わたしの好きなサトウ カエデ(まとめ)
前に映画レビューの中で、「好きな監督」と言うのはその人の作品が全部好きなときだ、ということを書いた。それは「小説家」とか「作家」、あるいは「アーティスト」などであってもそう。これはあくまで「わたしにとっては」ということであって、一曲だけものすごく好きな曲があってそのアーティストを「好きなアーティスト」として挙げることを否定するものではありません。(というような断りを書くのが、カエデさん風)
せっかく全部読んだので、「これ読んで!」と思うものを紹介したいと思うのだけれど、ご本人がまとめているものも「名刺代わりにこちらをどうぞ」としてマガジンになっている。もちろんここにまとまっているものは人気のある記事で、はずれなし、まちがいなしのお勧め。いわばベスト盤。
でもわたしはせっかく全部読んだのだから、埋もれていて見逃されていそうなやつを掘り出したいと思う。そう、B面コレクションみたいなものとして。
最初ははずせない
どんな作家でもそうなんですが、わたしは何か好きだと思う作品に出会ったら、その作家の最初の作品を読む。最初に出会うのが最初の作品ということもあるけれど、そうでないケースの方が多いですね。多くの場合、わたしはある作家に出会うと出会った作品の次にその人の最初の(入手できる限りもっとも古い)作品を読む。それも好きだったら、だいたい他の作品もみんな好きになることが多い。
カエデさんの、現在公開されている一番古い作品は「小さなキスと、花束を」です。
もうね、いきなりこの完成度。大変ですね。
「パトカーだね」
この書き出し。秀逸ですね。タクシーをパトカーだと言った娘ちゃんの言葉から、文章は主題に入っていく。言いたいことを最初にどかーんと書かないところが、カエデさんの「暑苦しくない」要因ではないかと思う。よく伝えたいことは結論から書け、みたいな話、あるのだけれど、それだと伝わりやすいしわかりやすいものにはなっても、そこに文章の「風合い」みたいなものは乗らない。この内容を「パトカーだね」から始めるやわらかさが、ここにはある。
この作品でもう一つ驚くのはタイトル。内容を読んでみると、キスも花束も出てこない。最近、noteではいかに読まれるものを書くか、わかりやすい文章を書くか、みたいなことが声高に言われていて、その中に「内容を端的に表すタイトル」みたいなのがあるけれど、この作品はそれに則っていない。そして、則っていないことがとても魅力的。
タイトルを見てわたしは「雨にキッスの花束を」という今井美樹の歌を思い出した。それもあって、なんだか淡い恋みたいな話かな、と思った。でも予想したのとはまるで違う方向からボールは飛んでくる。
あ、そう来るの?と思いながらそのボールをキャッチできた人は、きっとカエデさんの世界にはまると思う。
…。このボリューム感で紹介してたらディープすぎる記事になるなこれ…。もうすこしあっさりいきましょう、いけますかわたし。
マイファーストカエデ体験がこれ。わたしは2020年の4月にnote を始めたのだけど、たぶん何かの拍子にこれが画面に表示されてて読んだんですね。カエデさんのことは全く知らず、誰が書いたものかなどぜんぜん意識せずに。で、全読みしていたら出てきた。「あ!これ書いたのカエデさんだったの?」という感じでした。
このぐらいのボリュームなら生き残れる?誰に聞いてんのって話もありますが。
以降はなんとなくカテゴリわけして紹介しますね。(ちょっと下書き始めたら全件紹介みたいになりかけたので慌ててピックする基準を大幅に上げました。あぶない。ライフワークになるところだった…)
異国のおはなし
これもすでに人気作品のような気がするけれど、わたしがシンプルに面白いと感じたニュージーランドの話がこれだったので紹介したい。
だいぶ前に台湾からネットで知り合った友人が遊びに来たことがあって、そのとき「スーパーに行きたい」と言われた。海外から来た友達をもてなすのに、どこか土産物屋とか、と考えていたのに、普段君が行くようなスーパーに行きたいんだと言われたんですね。この作品を読むと、異国のスーパーってもうエンターテイメントだということがよくわかる。りんごジュースがりんごの品種ごとに出ているなんて、まさに異文化。これって日本だと細分化されてる魚が海外ではけっこうざっくり「サーモン」だったりするように、なにかを「どうわけるか」というのは文化が色濃く出ると思う。スーパーはそれを俯瞰できる場所で、それ自体がコンテンツなんだと気づかされる。ごく個人的にだけど、カエデさんのニュージーランドものでこれが一番好きかもしれない。
これは写真がとてもいい。色とりどりの青が、一枚の写真の中に詰まっている。わたしも空が好きで、広い空を求めて住むところを変えてきた。今はそれこそ頭上にオリオンが見えるようなところに住んでいる。だからここに書かれている感覚はとてもよくわかる。特にいいのは「だけど。」からあとの部分。ここはカエデさんならでは。南半球に移住しないと実感できない反転した空。わたしはそれを日本の北の方で想像する。どんなだろう。日本からは見えない星座も見える空。たしかに同じ一続きの空だ。でもきっと、ぜんぜん違う空だ。
子育てのはなし
カエデさんの子育てエッセイ好きな人ってけっこう多いような気がするのだけれど、そういう人に読んでほしいのがこれ。ずっと登場し続けている娘ちゃんの、今はもう見られない姿が見られる。あぁこんな感じだった子が今のあの娘ちゃんのように成長したんだな、と、ぜんぜん会ったこともない娘ちゃんが自分の娘みたいに感じられる。子どもって日々新しくなってしまうので、こうやって本当に小さな出来事を書き留めておくことはステキだなと思いました。
これ、どのカテゴリに入れるか迷ったけど娘ちゃんへの想いが書いてあるからここに入れよう。
この作品を読んだとき、
海岸に打ち上げられた流木と昆布に、空を横切っていく生意気そうなカモメ。
という一文が頭だか心だかのどこかに残った。ざーっと波が引いた後に踏ん張っている貝殻みたいに、通り過ぎた文章の中から言葉が残っていくことがある。ここで残ったのは「生意気そうなカモメ」というフレーズ。これを読んで、書き留めねば!と思った。そしてアイデアノートにしているノートの新しいページを開き、「サトウカエデ語録」と書いてその次の行に「生意気そうなカモメ」とメモした。
こんなふうに、本編のストーリーでもなく、作品のテーマでもなく、わずかな表現の一部みたいなものが残るとき、その作家を好きかもと思う。これを書き留めたとき、あぁこれは、ここから全部読んで終わりまで読み終えたときに、「やっぱり好きだった」っていう結論になるな、と予感した。そのぐらい「生意気そうなカモメ」は運命的に響いた。
みかんの話。このタイトルでみかんの話なのも強い。ここにも語録に書き留めるべき表現がある。
ミカンというのは、非常にクリエイティブな食べ物だ。
そうか。みかんというのはクリエイティブな食べ物だったんだ、というむやみな感動があった。ただのクリエイティブではない。「非常に」クリエイティブなんである。いい。この一文だけを何度も読んでしまうぐらい、いい。
「子どもの1歳の誕生日に、どうしようもないツラさを抱えていた君へ」
これ紹介するかどうか迷った。すでに3桁のスキを獲得している作品を今さらわたしが紹介するまでもないような気もしたけれど、ノート(物理)に書き写した一行があるから紹介したい。
情けない、なさけない。
この作品に書かれていることは、きっと子どものいる人ならほとんどみんな共感するようなことだと思うけれど、特に強く残ったのは、それこそ引き波が去ったあとに残ったのはこの一行だった。「なさけない」を二回繰り返しているのだけれど、一回目は漢字で二回目は開かれている。この一行を何度も読み返した。
これだよ。この感覚、と思った。こういう小さなところって、作者本人がこだわったかどうかということは問題ではなくて、大事なのはそれがわたしの中に強く残ったということなのですね。こうやって、自分の持っている網にこれがひっかかる、ということを発見していくことが、文学の楽しみだと感じる。(あくまでごく個人的に)
この作品は臨場感がすごい。娘ちゃんの和英ちゃんぽん言語に登場した謎の「カァモォ」の正体が判明したときの、カエデさんの「アハ体験」が伝わってくる。「そうだったのか!!!」とビックリマークがびっくりするぐらい並んじゃうような感覚が。たぶん幼いころからこうやって和英ちゃんぽんした本物のバイリンガルは、なにかを考えるときの思考言語も独特なことになって、独創的な発想ができるんじゃないかと思う。なんだかんだ、人は言葉で思考するのだから。
「片付いた」が宇宙に吸い込まれた部屋に、ため息がでそう。
幼いこどもがいる間は、整理整頓とか掃除とか、「こうあらねば」の敷居を下げまくらないとため息で酸欠になる。不潔じゃなければいい、ぐらいの緩さでゆるりと乗り切りたいですね。それにしても「「片付いた」が宇宙に吸い込まれた」とはもうインターステラーな世界で、ついでに本棚の本も床に落ちます。
これももうね、ニクい。タイトル通りほとんど反則ですよ。エッセイと見せかけてからのフィクション。すんなりと流れていくのでまるで実話として読める。というか完全に実話だと思って読んだ。そしたら最後のカミングアウト。「反則だよー」と叫びながら、あ、タイトルに反則って宣言されてた、と思うという仕掛け。ニクいなこれ。
その他のエッセイ
「「cakesクリエイターコンテスト」第一次選考にもれたので、健全に前をむくためにしたこと」
前の記事に「弱さを隠さずにいられる人は強い」ということを書いたけれど、それがよくわかるのがこちらの記事。ちょっと古い記事だけれど、なんというかカエデさんもこういうところを通ったのだなと思うと勝手に親近感が湧くのです。今、コンテストで選外になって心の底の方に澱みたいなものがよどんでいる人はぜひ、これ読んでみてほしい。
わたしはこれまでにもいろいろな表現の世界で戦おうとして散ってきたのだけれど、文芸の世界も同じで、ほんとに絶対評価で勝負が決まる。だから例えば強力なライバルが一人脱落したからと言って、その席に自分が入れるわけではないんですね。次点繰り上げってことはなくて「該当なし」という結果になるだけ。応募が数万点だろうと数点だろうと、自分が入るか入らないかは自分の作品で決まる。それに、わたしも入賞ぐらいはしたことがあるけれど、ほとんどのコンテストでど真ん中のグランプリ以外はその先につながらない。一次で落ちようと最終選考で落ちようと落選は落選。次に目を向けるしかない。(もちろん一次に通った、とかいうのは励みになるから無駄だと言っているわけではありません)
たぶん、カエデさんはここで苦しんだ(その苦しんでる感じがありありとこの記事に書かれている)ことで、その後の素晴らしいものを書けるようになっていったんではないかなと、生意気ながら思った。
「夢をあきらめてしまうのは、「もうだめだ」という思い込みだったりする」
この作品は個人的に、けっこう意外だった。海外で暮らしている、フリーランスのライターさん、noteでも多くの人の憧れを集めている、という印象のカエデさん。勝手に、ぶっとく芯の通った人だと思っていた。でもここには、揺れに揺れてあっさり諦めちゃったりするような一面が書かれている。逆にそれでわかったんです。「ああ、だからやさしいのか」と。揺れちゃう人、頑張れない人、挫折しちゃう人、逃げちゃう人。そういう人の気持ちがわかるから、寄り添って書くことができる。強いことを書くときに、その強さで折れてしまう人に気を配ることができる。
「諦めたらそこで試合終了」という有名なあれ。あれその通りなんだけど、そこで諦めないことがとんでもなく難しい。それができるってことこそが、才能ってことだと思う。
北欧の食器の話。もうね、前に映画の話のところで書いたけれど、わたしの家にもロイヤルコペンハーゲンとかイッタラとかある。北欧デザイン大好き。そこから絵本のお話になっていく、これはメイキングみたいな作品ですね。でき上ったお話はこの作品の中にリンクがあるのでそこからご覧あれ(これのひとつ前の作品がそうです)。
金継ぎですが、わたしはエポキシパテでやってます。色が味気ないけど食器は蘇る。エポキシパテでの金継ぎは所ジョージさんが「世田谷ベース」という番組で紹介していました。
これはタイトルが内容を表しているタイプですね。旦那さんとの読んでいてニマニマしてしまうようなやり取りから、心の奥に刺さっていたトゲみたいなところへ下りていく。ここでもわたしの中に残るのは細部です。
でも、あこがれのカンノーリは、すっかりと私の中で色あせていた。
ぽんとわたしの中に残ったのはここの「すっかりと」の「と」。「すっかり色あせた」のではなく、「すっかりと色あせた」というこの「と」。ああ、これだよ。この「と」が好きだ。
さらに。ラストの一文。
ちょっと食べすぎちゃったけど。でも、だいぶ気分がいいぞと思った。
ああ、いい。「でも、」の「、」と「気分がいいぞと思った」の「ぞ」が。好きだなこの文。
大丈夫かなこれ。この好きってキモくない?なんか不安になってきますね。「君のその中指にあるささくれがたまらなく好き」とか言ってるようなヤバさがあるんではないかと思えてくる。愛を語ってたら引かれてたみたいなことに、なってないことを祈ろう。
本気でこれ終わらない気がしてきたけど。
この作品はこのようなタイトルで来て次のようになる。
けれど、先週ひさびさにムカチーンときてしまったので、そのことを書いておこう。
「けれど、」からの「ムカチーン」。このムカチーンの破壊力が強烈なのだけど、タイトルは「カッチーン」なんですよ。ムカチーンは温存しておくというこのスタイル。やられたと思いましたね。不意打ちムカチーン。勝てねぇ。
植物は人間が手を加えない限り、育った場所を動くことはできないけれど、僕らには足がある。幸いなことに、住む場所を選ぶことができる。
この文で「あっ」と思った。カエデさんのエッセイで「僕ら」という主語は珍しい。
ここに唐突に現れた「僕ら」はものすごく強い。「人は」という大きな主語で、「植物」というというこれまた大きなものに「似ている」ということを書いている中の、植物と人の大きな違いに言及している一文。その違いは「足がある」こと。それを書くときにだけ「僕ら」という主語が登場した。つまりこれは、カエデさん自身がその「人」の中に入った瞬間だと思う。外側から「こういうことではないか」ということを客観的に書いておいて、ぽんとこの瞬間、内側に入る。「住む場所を自分で選択する」ということがカエデさんにとってきわめて重要なことである、ということがこの一文でわかる。「僕らには足がある」。それこそが人を人たらしめている重要な要素であると言わんばかりの「僕ら」だ。
これですよ。こういう風に、日常のなにかふとした瞬間に、大切な気づきを得ることってある。それを記事にしようと思うことがある。そのときに、「こんなことに気づいた。これってこうですよね」という正論を書くのは、割と誰にでも書ける。それだけで終えないところがカエデさんなんですね。そこに真摯さがあると思う。
この作品は後半で、自分が不用意なことを言った、という反省を書いている。前半に書いてあることはそこから得た気づきだということが、書いてある。これによって読むほうは、振りかざされた正論じゃなくて、この血の通った一人の人が感じたその肌感というか、どこか空の上から降ってきたものじゃなくて、対面している人から手渡されたような感覚で読める。
これももうね。うまいなあ。
食のこだわりって、意外とつよいものだ。
この書き出し。「誰かの「知ってるひと」になりたい」というタイトルからの、「食のこだわりって」という書き出し。あれ、食い物の話なの?というね。もう術中ですよ。読むのを辞めるという選択肢はもうない。どういう風にタイトルの話になるのか興味が尽きないわけです。
これもう、レア、レア。ついているスキの数が少ないから、カエデファンでもこの作品にたどり着いてない人が多いんではないか。これなにがレアって、カエデさんのイラストが見られる。簡単にささっとラフなタッチで描かれているイラストはとても暖かい味わい。うまいな、おい…。
「文章を書くわたしの脳の速度(スマホかパソコンか、もしくは紙か)」
これは書き手としてはとても興味深い話で、いろんな人に、普段どうやって(どんな道具を使って)文章を作っているのか(あえて書くという動詞を避けてみた)は聞いてみたいですね。それを真似したいとかじゃなくて単純に興味があります。
この作品を読んで意外だったのは、スマホで小説を書くという話。わたしはもうスマホはメモぐらいで、小説は構想はひたすらノート(物理)に万年筆というアナログで、原稿に入ったらPC。推敲は以前はプリントしていたけれど、紙の消費量がとんでもないので最近はギリギリまでPDFで、タブレットを使って手描きで書き込んでます。
ニュージーランドの夏がいきなりストライキをして窓の外は曇り空。
いいなあ。「夏がいきなりストライキ」の「いきなり」が好き。熱い日の連なった中に突然の曇り空。少し肌寒かったりもする。夏のストライキなんだ。それはそうと、
今年は、小説を書き上げてどこかの文学新人賞に出すのがやりたいことの一つ。6月に出したい賞がある。
ナニ! わたしも6月に一つ出したぞ。もしかして同じ賞を戦うことになっていたり…?なんだか、ヒリヒリしますね。とはいえ、小説の賞レースは車で言えばタイムアタックみたいなもので、ライバルが遅くて自分が一位でも、絶対的な速度でタイムが出てなければ賞はもらえない。だからどんなに強力なライバルが現れようと、自分の結果には影響がないのです。カエデさんの小説は需要ありそうだなあ。だって出たら買うもの。わたしが。
わたしもコーヒー飲みすぎなぐらい飲んでるので、しあわせはコーヒーの香りってよくわかる。そこへこれですよ。
最高潮に傷つけあって腫れぼったい目を抱えた朝とか、愛情が枯渇するほど言葉に刺された夜とか、眠れない星の下の地続きに、コーヒーを淹れるキッチンがある。
「最高潮に」傷つけあう。わかる。言葉に「刺され」て「愛情が枯渇する」っていうのも、わかる。いつも一緒にいる大切な人とこそ、こういうことになるよなぁ。そんなときにコーヒー。コーヒーは飲むんじゃなくて「淹れる」ところからぜんぶしあわせにつながっている。豆から挽くとなお良い。手回し式のミルでゴリゴリやっていると、いろいろ腹立ってたことも一緒にゴリゴリ粉になっていく感じがします。
これはエッセイだけど創作の話だから創作のカテゴリに入れようか迷った。でもこの作品自体は小説ではないからこっちに。
わたしは小説と言っても中編~長編ばかり書いているので、ショートショートみたいなものをうまくまとめる自信がない。これを読んでちょっと挑戦してみたいな、と思った。
推敲に時間をかけるというのは、たぶん小説を書いている人はみんなそうなんじゃないだろうか。わたしの「雪町フォトグラフ」は原稿用紙400枚弱だけど、一か月ぐらいでわーっと書いて、3か月ぐらい推敲した。あれはA4に印刷すると142ページあって、それを両面印刷で71枚。あのときはプリントアウトしての推敲で第6稿まで書いたので、数百枚に及ぶ紙を消費しました。赤ボールペンも2本ぐらい使い切ったかな。その前に着想から参考文献買い集めて大量のメモを書いて、ってたぶん2年ぐらいやってやっと書き始めた。どこの村上春樹ですかっていう書き方…。
創作全般
「きみの後ろ姿」
これはショートショートなのだけれど、普段からカエデさんのエッセイを読んでいる人には、見送られる娘ちゃんの姿が重なるわけですよ。まだ見ぬもう少し未来の娘ちゃんとそれを見送るカエデさん。小説がリアリティを持つのは、作家がそのリアルを実感できているから。小説にはなんだって書けるけれど、何を書いてもリアリティを持つわけではないのですね。
これが「日記」というタグで出てくるのがステキでしょ。日記が詩の言葉で書かれているという肌ざわり。こんなふうに書くと、なんでもない日常が詩のように見えてくるかもしれない。
ぎゃー。
おっと、とりみだしたようだ。この作品は、説明などまったく不要なほどに悶絶。読んで悶えましょう。
ちなみにその後日談が「小説を公開したら帯をたくさんもらってうれしかったので、全部を紹介するよ」。クズエモって言葉は初めて聞いた。それがどういう意味かよくわからないけど、この作品みたいなのって言われたらずしーんと体感できる。
カエデさんの創作作品の中でこれが一番好きかも。この彼、いいよなぁ。この人を逃しちゃいけませんよ、って耳打ちしに行きたくなるでしょ。こんな男は、たぶん現実にはいない。
まとめ
長すぎる!多すぎる!細かすぎる!
というわけで熱情が噴出してどえらいことになった紹介記事ですが、これまでに書いたnote でもっとも長く、もっとも濃いものになりました。あれもこれも入ってないじゃん!と思う人が多かろうと思いますが、人気記事はご本人もまとめられているし、この作者の人気記事、みたいなところにも出てくるでしょう。
わたしはせっかく全部読んだので、なるべくスキの少ないものから選びました。いやほんと、まだまだ他にもありますよ。だけどやり出すと全部リストすることになって、もはやまとめでもなんでもなくなるのでこのぐらいってことで、ひとつお願いします(なにをだ)。
いただいたサポートはお茶代にしたり、他の人のサポートに回したりします。