは3つの不安点を挙げていました。
1つ目は「新横浜の状況を見て、空き地だらけでこんな場所に人が集まるのか」、2つ目は「あまりにも条件が良すぎることが怪しい」、3つ目は「仮に出店するとなった時にラーメンを作れる人材が足りない」という3点でした。

1つ目の不安は小栗さんに関わらず多くの店主さんが抱いた不安でした。
開業する私たちにとっても「絶対来る」とは断言できないことではありましたが、「世界初のラーメンの博物館に人は集まる!」という想いを伝えました。

ラー博開業前の新横浜の状況

2つ目の条件というのは以前のコラムで書いたように、内装工事から厨房機器まで全てラー博側が負担をし、売上が0だったら家賃も0という条件の事を指していました。出店側のリスクを軽減し、運命共同体の想いでこの条件にしました。

内装工事・厨房機器はラー博側の負担で行われる。

3つ目は出店する多くのラーメン店も余剰人員を抱えているわけではないので、1年以上ある開業に向けて人を雇い人材を作るという考えで合意していただきました。

ラー博の地下1階での記念写真(1994年)

・目まぐるしい日々(ラー博オープン)

不安をよそに、開業するや否や毎日多くのお客様が来館されました。
小栗さんは仕込みが間に合わないため、車で数時間仮眠をとり、仕込みをして営業する日々が続きました。

ラー博開業当時、入館まで長い行列が出来ていた(1994年撮影)

「たくさんのお客様にお越しいただくのは本当に嬉しいことではありますが、あの時は本当に大変でした。当時いた従業員もベテランではなかったのでとにかく私が常に現場に立たないと回りませんでした。」とのこと。

ラー博店の店先に立つ小栗さん(1994年)

次第に忙しさにも慣れ、従業員も成長してきた翌年、原宿に2号店をオープン。小栗さん曰く「私にとって最も重要なのが人財(財は従業員は財産であるという意味から)。だからこそ私の夢は、従業員が安心して暮らせられる収入を得られること。そのためには年商10億のラーメン店になること」と夢を語ってくれました。

・ラー博卒業後

1997年6月29日にラー博を卒業。小栗さん曰く「卒業は寂しかったですが、私の夢の実現で店舗を増やしていくためやむをえませんでした」とのこと。その年に3店舗目となる荻窪店を開業。

野方ホープ荻窪店の外観(提供:野方ホープ)

環七をはじめとした首都圏には雨後の筍のようにラーメン店が増えていき、その多くは消えていくという移り変わりの激しいラーメン業界の中で、野方ホープは着実に常連のお客様がつき、店舗を増やしていき、そして今年創業35周年を迎えます。現在は都内を中心に10店舗を展開。小栗さんの夢は小栗さんを支えてきたスタッフたちによって現在も進行中です。

・26年ぶりのラー博復活

創業者 小栗 冨美代さんは2012年にご逝去され、11年が過ぎました。
そして今年は創業35年にもなります。

35周年のポスター

今回の出店は創業者とともに野方ホープの成長を支えてきた側近達により「創業者のがんこババアに捧げる、35年間の成長」をスローガンに、温故知新の心を忘れずに1994年当時の味を再現します。

・94年当時の味の再現

1994年当時と現在では、スープのベース自体は大きく変わっておりませんが、当時のラーメンの方がワイルドな味わいでした。
特に背脂は、現在「こてこて」、「こってり」、「ふつう」、「あっさり」、「あぶらぬき」の5段階から選ぶことが出来ますが、当時はスタンダードで現在の「ふつう」の倍近い量を入れておりました。
また現在、野方本店を除く店舗では、背脂を別で取りラーメンに入れておりますが、今回は本店同様、いわゆる背脂チャッチャ方式(背脂のブロックを平ザルで崩しながらラーメンに振りかける)で提供いたします。

1994年当時と同じ背脂チャッチャ方式を採用

具材も当時のスタイルを採用します。

・野方ホープのラーメン

野方ホープの麺は、スープをたっぷりと持ち上げる中太縮れ麺。複雑なスープと背脂を受け止める十分な食べ応えとなるよう、太さや加水率を最適化しています。

力強いスープに負けない中太の縮れ麺

スープ

豚骨、鶏、芋から抽出したスープ。
野方ホープのラーメンは、こってりとした見た目とは裏腹に、すっきりとした後味に仕上がっているのが特徴。その秘密は、創業時からの「かくし味」にあります。ポタージュ感のあるスープは、豚骨ではなく、ジャガイモ・ニンジン・タマネギ等の野菜によるもの。スープに野菜を使用しているのは、創業者が子どもの健康を願い、栄養バランスの良いラーメンを作り上げたからです。母親が子どもの健康を思う気持ちこそが、野方ホープのかくし味となっています。
多くの素材を使う事は細心の注意を必要としますが、それがただの豚骨醤油でも、ただの背脂ラーメンでは無い複雑に調和した味わいを作り出します。

複雑な旨味が重なり合ったスープ

具材

野方ホープのチャーシューは、肉の味を最大限に引き出すため,中心温度を管理し良質な肩ロースをじっくりと焼き上げ、特製ダレに漬け込んでいます。

小栗さんが天国に行ってから11年。小栗さんがなしえなかった夢の続きを、支え続けたスタッフが一丸となって、今なお成長し続けております。

「あの銘店をもう一度“94年組”」の第3弾以降は順次発表させていただきます。詳細はオフィシャルホームページやSNSをご参照ください。


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