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「ジム・ジャームッシュ」

「退屈」とはなんだろうか?

辞書で調べれば、

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「相変らずの状態が続くので心が晴れず、あきること。そのさま。」と書いてある。

まんまその認識で間違っていないと思う。だが、タイトルにもあるように、「ジム・ジャームッシュ」という映画監督を語る上では“「退屈」とはなんだろうか?”それが外せないキーワードになってくる気がする。


「ジム・ジャームッシュ」とは、アメリカの映画監督、脚本家である。

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ジョニー・デップが出演している「デッドマン」や、ウィノナ・ライダー、ロベルト・ベニーニ、ジーナ・ローランズらが出演している「ナイト・オン・ザ・プラネット」、永瀬正敏、工藤夕貴らが出演している「ミステリー・トレイン」などを手掛けている。


そして、「ジム・ジャームッシュ」作品に共通しているのが、“とらえどころがない”という点である。

はっきりと起承転結がなく、強い葛藤を生み出すことない物語は、“退屈” に思う人も多くいると思う。


しかし、一度視点を変えてみる。

例えば、「ミステリー・トレイン」

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舞台は、テネシー州の都市メンフィス。ブルースやロックンロールなどの音楽の街として知られ、エルヴィス・プレスリー、ジョニー・キャッシュ、ロイ・オービンソンらがここでレコーディングを行った地だ。そこへ列車でたどり着くのが、永瀬正敏と工藤夕貴が演じる、横浜からやってきた、ロックの源流を訪ねようとしている観光客である。

工藤演じるミツコはプレスリーの邸宅のあるグレイスランドに行きたがり、永瀬演じるジュンは有名なミュージシャンたちがレコーディングを行ったサン・スタジオに行きたいと主張する。結局、ジュンが折れて二人はグレイスランドへ向けて、旅行ケースを携えたまま無闇に歩き出すが、なぜかサン・スタジオの方に到着してしまうというでたらめさ。そこでドラマチックな事態が起こるわけでもない。

 このような、目的意識の薄い旅行者の姿を映し出すという行為が、不思議な感覚を生みだす。通常、劇映画を楽しませるには、主人公に強い動機を設定し、乗り越えるべき課題を観客にも共有させる部分がなくてはならないのが普通だ。だが、ジュンとミツコには大きな葛藤もトラブルも起きず、二人はさして成長もないまま、この地を去っていくことになる。

ジュンが、安ホテルの部屋の中をしきりに写真に撮る場面がある。なぜそんなものを撮るのかとミツコに訊かれると、ジュンは、空港やホテルのような場所は忘れちゃうだろ、と答える。二人がグレイスランドにたどり着けなくてもいいように、旅というものは、何でもないその瞬間瞬間を楽しめばよいのだと思う。

 


人生が、目的の駅へと進む列車に乗っている時間であるとすれば、それはただの過程だとしか感じられないかもしれない。だが、車窓から見えるものを目にして、風景を味わったり、何かを考えること自体を楽しめば、過程は過程でなくなり、その瞬間そのものが輝き出す。

「ジム・ジャームッシュ」作品のとらえどころのない作風は、「ジム・ジャームッシュ」自身が“とらえどころないものをとらえようとしている”

だから、そこには分かりやすい結末や感情は用意されない。そして、それこそが人生そのものであり、現実の姿をある意味でリアルに切り取っているといえるのではないだろうか。

とすると、“「退屈」とはなんだろうか?”この問いの答えは、その過程を楽しめない、味わうことができない、「退屈」だと思ってしまう心のことではないだろうか。

一つの目の記事にも書いたように、意味のないようなものは理由を知らないだけと、考えることができれば、同じように「退屈」も「退屈」ではなくなる。


少なくとも私は、そう考えようと思う。








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