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自分のために深呼吸。

自分自身の能力不足、成長性の弱さを感じてしまう日々が続いている。
仕事での行き詰まり感もある。

noteでそんなあれこれを愚痴りたいのではない。
ただ、処理しきれていなかった感情を整えたい。
コレを書き終わった時
一歩前向きになれているように…。

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抱え込んだ感情の向く先

明確なことは、
やめたい、ここにいたくない
そうした感情ではないという事。

自分がここに居たいと思ったのは仕事内容でも給料でもなく、根本的な哲学、考え方の要素に共感したから。
だから居場所としての納得感はある。

しかし、日々の仕事に自分が追いつけない。
ここで自分は何が出来るのだろうか。
果たして貢献することが出来るのだろうか、そんな事を最近はよく考える。

恐らくは自分のnoteもこれまで何度となくこうした話題は書いていて、結論は覚悟や気持ち、メンタルによるところが多かったようにも思う。

その考えが大切である事は今の自分でも感じる。

けれど覚悟すべき意識と日々の行き詰まり感、この隙間に何があるのかをこのnoteでは考えてみたい。

答えは出なくとも、この焦燥感、行き詰まり感を俯瞰して深呼吸をしようと思う。


伸び代を活かしきれない

上司と組んで研修を受けることがあった。

若手の自分から見れば正直上司は指摘する点なんてほとんどなかったのだが、上司は上司自身の"伸び代"を求めており、自分は上司への改善点を伝える事、次に繋がる指摘、伸び代を提供できなかった。

それだけ成長思考なことに改めて尊敬の念を抱く。
そして自分は、
"力になれなかった"
そんな事実がどこか胸の中に残っている。

いいことばかりに目を向けるのは良くも悪くも自分のクセ。
相手の改善につながること、より良い方向への伸び代を自分は指摘することが出来ていない。

昔からの気質か、育ち方なのか、考え方なのか。
無意識的に周りを見すぎる、相手に痛みがない道を選びたがる。

でも結局そうやって独りよがりな優しさを振りかざしても、
指摘する力、
弱みに気付く嗅覚が身についていない。
そんな事実を気付かされる。

上司にとってもきっと改善点はある。
それを伸びしろとして伝えることが出来れば相手にも有意義な時間となる。
出来ることなら良い方向のために自分や相手を伸ばしていける人間でありたい。


納得のプロセス

考える。
その考えを表明する。
他の人と意見を交換、対話する。
違いがあるなら受け止める、理解する。
理解が納得に変わり考えを受け入れられる。

こうした納得のプロセスが知らず知らずのうちに自分の基盤となり、
自分の新しい考えのひとつになっていく。

このサイクルは素晴らしい。

ただ、考える以前のところで止まってしまうとどうだろう。
自分の考えが固まらないうちに周りばかりを見てしまうと、いつまで経っても自分の意思が固まらない。
この納得と成長プロセスから外れてしまう。

こうしたプロセスから外れてしまった時、
どのようにして流れを元に戻せるのだろうか?

ぐうの音もでない正論

仕事の中で自分のキャパシティを越えて話が進んでしまうことがある。
その時に情報を拾いきれておらず、後になって確認されて答えられない。

「それはもっと前の段階で確認できたよね?」
そんな一言が胸に刺さる。
正しい。
コレは自分がついていけなかった以上に追いつこうとしていなかった。

何気なく埋もれてしまっていた事柄が後になって自分に牙を剥く。

あぁ、僕はこうしてこの人から信頼されなくなっていくんだな。

きっと怒られるのが嫌なわけでも辛いわけでもなく、見放される、信頼されなくなっていくのを感じていくのが辛いのだと思う。

故に前向きに改善姿勢を示すよりも先に自己嫌悪に陥ってしまう。
これは自分の弱さだ。

弱さと向き合うことは非常に痛みを伴う。
自己嫌悪を繰り返しながらも立ち直るために前へ進もうとする。

そうして乗り越えられることもあるし、
状況も流れ、また新たな問題を見落としてしまう事もある。

やはりこのループに飲まれてしまうと中々戻ってこれない。
抜け出す答えはひとつ、やること。
それだけ。

答えも知っている、道筋も見えている。
けれどもその手前でどこか折れてしまう。
そんな揺らぎをいつからか感じる。

コレを書いている時点で、
克服したい、受け入れていく、そんな選択は出来ていない。
きっとこの課題はこれから先も向き合い続けながら見つけなくてはいけないものなのだと思う。

営みの中で、続けていく日々の中で自分自身の納得へ歩みを続けたいと思う。

自分を導くこと。

自分で自分のことを決められる人が大人だと思っていた。
それは経済力や家庭を持つことではなく、自分で自分を導ける人。

そんな人が家庭も持てるし、仕事もこなせる、今もそう思っている。

そこから考えると今の自分はとても大人とは言えない。
今年で25歳になる。
もう子供だからと言える年齢はとうに過ぎてしまった。

理想が高いのだろうか。
足りないところばかりに目が向いてしまう。
自分自身の揺らぎをうまく昇華できない。
その問題は自分の中にきっとある。
パートナーがいても、
友人がいても、
自分で自分を導けない者に、
自らが望む答えは示されない。

吐き出す先が必要なのではなく、
紐解く知恵と時間と落ち着き。
健全な精神こそが必要なのではないか。

自分を導く。
そんなゴールであり、スタートでもある姿になる為に日々を生きていく。

行き詰まりの正体

行き詰まっているのは視点。
人生じゃない。

いつか聞いた言葉でいつまでも大切にしたい言葉だと思う。

確かに全てが行き詰まっている訳ではない。
毎日が苦痛なわけでもないし、
生活は出来ている、
捉え方の問題。

目をどこに向けるのか。
問題の先送りではなく、
ただ痛みを溜め込むだけでもない、
毎日と付き合っていける方法があるはずだと思う。

点と線のあいだ

好きな事はいくつもある。
やりがいを感じることも、
愛おしいと思えることもある。

けれどそれぞれが点として自分の中にあり、
その点が自分の中で繋がっていない。

バラバラな関心、
バラバラな精神が、
行き詰まり感を加速させているのかもしれない。

物事、繋がってくれば楽しい。
映画や小説の伏線が繋がる瞬間
一つの仕事で得た知識が他の仕事に応用できた瞬間。
過去の発言を覚えていてくれてサプライズとして形にしてくれた瞬間。

それぞれの出来事の繋がりは、それ自体に面白みを持つ。
発明も既存のもの同士の組み合わせから新しい価値を生むことが多い。

意思を持って変える

続けていけることがある、それは幸せな事だと思う。
自分の場合、このnoteも"書き続ける"と言う点で、いくらかの思い入れもある。

しかし辞めたってなんの問題もないのだ。
変わらないものはない。
状況に適応して歩みを変えたって良いのだ。

ただ、いつも折れそうな時に思う。
何となくで終わる事、
日々に忙殺されて向き合えなくなる事、
それだけは避けたいと思っている。

月に一回書く。
今回は月末で自分ルールギリギリの時期感にはなったが、
こうして自分を俯瞰するのは悪くないと思う。

きっと辞める時は突然かもしれない。
でもそのやめ方は自分が何か次の挑戦を見つけた形で終わりたい。

それが誰にも伝わらなくても、
自分だけそう思って区切りをつけられればいい。
そう強く思う。

書き出して思うこと

ここまで、良きにしろ悪しきにしろ幾つもの考え方、思いの丈を綴ってきた。

一つだけ確かなことは、
焦燥しきった毎日の中でも、
どんなに行き詰まった精神状態でも、
一歩俯瞰すればこれだけの言葉が出てくる。

何事もきっかけを待っているだけなのかもしれない。
飽和した感情も変わる為のきっかけなのかもしれない。

乾いた大地にも雨が降れば芽は育つ。
自身の怠惰さに負けて行き詰まっていく日々ではなく、
何か少しでもプラスになるアクションを起こしていくこと。
この大切さを今回書いていく中で改めて感じた。
絵に描いた餅にならぬように...。

痛み。
出来れば避けたいし、少なからず自分に影響がある事も知っている。

ただ、痛みを感じない日々が正しいとも思わない。
行き詰まりになった時こそ俯瞰し一歩引いて整理する。

頭と心で大きく息を吸って
その息を吐き出した時
明日も少しだけ歩いていけそうな気がする。

ライ

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