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ザルマノケガスとして知られるバラモンの聖シャルマン・ケージャジーは如何にして祭火を献じたか

序幕
[座頭登場]
座頭「いと慎ましく純朴で、健全な自己を保つ皆さん。劇が始まります。ですから、心の衝立を片付けましょう。そして私たちは、注意深い探求によって、彼らの中に、私たち自身の内なる普遍的ななにものかを見つけましょう。そうしておのおの結論に至ったなら、それを私たちが共有しているか否か、見てみましょう。肯定すべきか、否定すべきかを」


1. 旅立ち。ベレニケへ。頭が裂ける?

 ザルマノケガスとして知られるバラモンの聖シャルマン・ケージャジーは如何にして祭火を献じたか。一介の商人に過ぎずジャイナ教徒でもある私がこのことを書き記すのは、私たちの習慣に反する。しかしこの聖仙が献じた祭火を目の当たりにしたバラタ族は私ひとりなのだから、そうすることも許されると信じる。
 私はギリシア人たちがバリュガザと呼ぶところのバールクッチャ(*)に生まれ、その頃、507年(*)のことだが、その頃までには、自分が熟練した船乗りだと思っていたし、ギリシア語についても同業者たちから一目置かれるようになっていた。

*ギリシア人たちがバリュガザと呼ぶところのバールクッチャ 今日のグジャラート州バルーチ市(21.42°N 72.59°E)。バールクッチャはこの都市を創始したと伝わるバールヴァガ族にちなんだ古名。古くからインド洋交易の一大拠点であった。カンバート湾からナルマダー川を約50km遡った北岸にある。
 「バリュガザの湾...インドの始まりである...この地方は、麦、米、胡椒油、ギー(澄ましバター)、綿、綿布が豊富である。ここには極めて多くの牛の群と、立派な体格で皮膚の色が黒い人々がいる。この地方の首都はミンナガラで、そこから極めて多量の綿布がバリュガザに運び下ろされる」(エリュトラー海周遊記.41)
 「バリュガザでは古いドラクメー貨幣が流通しており、これにはアポッロドトスやメナンドロスの刻印がギリシア文字で刻されている」(ibid.47)
 「エジプトからこの交易地へ七月、即ちエジプト暦のエピーピの頃に出航する人たちは、ちょうどよい時期に航海することになる」(ibid.49)

*507年 ヴィラ・ニルヴァーナ・サムヴァット暦(マハーヴィーラの没年を基年とするジャイナ教の暦)。西暦紀元前20年にあたる。

 だからパンディアの王、ポルカイのローマへの使節団がネルキュンダ(*)からバールクッチャにやってきて、私たちのカーストに水先案内人と通訳を求めたとき、私は突進するように彼らの船に乗り込んだのであった。すでに一族の家長となっていた私には魅力的な報酬であったし、アレクサンドリアの向こうの世界を見てみたいという冒険心も手伝っていたと思う。

*ネルキュンダ 1世紀以降航路が確立して交易が盛んになったという南インドの港町。ヴェンバナード湖南部にあったと考えられるが、比定地は定まっていない。
 「リュミケネー...の後に目下好景気のムージリスとネルキュンダがある」(エリュトラー海周遊記.53)
 「ネルキュンダはムージリスから海と川を経ておよそ500スタディオン離れていて、パンディオーンの王国に属している。これもまた川に臨んでいて、海からは約120スタディオンである」(ibid.54)

 パンディア人たちの一行にひとりの老パンディットがいたが、私は気にもとめていなかった。このような人がローマに何の用事があるのか、教養のない私には想像もできなかったのである。しかし冬の東風を待っている間に、この老パンディットが亡くなったことで、私はこの方の「用事」が何であったかを知り驚くこととなった。
 老パンディットを祭火で焼いてナルマダー川に流してしまってから、使節団の実務上の団長と呼ぶべきブータジーがそれを私に告げたのだった。
 「代わりのパンディットに乗っていただかなければならない。君はバールクッチャの長老たちに頼んでどなたかを推挙してもらい、船に連れて来なければならない。外交の場にバラモンがいないなんて聞いたことがないし、だいたいパンディットがいないことには、ローマ人たちと討論になれば、私たちは必ず頭が裂けてしまう(*)だろうからね。罰が当たらないことを祈って言うが、むしろこれは善かったのかもしれないね。なぜって君はパンディットの通訳としてローマ人たちと討論をすることになるんだから、パンディア人よりも同郷の人のほうが善いに決まっているじゃないか」
 
*頭が裂けてしまう バラモンのパンディット(学者、哲学者)たちはしばしば国家間ないし士族間の交渉に立ち合い、相手側のパンディットと討論を行った。彼らはこの討論の勝敗に命をかけていたという。討論に赴く者は生還を期せず、縁者は涙してこれを見送った(Jaiminiya-Upanishad-Brahmana.Ⅲ,8,1-2)。バラモンたちにとって討論とは呪詛合戦の如きものであり、論敵の呪詛を返せなければ頭が破裂するという(Shatapatha-Brahmana. Ⅺ,4.1.9 Brihadaranyaka-Upanishad.Ⅲ,9,26)。
 バラモンたちお得意の脅し文句だったものか、最初期の仏教経典にも現れる。
「私が乞うているのにおまえが施さないなら、いまから七日の後におまえの頭は七つに裂けてしまえ」(Suttanipata.983)

 真っ先に頭が裂けるのは私なのではないかと思った。しかし一度引き受けた仕事を放棄するのは間違ったことのように思えたので、導師に会って相談すると、シャルマンジーを紹介してくださった。シャルマンジーはバールクッチャのパンディットたちの最長老だった。私も子供の頃は何度かシャルマンジーの法話を聞いたことがあった。
 今思えばベレニケに着く頃には、私は昔導師から聞いたサレカナ(*)を想起していた。それというのも、シャルマンジーは皺だらけの顔をほころばせ、エリュトラー海の船旅を楽しんでいたからである。

*サレカナ Sallekhana. ジャイナ教の非暴力の教理に基づいた実践の一。余命少なくなった人が作法に沿って断食死する。

2. コプトスへのラクダ隊商。生きることは善いことか

 皆でベレニケのイシス神殿(*)にお参りし、私がラクダの隊商を手配して、コプトスに向かった。

*ベレニケのイシス神殿 ベレニケは紅海西岸の交易都市。インド洋交易のローマ側の玄関港として栄えた(『エリュトラー海周遊記』に頻発する「ベルニーケー(ベレニケの俗語形)から見て」などの記述から、この書の著者はベレニケ人と思われる)が、6世紀以降放棄され埋没した。遺構(23.54°N 35.28°E)は1818年に発見されたが、最近、考古学史上稀な大発見がなされ、遅くとも3世紀にはインド人コミュニティが存在したことが確実となった。イシス神殿から発見された仏像やサンクスリット語の碑文などについては下記を参照されたい。
スミソニアン誌の記事
PCMA Seminar: Interesting Indic Finds from Berenike by Shailendra Bhandare

 私はシャルマンジーがラクダから落ちないように一緒に乗って支えていた。その時シャルマンジーと話したことははっきり覚えている。私は砂塵と酷暑にうんざりしていた。
 「君はジャイナなのに、こんな動物に乗っても善いのかね」
 「善いと思います。先生が落ちて死んでしまうよりも、ずっと善いと思います」
 ラクダの隊商については私たちジャイナ教徒の中でも議論があった。交易品をベレニケで売ってしまえば善い、という意見があったが、ラクダを使役するのが私たちではなくエジプト人になるだけではないかと言う人たちもいた。そもそも私たちは昔から牛を使役してきたではないかと言う人たちもいた。しかし実のところ問題は利潤であった。関税はアレクサンドリアで査定され徴収されるのだから、ベレニケで荷を売ると、関税の査定額は買い手の言い値となる。すなわち相当に吹っ掛けられてしまうのである。結局バールクッチャで導師を招いて議論し、ラクダの使役は非暴力の誓いに反しないということになった。ラクダの中には人間と一緒に働くことを楽しんでいる様子のものもいると私が意見したことが導師の心を多少動かしたかもしれない。私は長年の経験でラクダと信頼関係を築いている隊商業者を見抜けるようになっていた。
 「これはこれは、ありがとう。しかしね君、死とは悪いことなのだろうか。いや、生きることは善いことなのだろうか」
 「先生、そんな不敬なことを言ってはいけませんよ」
 「なぜかね?」
 「よろしい、ご説明いたしましょう。私は自分が全身で生きることを望んでいると常に感じます。腹が減れば全力で食べ物を求め、喉が渇けば全力で水を求めます。怪我をすれば全力で治療します。私に限らずおよそ全ての生き物はこのようなものであり、輪廻の輪の中ですべての命は必死に生きているのです。このような途方もない努力が善いものでないはずがありません。従って暴力は悪であると言えるのです」
 「ほほ、立派な説法じゃな。すると君は魂や輪廻が存在すると信じているのかね」
 「信じていますとも。私はジャイナであってチャールヴァーカ(*)なんかではないのですから」

*チャールヴァーカ 唯物論者。

 「儂は文字通りには信じとらんがな」
 「先生、あなたはチャールヴァーカだったのですか」
 「いいや、儂はバラモンでありパンディットじゃ」
 「おっしゃっていることがわかりません」
 「バールクッチャはバラモンにとってのダルマもジャイナにとってのダルマも無我説の徒にとってのダルマもアージーヴィカにとってのダルマもチャールヴァーカにとってのダルマもヤヴァナにとってのダルマも共存する平和の町。そうではなかったかな」
 「それはそうですが、そういう話ではありません」
 「まあ捨て置け。それよりジャイナも無我説の徒も家を出て行乞すべきことを説いておるな」
 「説いています」
 「ジャイナも無我説の徒も出家者の不淫を律しておるな」
 「律しております。それは先生たちバラモンも同じだと聞いています」
 私は息子が生まれてから妻と導師に不淫の誓いを立てていた。いたずらに子を成すことは善いことではないとは思っていた。
 「儂らは三期に分けておるがな。まあよかろう。しかし考えてみれば奇妙ではないかな? もし全ての人が家を出て行乞したら? 誰が食べ物を施すのか? 全ての人が不淫を守ったら? 儂らはただちに滅びてしまうのではないかな?」
 「先生、それは極端な見解です。ある点から見ればそうですが、ある点から見ればそうではありません」
 「おっと、ジャイナの多面説が出たな」
 「出ましたとも。全ての人が家を出るなんてこと、ありそうにありません。だからこそ家を出ることが説かれてきたというだけです」
 「不淫はどうかな? もし淫が出家であれ在家であれ悪だとすれば、やはり儂らは滅びるのが善いということになりはせんかな? どんなに気を付けようとも、儂らが大地に武器を振るい、他者に武器を振るい、およそ全ての命に武器を振るい、自分にすら武器を振るうものだとすれば」
 「そんな、私は父や母の優しさを忘れることができません。妻や息子を全力で愛しています。もしもこれらが善くないことだとすると、すなわち生きることは善くないことだということになります。そんなことは絶対に信じられませんし、信じたくもありません。私は大地に武器を振るいたくありません。他者に武器を振るいたくありません。およそ全ての命に武器を振るいたくありません。自分にすら武器を振るいたくありません。そのために気を付けていたいと思います」
 私がこう言うと、シャルマンジーは私を振り向いて、優しく微笑んで言ったのであった。
 「ふむ、それが善いな」
 それからというもの私には砂塵も、酷暑も、何ほどのものでもなかったのである。

3. アレクサンドリア。敬虔とは何か。ソクラテスはなぜ脱獄しなかったのか

 コプトスでの船への積み替えは、いつでも楽しいものだった。ナイル川とコプトスの景観は郷里を連想させたし、船は私の家であるからだ。アレクサンドリアまではほぼ川任せでよく、私とシャルマンジーは川辺の風情をのんびり楽しんだが、パンディア人たちはナイルがどこまで続くのかをいぶかしみ、永遠に続くことはないという保証を何度も私に求めた。無理もないことであった。かく言う私も初めてアレクサンドリアへ行った時にはこのような思いをしたのである。
 アレクサンドリアでは私は忙しく立ち回らねばならなかった。まず積荷の関税の査定を受けるが、パンディア人たちは一切頼れないのだから、役人たちの相手は全て私。関税を支払ったら、積荷をエジプト人やギリシア人たちに売る。ここでは値段の交渉ができるが、それも私の仕事。そういうわけで、できることなら毎日通いたかったのだが、ムセイオンにはあまり行くことができなかった。いかにも、私は慌てていた。白状するが、私のギリシア語は商売の必要上ギリシア商人たちから学んだものに過ぎなかった。ダルシャナ(哲学)やダルマ(真理を支持する。敬虔性)の議論など到底できるとは思えなかった。頭が裂けるなどということは迷信に過ぎないと思うようになっていた――シャルマンジーが否定してくれた――が、シャルマンジーに善くないことがあってはならないとだけ考えていたのである。
 ある日、シャルマンジーが自分もムセイオンに行きたいと言い出した。私に止められるはずもない。シャルマンジーを連れてムセイオンへ行くと、ギリシア人の門衛は私とは一語も交わさず、シャルマンジーを一目見るなり、
 「ブラフマネス、ムセイオンへようこそ」
 とうやうやしく門を開いた。私はいつも心づけを支払っていたのだから、私のシャルマンジーへの畏敬の念はいよいよ強まった次第である。
 私はシャルマンジーに読んで聞かせたい本があった。プラトンの『エウテュプロン』がそれ。私はこれを前の日に読んだのであった。司書に頼んで出してもらったが、この司書も本をうやうやしく両手で持って私でなくシャルマンジーに差し出したから驚いたことであった。
 「先生、この本は面白いんですよ。ダルマとは何かについての議論です。ヤヴァナにとってのダルマがどういうものかを知ることができると思います」
 「なんだって? さあ、一刻も早く儂に読んで聞かせてくれたまえ」
 それで私たちは中庭に座って陽光を浴びながら、『エウテュプロン』を読んだ。読み終えるとシャルマンジーは大いに笑ったものである。
 「これは愉快じゃな。いささか俗っぽいが、洒落が利いとるぶん、かろうじて品を保っておる。いやこのソグダテムという賢者の敬虔さ(ダルマニス)がこの本に宿っているからかもしれぬな」
 「ソクラテスです」
 「それで君はどう思うね。敬虔(ダルマ)とは、そして不敬虔(アダルマ)とは、どのようなものであると君は主張するね(*)」

*敬虔(ダルマ)とは、そして不敬虔(アダルマ)とは、どのようなものであると君は主張するね 「だから今、ゼウスに誓って、君が先ほど明確に知っていると断言してくれたことを、どうか言ってもらいたいのだ。殺人についても他のことについても、敬神(エウセベイア)とは、そして不敬神(アセベイア)とは、どのようなものであると君は主張するのか」(エウテュプロン-敬虔について. 5,C-D)

 プラトンは敬神(エウセベイア)、不敬神(アセベイア、敬虔(ホシオン)、不敬虔(アノシオン)と言い分けていたが、私はこれを同義と見てダルマ、アダルマとしておいた(*)。

*ダルマ、アダルマとしておいた 今日の宗教という語には宗派の意と敬虔性の意とが混交してはなはだ不便だが、アショーカ王の碑文ではこのふたつを区別している(アショーカ王14章摩崖法勅 第12章,13章)。そしてカンダハールの二言語碑文ではダルマ(法。敬虔性)にエウセベイアの語を当てている。プラトンの『エウテュプロン』では法的な文脈では「エウセベイア(敬神)」「アセベイア(不敬神)」を用い、より日常的な文脈では「ホシオン(敬虔)」「アノシオン(不敬虔)」を用いている。今日インド文化圏ではReligionの訳語にDharmaを当てる。インドにおいては日本や欧米と異なり敬虔な人が多いので、これで差し支えない。インドではダルマとは真理や正義などとも同義であり、従って宗派の違いに関わらず尊敬すべきものであり、いんちきとかそれを信じるお人良し、偽善というような意味合いを認める人が少ないからである。

 「それは先生、敬虔とは真理を支持し保つこと、不敬虔とは真理を遠ざけ破壊することと私たちは教わっていますし、私もそのように主張します」
 「それではいったい、敬虔なものは敬虔なものであるから真理に愛されるのか、それとも真理に愛されるから敬虔なものであるのか(*)」

(*)...敬虔なものであるのか 「いったい、敬虔なものは敬虔なものであるから神々に愛されるのか、それとも神々に愛されるから敬虔なものであるのか」(エウテュプロン-敬虔について. 10A)

 「えーとですね、真理を愛するとき、その人は敬虔となるのです。内なる夜叉の声(*)に従う敬虔な人を見つけるや、真理はその人に激しく迫り来るのです。従いまして、敬虔なものは敬虔なものであるから真理に愛されるのです」

*内なる夜叉の声 ガーンディがしばしば言及した「内なる声」は「夜叉(ヤッカ)の声」としてインドに伝統的なものである。プラトンによるソクラテスが強調し、起訴の罪状のひとつにもなった「ダイモーンの声」とは何であるか、インド人には煩瑣な解説を要しない。
 「私によく起こるあの予言的な声、ダイモーン的なものの声は、これまでのあらゆる時において、もし私が何かを正しくない仕方でなそうとする場合には、いつもとても頻繁に現れ、とても些細なことについても反対しました」(ソクラテスの弁明. 40A)

 「きっとそうじゃな。つまり、この賢者は不敬虔の罪において無罪、ということになったのであろうな。どうやら、ヤヴァナとはなかなか話せる連中のようだ」
 「それが、ソクラテスは裁判で有罪となって、毒を飲まされて死んだということです」
 私はプラトンの『ソクラテスの弁明』も『クリトン』も『パイドン』も読んだのであった。
 「なんだって? するとヤヴァナたちは、この賢者を無実の罪で殺したということではないか」
 「ええ、そのようです」
 「そのようって君、ヤヴァナはなんて野蛮で不敬虔な連中なんだ」
 「ですが先生、野蛮で不敬虔な人はバーラットにだって嫌ってほどいますよ。私はヤヴァナの商人や役人たちと付き合ってきましたが、敬虔な人にもたくさん出会いましたし、彼らの習俗も学びました。私たちと共通する点がたくさんあります。例えば彼らには昔から火と動物による供犠の信仰があります。私はジャイナですから動物の供犠を承認することはできませんが」
 「そうか、ヤヴァナは供犠を奉ずるか。そういうことか」
 シャルマンジーはしきりに納得した様子だったが、そのとき私にはシャルマンジーが何を了解したものかわからなかったのであった。 

 もっとも、シャルマンジーの「野蛮で不敬虔な連中」という言葉は、私の心をさいなむのに充分であった。ローマの皇帝(*)の噂は当然聞いていた。大将軍だった大叔父の後を継いで以来地中海中をまたにかけて戦うこと十余度、一度も後れを取らず、諸人畏怖して「地中海のライオン」「獅子吼する無敵の帝王」と呼ぶ豪勇の覇王であると。ムセイオンでアラム語とギリシア語の対訳辞書を買えたし、哲学書や歴史書を多少読むこともできたが、私のような平凡な商人がそんな英傑を前にして言葉を発することなどできるのだろうか、何か悪いことが起こるのではないかと思わずにはいられなかったのである。

*ローマの皇帝 アウグストゥス(63BC–AD14)のこと。

4. アンティオキアへ。純朴な少年の先祖帰りの物語

 そうこうするうち、皇帝がパルティア人たちとの戦争の準備のためにアンティオキアにいることがわかり、私はアレクサンドリアの仲間たちに頼んで船を手配してもらった。私は地中海を知らないので、古くから知っているギリシア商人を水先案内人として雇った。船旅のさなか、パンディア王の貝葉(ヤシの葉)に書かれた手紙、地中海のライオンすなわち皇帝宛ての手紙だが、それをアレクサンドリアで買った羊皮紙にギリシア語で書き写した。要件はひとつ、交易をしましょうということだけであった。
 準備はできたが、私は甲板で憂鬱にキプロス島を遠く眺めるばかりであった。逃げ出したい気持ちを抑えて苦しんでいたのである。シャルマンジーが気遣ってくれないはずがない。私のそばに来て次の話をしてくれた。

 昔奇妙な国があってな。人々は誰かと会っても金の話しかしないのだ。これが高い、あれが安い、いまこれが儲かる、次はきっとこれが儲かる、という具合だ。そうするうちに誰もが頭の中でも、金のことしか考えられなくなってしまった。当然のことだが、そうすると今度は、大地や他者やおよそ全ての命も、これは金貨何枚、あれは銀貨何枚、としか見えなくなってしまった。彼らが、人はどのような人であるべきと考えていたか、想像がつくだろう。できる限り儲けられる人であるべきなのだ。だから他者の儲かりそうにない行為や思想をよってたかって非難し、相手の尊厳などお構いなしに矯正することも当然怠らない。やがてその国の人々は、全員同じような人ばかりになって、一人一人の見分けがつかないほどになった。しかも、誰もが互いに憎み合っていて、他の人よりも多く利益を得ようと、人々は互いに衝突しながら世の中をうろついていた。
 だがひとりの純朴な少年がいてな。皆が言っていることに疑問を抱いていた。
 「確かに生きていくには服や食べ物や家が必要だ。そのためにはお金が必要だ。でもみんなが言うほどたくさんは要らないのではないか。大地に値段はないはずだ。人やおよそ全ての命に値段はないはずだ。大地や人やおよそすべての命には、きっと何か他の、善いものがある。人がこうあるべきと、彼らは何を見て知ったのか。もしも自ら見て知ったのだとすれば、誰もが違った人になるはずだが、皆が同じように見えるのはどういうことだろう。ひょっとすると彼らはそれを自分で見て知ったのではなく、他者に聞いて知ったと思っているのではないか。彼らは他者に聞いたことに基づいて、互いに罵り合い、利益を争っているのではないか」
 というふうにな。それで少年はこの疑問を人々に尋ねて歩いた。すると殴られたりひどい言葉で侮辱された。少年はこれに懲りて人々から離れて暮らすことにした。空き地に麦の種を蒔いた。するとその土地の「所有者」と名乗る男が走ってきて、怒鳴り散らして少年を追い出した。次に少年は海辺に行き、海藻を取って食べた。すると「海の所有者」と名乗る男が走ってきて、少年を殴って追い出した。少年はついに人々に言った。
 「あなたたちはなんという不敬虔な人たちなのだ。私はもうこれ以上歩けない。さあ、殺して下さい。この場で死んでしまいたい」
 誰が彼を殺すだろうか? 彼を殺せば自分が金貨何枚の損をするか、そういうことだけは人々はよく知っていたのだから。
 少年は疲れ果てていたが歩いて湖畔まで辿り着いた。身を投げようと思ったのだ。湖面には少年の顔が映っていた。自分の顔を眺めながら少年は言った。
 「私にはひとりの友もいない。私はひとりきりだ」
 すると湖面に映った自分が言った。
 「君には君という最高の友がいる。君には全ての命という最高の友がいる」
 この言葉を聞いたとき、彼の心の結び目がほどけて、彼は湖面の自分の顔の中にディヴヤーニ・ルーパーニ(*)を見た。

*ディヴヤーニ・ルーパーニ divyāni(奇跡的な。神聖な) rūpāṇi(形。姿).奇跡の光景。神聖な姿。
 「しかし今では、神々に愛されし喜見王の法の実践の結果、人々に様々なディヴヤーニ・ルーパーニが示され、鼓は法の響きを鳴らしています」(アショーカ王14章摩崖法勅第4章)
 「至高主はこう言われました。プリタの子よ、私の何百何千もの様々な形、大きさ、色のディヴヤーニ・ルーパーニを見なさい」(バガヴァッド・ギーター.11,5)

 彼は自分が胎児だった頃の姿を見た。彼は母になり、母が苦しい思いをして生き抜いた末に自分を生んだことを知った。次に母の胎児になり、母の母になり、母の母が苦しい思いをして生き抜いた末に自分を生んだことを知った。次に母の母の胎児になり、母の母の母の...と延々と繰り返した。彼は自己に過去の全ての命とその労苦を見た。過去の全ての命とその労苦が彼となった。最後に彼は大きな光となった。彼は言った。
 「私はかつて命の始祖であった。私はかつて太陽であった。果てしない労苦の末に私は自己という友と全ての命という友とここにいる」

 私は感涙にむせんだ。シャルマンジーは私の心の結び目をほどいてくれたのだった。
 「でも先生、純朴な少年はその後どうなったのですか。町に戻ったとして、不敬虔な人たちの中で幸せに生きていけたのでしょうか」
 「どうかな、それは君が自分で確かめてみてはどうかな。君だって、彼の友なはずじゃないか」
 「わかりました。確かめてみます」
 こうして私は務めを果たす誓いを立てたのであった。

5. アンティオキア。王とは天愛喜見たるべし

 私たちがセレウキアの港に着いて埠頭に降りると、ローマ人たちの兵隊が音楽を鳴らして出迎えてくれた。皇帝の使者だという品の良い中年の男が、ニコラウスと名乗った。この人がユダヤの顧問で皇帝の古い友人だということは、アレクサンドリアではよく知られていた。
 「インドの皆さま、ローマへようこそ。皇帝から歓迎の気持ちを伝えるよう承って参りました」
 「ありがとうございます。ローマの皆さんの壮健をお祝いいたします」
 これはブータジーの言葉を私が訳して言ったものである。
 「皇帝がお待ちです。さあ、私たちについてきてください」
 ニコラウス卿は牛車を用意してくれていたので、私たちは皇帝への贈答品を船から積み替え、パンディア人たちも牛車に乗った。ニコラウス卿は馬も一頭用意していた。
 「代表の方はこれに乗ってください」
 私たちの代表とは、すなわちバラモンのシャルマンジーのことである。しかしシャルマンジーはひとりで馬になど乗れないから、またも私が同乗することとなった。アンティオキアまでの道中、シャルマンジーが私に言った。
 「君、ひとつ誓いを立ててくれないかね」
 「どんな誓いですか」
 「ヤヴァナたちの前では、君は自分の言葉を発さない、という誓いだ」
 私がそのような立場にないことは承知していた。誓いを立てたが、後で私はこのことを後悔することになったのである。

 アンティオキアのフォルム(集会広場)に着くと、兵団の音楽とともに儀礼が始まって、ニコラウス卿に先導されて皇帝が騎馬でやって来た。
 威風凛々とはこの人のことを言うのだと私は思った。ヴァースデーヴァさながらという姿であった。皇帝はシャルマンジーの姿を見るとその前で下馬して言った。
 「ローマ皇帝アウグストゥスがインドの皆さんを祝福します。ようこそおいでくださいました」
 シャルマンジーは皇帝に合掌して言った(言うまでもないが以下実際には私がギリシア語に訳して言ったのである)。
 「陛下、お会いできて光栄です。私はこの使節の代表ですが、ご覧のとおり私は聖職者」
 シャルマンジーは首に巻いた聖糸に目をやった。果たしてこれで伝わるものかと思ったが、あにはからんや皇帝はうなづいたものである。
 「言わばお飾りです。ですから実務のことはこちらのブータとお話しいただきたい。よろしいですかな」
 「ええ、構いませんとも、ブラフマネス」
 それでブータジーが進み出て、挨拶、贈り物の目録の読み上げ...綿布、胡椒、シナモン、とっておきのシーナイ産の絹織物...王の親書の読み上げ...それから砦のような建物に場所を移して交易の取り決めという話になったが、ここでニコラウス卿がブータジーと話し合う形になった。皇帝も同席していたが、彼は沈黙して聞いているだけであった。
 「それでは以上ですので、私たちはそろそろ失礼しようと思います」
 私は安堵の気持ちでブータジーのこの言葉を訳したが、そのときシャルマンジーが突然次のことを言ったのである。
 「陛下、パルティアは、どうされるおつもりですかな」
 私は誓いを立てていたので、ただギリシア語でそれを言うほかない。
 「なんですって?」
 ローマのヴァースデーヴァはさっと顔色を変えて言った。ニコラス卿が表情を一変させてシャルマンジーを睨みつけたのも私ははっきり見た。
 「陛下がここに来られたのは、パルティアを攻める準備のためと聞きました。陛下はアルメニアを平定したので、次はパルティアと戦うのだと。本当ですか」
 私は恐れおののきつつそれを言った。皇帝はついに椅子から立ち上がった。
 「ブラフマネス、慎みなさい。あなた方には関係のないことです」
 地中海のライオンは吠えた。ブータジーはもはや凍りついていた。
 「いいえ」
 「どうした通事どの、よく聞き取れぬ。さあ気張ってブラフマネスが言ったことを教えてください」
 獅子吼する無敵の帝王は私を励ました。
 「それはですね」
 しかしそのせいで私の声はますます小さくなったのだった。私は思わず横のシャルマンジーを見た。すると彼はにんまり笑って私の心に勇気の息吹を吹き込んだ。
 「私たちは全ての命が相互に繋がっていると考えています。これが私たちの敬虔性です。ですからパルティア人たちやローマ人たちが戦争で苦しむことは私たちと関係があるのです。陛下がパルティアを平定したら次はインドに戦争を仕掛けることを心配しているとは考えないでください。私は暴力について論じているのです。陛下はすでにシリアとユダヤ、アルメニアを平定されました。パルティア人たちの方からレヴァントを越えてローマに攻め込むことはもうないと思います」
 「陛下、ここは私が」
 ニコラウス卿が皇帝を座らせて話し始めた。
 「ブラフマネス、あなたが敬虔な方であることはわかりました。ですがパルティア人はローマの鷲を奪い多くのローマ人を捕えて奴隷にしました。陛下はローマの皇帝として汚辱をすすがなければなりません。これが陛下の国家への敬虔なのです」
 ローマがパルティアに敗れ鷲印の軍旗を奪われたことは聞いていた。ローマ人たちが軍旗をほとんど神聖なものと考えていることも。
 「ニコラウス卿、あなたがユダヤの顧問ということは知っています。ユダヤが自国の利益のためにローマとパルティアの戦争を望み、そうなるように働くことが卿にとっての国家への敬虔だということも」
 これらのことは私がシャルマンジーに吹き込んだことであった。アレクサンドリアの抜け目ない商人は政治情勢に耳を澄ませているものである。ニコラウス卿はと言えば、いまや顔を赤くして怒っていた。
 「滅相もない。ユダヤはローマであり私は僭越ながら陛下の友です」
 「そうでしたか。これは失礼。いずれにしても、私の論点とは関係のないことでした。いま言ったことは取り消させてください。私の論点は、暴力とその果報なのでした。ニコラウス卿、陛下と話してもいいでしょうかな」
 シャルマンジーはと言えば、変わらずにこやかに話していた。
 「どうぞ」
 しぶしぶといった調子でニコラウス卿は譲った。
 「陛下、軍旗を返してもらったらどうですか。陛下はパルティアの王子を虜にしているでしょう。このことはパルティア人にとっても汚辱なのでは? 軍旗と交換にパルティアの王子を返してはいかがか」
 「そんなことはできません。そんなことをしては私の皇帝としての威信は地に落ちてしまいます」
 「ローマでは戦争で多くの人を殺し苦しめる王は、威信が高まるのですか? それが王の国家への敬虔なのですか? そうだとすると、王の国家への敬虔とは、命への不敬虔ということになります。インドでは戦争を慎み慈しみの心を以て人々に奉仕する王は、威信が高まります。インドではこのような王はデーヴァナンプリヤ・プリヤダルシ(*)と呼ばれて尊敬されます。ですからインドでは王の国家への敬虔は命への敬虔と同じものです。そして私は敬虔とはローマにおいてもインドにおいても世界のいずこにおいても同じものであると主張します」

*デーヴァナンプリヤ・プリヤダルシ Devãnampriya(神々に愛される) Priyadarshi(慈悲の目で見る人).
 「デーヴァナンプリヤ・プリヤダルシ王の灌頂8年に、カリンガが征服されました。15万の人々が移送され、10万の人々が殺され、さらに幾倍かの人々が死にました。それからデーヴァナンプリヤは熱心な法の実修、法に対する愛慕、法の啓蒙を行いました。これはデーヴァナンプリヤのカリンガ征服についての悔恨によるものです」(アショーカ王14章摩崖法勅第13章)

 「ブラフマネス、これは哲学の問題ではありません。政治の問題なのです」
 「そうかもしれませんが、そうでないかもしれません。パルティアを平定すれば人々が陛下を称賛するかもしれません。ローマの富と栄光は増大するかもしれません。しかしこの思惟によれば次はゲルマニアと戦争するということになるのではないですか。ゲルマニアを平定したら、次はバクトリアでしょうか。インドでしょうか。いったい地の果てまで征服すると、人々はようやくそこで至福を得るのでしょうか。いったい私たちが至福を得るのは、富と栄光に依ってなのでしょうか。政治とは富と栄光を得る方法であり、私たちの至福とはまさにそれによって得られると陛下は主張するのですか」
 「ですからブラフマネス、私は哲学者ではありません。あなたと討論することはできません。パンディアとの交易のことは好く図らうと約束します。さあ、インドへ帰る支度をしてください」
 「いいえ、私はこの使節団の代表でありインドの代表です。インドでは全ての命に奉仕する人がバラモンと呼ばれます。ですから私は陛下がパルティアと和睦すると約束してくださるまで帰ることができません」
 「ブラフマネス、発言してもいいですか」
 ニコラウス卿が言った。
 「もちろんです、どうぞ」
 「続きはギリシアの哲学者と討論していただくのはどうですか。あなたは哲学者ですが、私たちはそうではないのです。ローマであなたと討論できるのは、アテナイの哲学者だけだと思います」
 「それは私の望むところです。陛下はこれを承認されますか」
 「いいでしょう」
 「ですが陛下、約束してください。もし私がギリシアの哲学者と討論して勝ったなら、パルティアと和睦すると」
 「ではあなたが討論に敗れたら、あなたはどうすると約束されるのですか」
 「私が敗れたなら、私は自分の体に火をつけて焼きましょう」
 一堂沈黙した。しばらくして皇帝が言った。
 「わかりました。そこまでのお覚悟なのでしたら、あなたが討論に勝ったならパルティアと和睦すると私は約束します」

6. アテナイへ。自殺の倫理。カラノスと祭祀の伝統

 ブータジーは困惑していたが、敬虔な方なので、シャルマンジーの身を案じていた。パンディア人たちがアレクサンドリアへ、インドへの帰路についたのは、シャルマンジーがそれを望んだからだった。「彼らは務めを果たした」というのがシャルマンジーの言い分であった。相違ない。私はアレクサンドリアの仲間たちにパンティア人たちのことをすっかり頼んだ。私? 私が帰るはずがない。
 アテナイはおりしもゼウス祭り(ディポレイア)の時節で、皇帝はもともと参加する予定だったとニコラウス卿が説明した。私たちはセレウキアから皇帝の船に乗り、アテナイへ向かった。私はシャルマンジーとはほとんど話をしなかった。シャルマンジーが食を絶ったからである。サレカナを誓った人にはこちらから話しかけてはいけない、と私は導師に教わっていた。
 エーゲ海の島々を眺めて私は考え事をしていた。すると皇帝がひとりで私のそばに来て話しかけるではないか。
 「通事どの、よいですか」
 「はい、もちろん」
 「カラノスのことは知っていますか」
 皇帝が言った人。それは私が考えていたことであった。
 「はい。アレクサンドリアのムセイオンで本を読んで知りました。インドでは彼のことは伝えられていません」
 「インドでは自殺は一般的なのですか」
 「一般的ではありません。私たちの敬虔性において非暴力への支持はその中心をなすものです。自殺は自己への暴力であり、すなわち命への暴力です。ですから自殺は善いものとは見做されません。ですが一方で、私の一族の派、ジャイナに顕著なのですが、肉体的な務めを終え、余命少なくなった人は、食を絶って自然に死ぬことが善い、とも見做されているのは確かです。それは非暴力の理念に叶うとされます。ジャイナは肉を食べませんが、植物もまた命であるからです。これはまだ活力があり人々に奉仕することができるのに自殺することとは区別されます」
 「それではカラノスは自殺したと見做されるのでしょうか」
 「カラノスは病を得ていたと書いてありました。余命が少ないと考えていたと思います」
 「しかし彼は食を絶って自然に死んだのではなく、自らを火で焼きました。インドにはこういう習俗や信仰があるのですか」
 「一般的ではありませんが、あります。寡婦は夫の遺骸とともに焼かれるのが善い、また人は侮辱を受けるよりは尊厳を守るために自らを焼くほうが善い、と言う人たちがいると聞いたことがあります。ですが私の町には今そのような習俗や信仰はありません」
 「今と言いましたが、昔はあったということですか。例えばアレクサンドロス大王の時代」
 「わかりません。ですがインドの古い伝統では、これは今も変わらないのですが、供物を火で焼く祭祀が重要なのは確かです」
 「供物とは、動物ですか」
 「ジャイナでは動物を捧げませんが、少なくないインド人が今も動物を犠牲にします。ですが今では動物を犠牲にすることは不敬虔なことと見做されるのが一般的です。これは昔デーヴァナンプリヤ・プリヤダルシ王が人々を啓蒙した(*)ことの果報と私は考えます」

*デーヴァナンプリヤ・プリヤダルシ王が人々を啓蒙した 「ここではどのような生き物も殺して犠牲に供してはなりません」(アショーカ王14章摩崖法勅第1章)

 「ローマの諸州、ことにギリシアでは動物の犠牲は祭りに欠かせないものです。しかし私たちはこのことに両面的な気持ちを抱いています。ゼウス祭りでは牛を斧で殺しますが、私たちは斧を起訴し裁判にかけて裁きます。有罪と判決されると――当然有罪と判決されるのですが――斧を海に投じて断罪するのです」
 私は不謹慎にも噴き出して笑ってしまった。
 「これは失敬。でもおかしいですね」
 「ええ、滑稽です。でも思うにこれは良心の呵責を慰めるためというよりも、呪いよけのようなものだと私は考えます。私たちはお祭りを楽しみますが、同時に恐れてもいるのです」
 「なるほど、そうかもしれません。ところでお祭りで死んだ牛はどうなるのですか」
 「火で焼いて、皆で食べます。これはお祭りにおける私たちの大きな楽しみです。あなたの前でこれを言うのは不敬虔なことですが」
 「いいえ、大丈夫です。あなた方が牛を食べて楽しむように、神々も牛を食べて楽しむと考えるのですか」
 「そうです。供物とは、祭祀とは、神を楽しませるためのものです。神が楽しむと、見返りに私たちに幸運を与えてくれると人々は考えています。インドでも同じなのでは?」
 「大同小異というところだと思います。陛下もそう考えますか」
 「これは大きな声では言えませんね」
 皇帝は辺りを見回した。
 「その辺のことはほとんど信じていません。でもお祭りは大切なものと考えています。意味がわかってもらえますか」
 「はい、わかります。ところでひとつ教えてください。ローマやギリシアでは、人を犠牲にして祭祀を行うことがありますか」
 「遠い昔にはあったと聞いています。しかし今ではそれは最も忌むべきものと見做されています。インドではどうなのですか」
 「インドでも遠い昔にはあったと聞いています。カラノスですが、彼はこの古い伝統に従ったのかもしれないと私は考えます」
 「祭祀であると? しかしそれで神が喜んだとして、誰が神からの果報を受け取るのです? 彼自身は焼け死んでしまうのに」
 神のみぞ知る、というところであった。

7. ゼウス祭りの決闘。このことを説くということがない。命とは何か

 アテナイに着くと、ニコラウス卿は万事抜かりなく手配した。討論の会場はゼウスの聖域。対論する哲学者はボエトゥスという名で、ニコラウス卿によれば、アリストテレス学派の正統な後継者ということであった。立ち会うのは皇帝とニコラウス卿とボエトゥス博士の弟子数名。ゼウス祭りが明日、つまり6月14日に始まるので、討論は今夜でなければならない。
 「それから、もし討論でブラフマネスが負けても、自分に火をつけるなんてことはいけませんよ。今のローマでそんな野蛮なことはあってはなりません。もし彼が負けたら、通事どの、あなたは彼を説得して一緒にインドに帰らなければなりません。討論だけであれば、ゼウス祭りの一環として悪くないと思ったので、私は段取りしたのですから」
 ニコラウス卿はこのように言うと、忙しいらしく私の返事も待たずに去ってしまった。私は約束をしなくて済んだことに安堵した。どうして私にシャルマンジーを説得することなどできるだろう。
 「ニコラウス卿はなんと言っていたね」 
 シャルマンジーは食を絶ってからもう7日が経っていた。よろめきつつ寝台から起きてきて言ったのである。
 「今夜討論を行うそうです。もし負けても自分に火をつけてはいけません、とのことです」
 「まあ、褒められたことではないな」
 「先生、教えてください。バールクッチャを出るときから、生きて帰らないおつもりだったのですか」
 「いいや、何も考えてはおらんかったよ。皆に奉仕したいとは考えたがな」
 「そうでしたか、すみません」
 「だいたい儂はヤヴァナとの討論に勝つつもりでおるがな。皇帝は約束を破る男ではなかろう」
 「ではなぜ食を絶たれたのですか」
 「それは、負けた場合の備えに決まっておろう。大きな腹を抱えて焼け死ぬなど、バラモンらしくないではないか」
 シャルマンジーは力なくしかし楽しげに笑った。
 「先生、私笑えませんよ」
 私は涙が止まらなくなった。シャルマンジーは私を抱擁して赤ん坊をあやすように背中を叩いたものである。

 ゼウスの聖域はアクロポリスの丘の北側にあって、東側には牛たちが牧舎に囲われていた。ゼウス祭りでは毎年この牛を聖域で犠牲にするという。私たちが切妻屋根の美しい石門をくぐると、すでに準備は整っていた。四方にかがり火が焚かれ、夜空に煙の柱が立ち上っていた。皇帝とニコラウス卿、5人の哲学者たち。私にはシャルマンジーの討論相手が誰なのかすぐにわかった。哲学者たちのうち、ひとりシャルマンジーと同じくらい年老いた、落ち着いた様子の人がいたからである。ボエトゥス博士に違いない。
 「ブラフマネス、ゼウス祭りによくぞ参加してくださいました。ローマ市民を代表してアウグストゥスがお礼を申し上げます」
 いつどこで覚えたものか、皇帝はシャルマンジーを合掌して拝した。
 「これはご丁寧に。私こそ、古式の祭祀に参加できて光栄です」
 シャルマンジーと私は皇帝を合掌して拝した。
 「若輩ながら、私が討論の裁定をさせていただきます。討論が長引いてあのかがり火が消えそうになった場合、いずれが勝者か、私が判定するのです。もちろん、いずれかが降参と宣言すればそこで終わりです。これを承認していただけますか」
 「承認します」
 「ありがとうございます。こちらがボエトゥス博士です」
 ボエトゥス博士が進み出てシャルマンジーを合掌して拝した。シャルマンジーも同じようにしたが、互いに一言も発しない。
 「それでは、どちらから質問をすることにしましょう。ブラフマネスはインドからのお客様ですから、私たちの敬意を表するために、ブラフマネスから質問していただきましょうか」
 「いいえ、ボエトゥス博士から質問していただいてもよろしいですか」
 「そうですか。いいですか、ボエトゥス博士」
 「いいでしょう」
 ようやくボエトゥス博士が言葉を発した。冷徹無比の人、と私はこの人を見た。
 「それではブラフマネス、お尋ねします。インドでも存在について研究していると聞きます。宇宙は存在しているか? などと尋ねることはしません。きっと存在しているでしょう。ご覧の通り、空と星々があります。火があります。私たちがいます。ですが存在がこのようないろいろな形態を取ることについては深淵な謎があります。そもそも形態とは何なのか? 存在はいかなる仕組みと理由とによって諸々の形態を取るのか? といった謎です。そこでまず教えてください。形態とは存在の変化相のことですか?」
 「そうは思いません」
 「何か別のものだと思うのですか?」
 「何か別のものだとは思いません」
 「それでは、何であると思うのですか?」
 「何であるとは思いません」
 「そうすると、何であるとは思わないと思うのですね?」
 「何であると思わないとは思いません」
 「そうしますと、何であると思わないとは思わないと思うのですね?」
 「何であると思わないとは思わないとは思いません」
 皆がざわめいた。無理もない。ボエトゥス博士は白いひげをしごいた。
 「いやはや、弱りましたな。ギリシアでもこの手の詭弁術を使う人がいますが、インドにも同じものがあるとは。確かにエポケー(*)を用いれば、討論に負けることはないでしょう。ですがそうすることで、私たちが何かを得ることができますかな? 何も得ることができなくてそれで善いと? もしも何も主張しないのが善いとすると、私たちは誰もが生まれてから死ぬまで沈黙しているのが善い、ということになるのですか?」

*エポケー 停止。判断の停止。同意の保留。ピュロン主義者が用いた方法。インドにおける類似の――ピュロンよりも古い――方法についてはスリランカのジャヤティリケが再構築して詳説していた(Jayatilleke1963)が、最近インドのチャクラヴァルティが再評価した(Anish Chakravarty2022)。
Ajñānavāda's influence on Mahāvīra’s Anekāntavāda | Anish Chakravarty | The BrainX Project
Lecture on THE DIALECTICAL METHOD OF SAÑJAYA BELATTHIPUTTA | Dr Anish Chakravarty
 こちらは在家仏教徒(?)との質疑があり、アジュニャーナ派の今日における意義について、論文にはないチャクラヴァルティの観点が聞けるのが面白い。

 「ははは」
 シャルマンジーは何日も食を絶っているとは思えない快活さで笑った。
 「何、戯れです。平に平に。つまりこう言いたかったのです。このことを説く、ということが私にはないのです(*)」

*このことを説く、ということが私にはないのです 「このことを説く、ということが私にはありません。事物に対する執着を見て、偏見における弊害を見て、固執せず、省察して、内心の安らぎを私は見ました」(Suttanipata.837)

 「詳しく教えてください」
 「わかりました。ある教師が生徒に、私は真理を知っています。これがその真理です、と言ったとしましょう。もし生徒がその場で、そうかこれが真理なのか、きっとそうなのだろうとそれを受け入れたら? これでは生徒は教師の奴隷の如きです。またその生徒は自分でよくよく考えて確かめ、納得したわけはないので、教師の説の原理にのみ固執して、他者の説の粗を探したり、攻撃したり、自説――教師の説ですが――を誇ったり、そうしたことになりがちではないですかな。では生徒は、先生はそう思われるのですね、私は私でこのことをよく考えて確かめ、納得したいので今は同意しません、と言うべきでしょうか。しかしこの教師は、自分が真理を知っている、これが真理である、と言っているわけですから、この生徒の態度を容認しないかもしれません。この生徒は他の生徒よりも劣っていると烙印し、侮辱するかもしれません。そもそも、知っていると思う人とは、高慢になりがちです。我こそは全てを知る者なるぞよ、およそなすべきこととなすべきでないことについては我が裁決に従え、と言わんばかりの人の、なんと多いことか。彼らは称賛されたくてうずうずしていますから、集会に突入します。そして他者を見るなり、自分より劣ったところがないかを探します。相手より自分が優れているところがないか懸命に探します。そして互いに相手を愚者と呼び合い、罵倒し合います。ある人が、これだ、私は優れた発見をした、と思ったとしましょう。すると今度は人に話して、称賛してもらいたいという気持ちが生じるものです。自分が他の人よりも優れていることを確かめたくて。他の人も同じような次第となったら? こうして人々は互いに罵倒し合っているのです。これらの弊害を見たので、私は見解を掴んでいた手を放しました。そうして私は内心の安らぎを見ました。ですから、このことを説く、ということが私にはないのです」
 ボエトゥス博士はもうぐうの音も出ないという様子であった。ニコラウス卿をちらちら見ては反論を探しているようだったが、何も言えない。
 「ですがボエトゥス博士、私はあなたが敬虔な方だということは理解しています。宇宙の姿を完璧に説明しさえすれば、私たちはすなわち宇宙なのだから、私たちが何者なのか、何をすれば善いのかがわかるはずだ、より善く生きたい、という敬虔な動機から、あなたは先の質問をされたのでは? しかし完璧さというものは難しいものです(*)」

*完璧さというものは難しいものです 「三十幾年か、マラルメは完璧という観念の証人ないし殉教者であった」ポール・ヴァレリー『私は時折マラルメに語った』
 「私はマラルメがさっぱりわからない」レフ・トルストイ『芸術とは何か』

 「それに、私たちについてお知りになりたいのでしたら、そんな迂遠な道を辿らずに、手っ取り早く、私たちとは、命とは何か、と問うのはいかがでしょうか。今度は私はお答えするとしましょう」
 「いいでしょう、では問います。命とは何ですか」
 「命とは火です」
 私たちはかがり火の火を見た。火が宇宙を温め、煙が宇宙に舞い飛び、虚空に消えるのを見た。そうして宇宙が、星々が動いているのを見た。
 ボエトゥス博士が口を開いた。参りました、と言うと私は思った。
 「違います、火は命ではありません」
 突然ニコラウス卿が言った。
 「控えよ、ニコラウス」
 地中海のライオンが吠えた。ニコラウス卿はびくっと怯えて身を縮めた。
 「陛下、善いのです。真理を支持する人たちの間においては、誰もが思ったことを思ったように言っても善いのです。ニコラウス卿、続けてください」
 シャルマンジーは促したが、ニコラウス卿は皇帝の威厳に圧倒されてもはや一語も発しえない。
 「お弟子の皆さんはいかがですか。意見があればどうぞおっしゃってください」
 「私は意見があります」
 ひとりの青年が進み出た。
 「どうぞ」
 「もしも命が火だとすれば、私たちは水を浴びれば死んでしまうということになります。魚は死んでいるが泳ぎ回っていることになります。従ってあなたの主張は誤っています」
 子供じみた反論であった。シャルマンジーであれば冗談を交えて子供をあやすように切り返すだろうと思った。
 「なるほど、その通りですな。これはしたり。いや、参りました」
 しかしシャルマンジーはこのように言ったのである。
 「陛下、ご覧の通り私は敗れました。私は陛下との約束を果たさなければなりません。明日はそこの牛たちを供物として供儀を行うと聞いています。いかがですか、牛たちの代わりに、私を供物としていただけませんか。牛たちに慈悲を。私はあなた方の神を喜ばせてみせましょう」
 皆絶句。しかしやがて皇帝は言った。
 「わかりました。明日、私たちは牛を殺しません。明日の準備のことは私が請け負います。ブラフマネスは安らかにお休みください」

8. 聖仙の祭祀。神聖アウグストゥスの功績

 ついにこういうことになってしまった。私はより善いことができたのではないだろうか。こうなった責任のかなりな部分は私にあるのではないか。そもそも私が欲に駆られてパンディア人の船に乗ったことが悪いことだったのではないか。
 私が悶々と悩むうちに次の夜になった。シャルマンジーのことはアテナイの人々にすっかり知れ渡っていた。いつもであれば肉と酒を楽しんで大騒ぎするのだと思うが、誰もそうしなかった。町は静まり返っていた。皇帝の使いが来て、西側の大門からゼウスの聖域まで練り歩くと言った。
 「あなたはブラフマネスを背負いますか?」
 「はい、そうすると思います」
 「それではあなたはこれを着てください」
 「これはなんですか?」
 「牛殺しのときに牛を引く者が着る衣装です」
 儀礼の装束であれば、断るわけにもいかない。私は着替えた。足首まである白い亜麻の服で、私は女になったような気がした。
 シャルマンジーはよろめいて部屋から出てきた。
 「おや、可愛い女の子がおるぞ」
 冗談を言っている状況ではない。
 「先生、そんな可愛いものじゃありません。これは犠牲を運ぶ人の装束なんですよ」
 「そうであったか。しかしな君、儂は確かにアグニの炉まで君に運ばれるかもしれないが、それは君が儂に命じたことではない。儂をバールクッチャからここまで運んだのは君ではない。儂は儂に命じてここまで来たし、儂は儂に命じてアグニの炉へ入るのだ。わかるね」
 私はまたも号泣するほかなかったのである。

 シャルマンジーを背負って大門へ行くと、皇帝がいたし、ニコラウス卿がいたし、ボエトゥス博士と弟子たちもいた。アテナイの市民がたくさん集まっていたが、誰もが押し黙っていた。3人の着飾った少女たちがいた。ゼウス祭りでは処女たちが犠牲の牛を先導する習いなのは知っていた。
 「では、参りましょう」
 皇帝が言って、少女たちに合図した。少女たちが歩き出し、私はシャルマンジーを背負って少女たちについていった。
 沿道の人々が敬虔な目で私たちを見送った。誰も何も言わず、かがり火が燃えるパチパチという音だけが辺りに響いていた。
 ゼウスの聖域につくと、石の祭壇、すなわち炉がこしらえられ、薪が並べられていた。アテナイの人々は聖域に押し合いへし合い並んでいたが、祭祀を静かに見守っていた。
 「もう歩ける」
 シャルマンジーは私の背から降りると、祭壇の上に座り蓮華座を組んだ。私はシャルマンジーの体にギーを塗った。
 「これはバールクッチャの牛のギーです」
 「これは嬉しいな」
 シャルマンジーはいつも通り私に笑いかけてくれたのである。
 「ナラや」
 シャルマンジーは私の名を呼んだ。
 「はい」
 「ナラ、儂の息子よ。君のおかげで楽しい旅であった。ありがとう」
 私はこらえていたのだが、もう駄目であった。心の堰を解き放って思い切り泣いたのである。
 「さあ、危ないからもう離れなさい」
 私は後ずさった。3人の少女が松明を持って祭壇に近づき、大地に松明を立て、手を離した。そう、少女たちは火をつけたのではない。松明は、自然に倒れたのである。
 火はただちにシャルマンジーを包んだ。その瞬間、少女たちと市民たちが絶叫した。嘆き、むせび、合掌してシャルマンジーを拝した。皇帝も、ニコラウス卿も、ボエトゥス博士たちも同様であった。私はもう泣いていなかった。私は見た。シャルマンジーの火が風を焼き、煙が宇宙に飛んでいくのを。それで私は思ったのである。シャルマンジーは虚空に生まれた(*)のだと。

*虚空に生まれた 「美しい女神よ、虚空に生まれ(kheja)、人間の子宮から生まれた彼は、空の旅人の主となるでしょう」(Kularatnoddyota.9,44)
 「存在する全てのものは虚空から生ずる。また死ぬときには虚空のうちに帰っていくのである」(Chãndogya-Upanishad.Ⅰ.9,1)

 火が消えたとき、皇帝は進み出て、祭壇を背にして号泣しながら、次のように獅子吼した。
 「皆さん、そして神々よ。私が死んだのち、私の墓を調べその表側をあらためよ。そこに私が破壊よりも保存を望んだと記されていないかを。私の墓の裏側をあらためよ。そこに慈悲、正義、敬虔という文字が記されていないかを。あなた方の十代先の子孫たちは確かめるがいい、私とそののちの世が、ローマの平和と称えられていないかを」

9. 後日談。Zarmanochegas

 私はインドへ帰る荷造りをしていた。荷のひとつは、もちろんシャルマンジーの骨壺である。
 ニコラウス卿と、ボエトゥス博士と弟子たちが、揃って私を訪ねてきた。自分たちでアテナイにシャルマンジーの墓を作りたいと言った。
 「これはつまり、私たちの罪滅ぼしです」
 ニコラウス卿が言った。
 「ご冗談でしょう」
 卿たちからは敬虔な気持ちしか感じなかったが、私は当然遺灰をナルマダー川に流すつもりだったから、こう言ったのである。
 「どうかそうおっしゃらずに」
 「いやしかしですね、インドでは」
 そのとき私は内なる夜叉の声、いやシャルマンジーの声を聞いたような気がした。「どうでもよい」と。それでは分骨? いやそれは何かシャルマンジーをふたつに裂くような思いがして、善くない、と思った。
 「わかりました」
 私は骨壺をニコラウス卿に渡した。
 「ありがとう。墓標を刻みたいと思います。この方はどちらのお生まれだったのですか」
 「バリュガザです」
 墓はアテナイに建てるのだから、ギリシア人たちの音でいいだろうと思った。
 「ああ、かのインドの交易の町バルゴザ」
 「バリュガザです」
 「バルゴザですね」
 どうも、エリュトラー海のギリシア商人とローマ一般とでは少し音が違うらしい。
 「それでお名前は?」
 「シャルマン・ケージャジーです」
 かの聖仙への送り名として、私にはこれ以外に思いつかなかった。
 「なんですって?」
 「ですから、Śarman Kheja jiです」
 ニコラウス卿は書き留めて、 骨壺を持って皆帰って行った。それで私は、シャルマンジーの墓を見届けてから帰ることにした。

 アクロポリスの丘を降りてすぐの森の中に、その墓は出来上がっていた。墓標には次のように記されていた。
 「ここにはバルゴザ出身のインド人、Zarmanochegasが眠っている。彼は先祖の慣習に従って自らを不滅にした」
 なんということだ。ひどい音になってしまった。しかしまたしても、私は内なる夜叉の声、いやシャルマンジーの声を聞いたのである。「どうでもいいではないか」と。

 バールクッチャに帰ると、シャルマンジーがいないことについて、誰も私に尋ねなかった。私が自分から話すまで尋ねまいという敬虔さからのことであったと思う。それでシャルマンジーの最期について、私は母と導師を除いては語らなかった。
 私は特に変わることなく仕事に励んだ。皇帝はパルティアと和睦し、鷲の軍旗と捕囚たちはローマに戻った。ローマの人々は戦争ではなく平和を選んだ皇帝を称賛していると聞いた。ネルキュンダやムージリスからエジプトへ行く船、エジプトからムージリスやネルキュンダへ行く船がバールクッチャに多く寄港するようになり、私は以前よりも忙しくなったし、町はかつてない好景気に沸いている。
 いやひとつ変わったことがあった。私は妻と導師に頼んで、不淫の誓いを解いてもらった。
 妻が娘を生んだとき、やはり後世の人々のために書き記しておくべきだと思った。それで私はこれを書いたのである。



あとがき

 Zarmanochegasについて、どういうわけか、ZarmanoとはŚramaṇaであって、ジャイナ教僧ではなさそうだから、すなわち仏教僧である、という説が、定説の如く流布している。私はこの説に懐疑的であった。この説を唱える学者先生方が、彼が何の用があってローマへの使節に加わっていたのか、またなぜ「先祖の慣習に従って自らを不滅にした」のか、充分に論考していなかったからである。私の学術面での意見は本編に込めたし、私がこの劇で皆さんに伝えたいのはその種の意見ではないので、ここで詳述することはしないが、この懐疑が、私がこの劇を書こうと思うに至る最初のきっかけではあった。そうそう、Śarmanとはバラモンに多い姓ないし異名で、「幸せ」の意である。
 さてこの劇のどこまでが史実でどこからが虚構なのか、ということを私に尋ねる人がいるかもしれない。しかしご承知の通り、劇の命は真実味であるから、私はその問いには、すべて真実である、と答えて劇作家の務めを果たさなければならない。しかしこの、あまり広く知られているとは言えない人、この出来事、諸背景を紹介したいというのも、私がこの劇を書いた動機の一部であるので、参考文献を少し書いておきたい。全て英語だが、ブラウザの翻訳機能か翻訳サイトを利用することで各国語で読めることと思う。

 ザルマノケガス、ザルマルスのことは、ストラボンの『地理誌』(XV,1,4とXV,1,73)と、カッシウス・ディオの『ローマ史』(LIV,9)に書かれている。
 アウグストゥス帝の時代のインド洋交易については、脚注でも示したが、『エリュトラー海周遊記』以外に考えられない。
   古代インド洋交易へのジャイナ教徒の関りについては、モーティ・チャンドラの『Trade and Trade Routtes In Ancient India』がある。
 しかし今日のインドで貿易商人の多くがジャイナ教徒であることを見るだけでも充分かもしれない。
 ジャイナ教の聖典をはじめ、マハーバーラタ、ウパニシャッドなどヒンドスタンの主要な古典籍の多くが読める『ウィズダム・ライブラリー』を独力で構築したゲイブ・ヒエムストラ氏の熱情と敬虔さには脱帽する他ない。
 アウグストゥス帝の霊廟に記されていた碑文『神聖アウグストゥスの功績』はここで読める。

 この劇を読んだ人が自殺を肯定しないか、ということは、当然強く警戒した。工夫はしたし、それは成功したと思っているが、それでもなお、これを読んで自殺したいと思ったのではない人が、これは自殺を肯定するものである、と言うかもしれない。そのように見たい人は、そのように見ればよいと思う。真理は風の中にあり、各人がそれぞれ探し当てるものだからである。しかしこれは伝えたい。私はあなたに歓喜してもらうためにこれを書いた。

   2024年10月 Ramaneyya Asu


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