暗黒の小学校期
小学校の教員をしていた両親は、親ではなく「先生」だった・・・
この世界に誰一人味方はいないと思い知った11歳。
子どもに毒味させる母親
私の母親は、食卓にやたらと料理を並べるのが好きな人だった。
一つの料理を大量に作り、4人家族でも1食で食べきれず、翌日も残り物が食卓に出続けた。
翌日は翌日で新しい料理をまた大量に作るので、食卓は常に5~6種類の料理であふれていた。
食べきれないのがわかっているのに、なぜ毎食こんなに作るのか不思議だった。
今にして思えば、戦後の貧しい時代に生まれ育った母親には、食卓いっぱいの料理が幸せの象徴だったのかもしれない。
こどもにとっては、何日も同じ料理が出続けるのは嬉しくなかったし、結局食べきれずに廃棄することも多かった。
そんな母親には、一つとても嫌な性質があった。
湯豆腐が出て私が食べようとしたときに、母親の視線が気になった。
気持ち頭を下げ、上目がちにじっとねめつけるように、私が湯豆腐を口に運ぶのを見ていた。
口に入れた途端、鳥肌が立つような酸味を感じ、慌てて豆腐を吐き出す。
「なんだこの豆腐!腐ってるんじゃない⁉」
私の反応を見た母親は「チッ」と軽く舌打ちすると、「やっぱりダメだったか」とつぶやいて、食卓から湯豆腐を下げた。
賞味期限が過ぎたあやしい食材を出すときは、決まって自分では口をつけず、家族の誰かが先に食べるのをじっと待って、毒味をさせるのだ。
何度も被害にあった私は、いまだに食材の賞味期限には敏感で、すこしでも怪しいものは口にしないようにしている。
50歳になる今でも、あのねめつけるような嫌な視線は忘れない。
母親には家族への愛情があったのだろうか?
少なくとも、私には感じられなかった。
不機嫌な父親
小学校の教師をしていた父親は、仕事から返ってくるといつも不機嫌だった。
ビールを飲みながら野球中継を見るのが日課で、その間、子どもたちは好きなテレビ番組見れなかったし、テレビゲームもできなかった。
大ファンの巨人が負けているとテレビに向かって怒鳴り散らし、眉間にしわを寄せて明らかに不機嫌だった。
そんな時に少しでも気に障ることをすると、すぐにひっぱたかれた。
テレビが見れなくて暇だったので、弟と遊んでいるしかないのだが、ちょっとしたことでケンカになると、すぐに父親に怒鳴られた。
「うるせえっ!俺が今巨人戦見てるのわからねえのか!邪魔すんじゃねえっ!」
「だって弟が・・・」
「てめえは兄貴だろうが!いちいち弟のせいにしてんじゃねえっ!」
そう言って胸ぐらをつかまれ、ほっぺたをひっぱたかれた。
ひどいときは外の物置小屋に放り込まれ、真っ暗な中閉じ込められることもあった。
理由なんて関係ない。
子どもの話なんて聞いてくれたことがない。
気に入らなければ手をあげる。
昭和の時代にはDVとか虐待とかいう言葉は一般的ではなく、我が家という狭い世界しかしらなかった私は、それが当たり前なんだと思っていた。
時には家を追い出されたこともあった。
行く当てもない中、山沿いの道路をとぼとぼと3~4km歩いていくと、近所のおばさんに声をかけられた。
畑で農作業をしていて、見つけてくれたのだ。
事情を話すと一旦おばさんの家に連れていかれ、おばさんから母親に話してくれて、うちに帰ることになった。
家に帰ると、居間に座っていた父親は、「おかえり」とも「なんで帰ってきた」とも言わず、ただ黙っていた。
今にして思えば、当時勤めていた学校で学級経営がうまくいかず、色々ストレスがたまっていたらしい。
子どもの気持ちがわからない、子どものことが見えていないのだから、学級経営がうまくいくはずもない。
私が教師をする上で一番心掛けていたことは、「父親のようにはならない。しない!」ということだった。
親の要求にこたえられない子
両親に褒められた記憶はほとんどない。
両親に甘えられた覚えもない。
低学年のころから家のお手伝いをやらされていた。
家じゅうの掃除は子どもたちの仕事だった。
やらないとお小遣いがもらえなかった。
当時は地区の育成会で、小学生は野球か剣道をやる子が多かった。
私は運動が苦手だったし、学校だけでも嫌なのに、休みの日まで練習に行くのはもっと嫌で、どちらもやりたくなかった。
しかし、父親が「絶対にどちらかはやれ!」というので、しぶしぶ練習の少ない剣道をやった。
やらされている剣道は楽しくなかった。
たまにあった試合に、両親が応援に来たことはなかった。
帰ると結果だけ聞かれ、負けたと話すと「なさけねぇ」と吐き捨てられた。
高学年になると、母親も療休補充で小学校の講師をやることになった。
崩壊して担任が休んでしまった後を任され、毎日大変だったようだ。
帰ってくると、ささいなことでヒステリックに怒鳴り散らし、私たちにあたることが多かった。
よその子どもの世話をするのが大変で、ストレスがたまるせいか、自分の子どもたちには理想的ないい子でいてほしかったのかもしれない。
こうしろ、ああしろ。
これはダメ、それはするな。
どうしてできない?やればできるだろ!
教えてもらった覚えはない。
寄り添ってもらったことはない。
両親から突き付けられるのは、いつも「要求」ばかりだった。
幼児期から他の子とは違う面が多かった私は、友達関係を築くのが苦手だった。
どうすれば好かれるのか?
どうすれば仲良くできるのか?
誰も教えてくれなかったし、自分ではわからなかった。
友だちから好かれたいがために、お菓子やアイスをおごったりしていた。
少ないお小遣いでそんなことができるはずもなく、母親の財布からこっそりお金を盗んでおごっていたのだが、すぐにばれてこっぴどく叱られた。
その時も、「なんでこんなことしたの?」とは聞かれなかった。
「悪いことだとわからないの⁉ダメでしょ!」と怒られただけだった。
我が子の悩みや生きづらさには、毛ほども気づいていなかったのか、それとも、気にかける余裕もなかったのか・・・
とにかく、両親にしてみれば「期待に応えられないダメな息子」だったのだろう。
この世界に味方は一人もいない
低学年の2年間、中学年の2年間は、それぞれ定年間際のおじいちゃん先生が担任だった。
記憶に残るようなめぼしい活動は何もなかったが、特にトラブルもなく平穏な学校生活を送ることができた。
雲行きが怪しくなったのは高学年になってお母さん先生が担任になってからだった。
当時は子どもだったのでわからなかったが、学級の秩序が徐々に崩れて、だんだん個々の我が強くなり、クラス内がざわついてきていた。
そんな中、6年生の10月だったか、人生最大のトラウマとなる出来事が起きた。
その日、道徳の授業で先生から「友達のいいところと悪いところを書いて、交換し合いましょう」と言われた。
配られた用紙に自分の名前を書き、友達に回す。
回ってきた友達のいいところや悪いところを書いて、次の人に回し、最後に本人のところに戻すという授業だった。
途中から、クラスの男子が一箇所に集まりだして、何やら楽しそうにワイワイやりだした。
何かと思って近づくと、「お前は来なくていい!」とはじかれた。
授業の最後に何を楽しそうにやっていたかがわかった。
手元に戻ってきた私の用紙には、小さな字でびっしりと悪口が書かれていた。
クラスの男子全員が、ここぞとばかりに私の悪口を書きまくっていたのだ。
ショックだったのは、それを楽しそうに笑いながらやっていたことだった。
その時の私は、負けん気も強かったので落ち込むよりも、悔しい気持ちでいっぱいだった。
先生は初めに用紙を配ってから、ずっと宿題のチェックをしていて、男子が集まって私の悪口を楽しそうに書いているところも見ていなかったし、誰の用紙も何が書かれているか確かめていなかった。
ただ書かせ、そのままノーチェックで本人に戻したのだ。
教師になった今ならわかるが、こんな授業はあり得ない。
なんの目的で、どう評価するつもりだったのか?
そんな担任の力不足や手抜きのせいで、当時の私は大きな傷を負うこととなった。
しかし、本当の災難はその後だった・・・
家に帰り、担任に今日あったことを伝え、男子たちを叱ってもらおうと、日記にその旨を書いて、道徳の用紙もたたんで挟んでおいた。
ランドセルに入れていつも通り寝ていると、突然父親にたたき起こされた。
居間に連れてこられ、「そこに正座しろっ!」と怒鳴られた。
わけがわからず戸惑っている目に、テーブルの上にひろげられた私の日記が映った。
「なんだこれは⁉」
父親はいつになく激怒している。
「てめぇ、いったいどういう了見でこんなもん書いたんだ!」
父親が何を言っているのかわからない・・・
「こんなくだらねえことでいちいち担任様の手をわずらわせるんじゃねえっ!こんな女々しいことしてるから嫌われるんだ!全部てめぇが悪いんだろうがっ!いいか!ぜってえこんなもん担任の先生に出すんじゃねえぞ!わかったか!」
そう言って父親は日記のページを破り捨てた。
母親はそばでただ黙って座り、洗濯物をたたんでいただけだった。
父親を止めるでもなく、私をかばうでもなく・・・
寝床に戻り、布団をかぶって声を殺して泣いた・・・
涙が止まらなかった・・・
そして悟った。
私には親はいないんだ・・・
うちにいるのは「先生」で、私には親はいないんだと。
親として傷ついた我が子を心配するよりも、先生としての立場や気持ちが優先されたのだろう。
もしかしたら、「自分が職場で手を焼いているいじめ問題を、あろうことか自分の子どもが他の先生に訴えて迷惑をかけようとしている」のが気に食わなかったのかもしれない。
ずいぶん後になって「HUNTER✖️HUNTER」という漫画で、こんなセリフを見つけた。
「その人がどんな人か知りたかったら、その人が何に本気で怒るか知りなさい。なぜなら、それがその人が本当に大切にしているものだから」
どうやら私の両親にとって、「私」という存在は大切ではなかったようだ。
11歳にして「この世界に自分の味方は誰もいない」という辛い事実を、
深く・・・深く胸に刻んだ夜だった・・・
道徳の授業をきっかけに表面化した私への不満は、翌日からあからさまないじめとなった。
クラスを超えて、学年全体の男子が私の陰口を言い、徹底的にはぶかれた。
昼休みに体育館で学年の男子ほぼ全員でドッヂボールをするのだが、「チームの人数がちょうど同じだからお前は入れてやれない」と仲間に入れてもらえなかった。
先生には言えなかった。
先生からも何も言われなかった。
卒業までの数カ月、その状況が変わることはなかったが、学校には行き続けた。
当時は学校は行くのが当たり前で、「行かない」という選択肢はなかったのだ。
やっぱりね・・・
3学期になって、最後の参観日があった。
その日は親子で卒業記念の湯飲みを作る活動があった。
学年全体で体育館に集まり、親子で湯飲みに絵付けをして、卒業式の日にもらうというものだった。
その日、親が来なかったのは私一人だけだった。
学年で100人からいたはずだが、欠席した親はうちだけだった。
学年全員が親と一緒に作業する中、私だけが一人取り残された。
先生にも私は見えないのだろうか?
どこでどうすればいいのわからず、ただ立ちすくんでいた。
近所に住んでいるクラスの男の子のお母さんが私に気づき、
「お母さん来ないの?こっち来て一緒にやろう」
と優しく誘ってくれた。
男の子は当然私をいじめる側の子だったのだが、お母さんがいたせいかちょっと嫌な顔をしただけで、いっしょにやってくれた。
親や先生から感じられなかった温かさを、そのお母さんから感じることができた。
救われた思いだった・・・
後日、母親に思いをぶつけたことがあった。
「なんで参観日に来てくれなかったんだよ!学年で俺だけだったんだぞ!俺だけ一人で作ったんだぞ!」
当時小学校の講師をしていた母親は、ため息交じりにこう答えた。
「欠席したのが私だけだったのが計算違いだったのよね。他にもいると思ったのに」
計算違いって・・・
・・・やっぱりな。
この人は「親」じゃないんだ。
愛情とかないんだ。
・・・知ってたよ。
壊れてしまった小6の心は、もう痛みすら感じなくなっていた。
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