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あなたの声で、僕はあなたを思い出す。

人の価値はその人が得たものではなく、
その人が与えたもので測られる。
-アルベルト・アインシュタイン-

忘れていた人や思い出が蘇る。
そのきっかけは誰かのたった一声かもしれない。
その一声に宿った思い出の蓄積を大切にしたい。
そんな事を書いてみました。

声による再会

思いがけない所で思いがけない人と再会する。
そんなことが何度かある。

それは何年も会っていなかった友人に偶然再会することも意味すれば、
自分の生活圏内で会社の人に偶然出会ってしまうことも含まれる。

どんな出会い方でも共通して思うのは”なぜその人だと気付けたのか?”ということ。

そして、その理由の多くは”知ってる声が聞こえたから”

普段何気なく聞き流しているような相手の声でも、
もう何年も会っていないような人の声でも、
声を聞けば、その人が誰であったのかを思い出す。

どれだけ時間や距離が離れても
慣れ親しんだその声があいた隙間を埋めてくれる。

誰かの声は自分が思う以上に自分の中に染み込んでいるものではないか、
そんなことを考えるようになった。

最期に残る感覚

最近、死について考えさせられる本を読んだ。

”人が亡くなる際、最後まで残る感覚は聴覚。
だから最後は嘆きの声ではなく、感謝の言葉を届けてあげなさい。”

最期には感謝の声を贈るべき。
それはよくわかる話で、
僕自身、誰かの死に直面した際、感謝の言葉を投げかけられる自分でいたいと思う。

もちろん、それができるかどうかは別問題だ。
恵まれたことに僕はまだ誰かの死に目の前で向き合った経験はないし、
何度向き合っていたとしてもその時に感じる思いはその時で違うとも思うから。


しかし、考えれば考えるほど不思議なくらい声が与える影響力の大きさを実感する。

なぜ、最期に残る感覚は聴覚なのか。
全ての終わりを迎えて尚、誰かの声が聞こえるのか。
あるいは聞こうとするのか。

そして、なぜ人はこれほどまでに声や言葉に影響を受けるのだろうか。
スピーチや声援に心動かされた事が誰しも一度は経験しているかもしれない。

これまでの自分を振り返ると、たくさんの言葉に支えられてきた事を改めて感じる。
生きているうちに受け取る言葉が自然と体に吸い込まれ、ふと自然に再生される。

人は自分に向けられた声や受け取った言葉を忘れないものなのかもしれない。
だからこそ、最期に残る感覚は”聴こうとする力”なのではないかと思う。

こう考えれば、”声”という要素は今まで想像していたよりずっと力強い存在だと感じる。
その力を正しく使えているのか、見つめ直す必要もあるかもしれない。


危うき力の一面

想像以上の強さと影響力を持つ、声や言葉。
その力は救いにもなれば危うさにもなるということも忘れずに覚えておきたい。

誰しも、相手に強く言葉をぶつけてしまった事はあると思う。
そして、そのぶつけた多くの言葉をもう思い出すことが出来ないとも思う。

これが声と言葉の特徴。
自分から出た言葉なはずなのに、どんどん自分からは消えていく。

反対に、ぶつけられた言葉は程度の差こそあれ、忘れ難い記憶となっている事もある。

誰かを思い出す、そのきっかけが声であること。
それは声や言葉が意識の外のどこか別の所でちゃんと蓄積されている証。
そして蓄積される言葉は必ずしも良いものとは限らない。
ぶつけてしまった言葉もやはり同じように相手の意識のどこかに蓄積されてしまうものだと思う。

声や言葉の持つ強さを忘れてはいけない。
自分が強く感情を言葉に乗せてしまいそうな時、グッと踏みとどまることができるか。
自分自身が試されているのだと思う。

考えていくうちに冒頭に書いたアインシュタインの言葉を思い出した。

人の価値はその人が得たものではなく、
その人が与えたもので測られる。

声や言葉は相手に残るもの、つまりは与えるものだ。
どんな風に与え、どんな風に与えられるか。

あなたの声で思い出すあなたのことが、
素敵な価値ある蓄積でありますように。

ライ


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