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短編小説 暑気祓い


 おや、今日は電灯カバーに張り付いているのかい。昨日は浴槽まわりをぴょんぴょん跳ねていたのに、まさに神出鬼没だな。

 そんな天地のひっくり返ったままでいて、よく落ちないもんだね。ありがたいよ、手元にポトッてご登場をされると反射的に本ごとバチンと潰しちゃいかねないし。すんでのところでかわしたきみと「脅かしっこは無し」って約束したの、もう去年か、早いなあ。

 ずいぶん静かにしているね、暑すぎてのぼせちゃったのかい? それともなにか珍しいものでも見つけたかい? まあ久しぶりだもんな、ぼくが昼日中から机にかじりついているのは。しばらく前からまたぞろ読書欲が巡ってきてさ、溜まりに溜まった汗牛充棟にぶち当たっているんだよ。

 あれ、もしかしてきみ、去年のあいつとは違う? どうも一回りほど小さいみたい、まさかあいつの子じゃないだろうね。そもそもきみたちに親子って概念というか血縁関係は成り立つんだっけ。まあとにかく今から着替えるから、そこにいたら裾でも当たってしまうかもよ。

 どこへ行くって? 散歩だよ散歩。一日中こんな座りっぱなしだと頭がぼんやりしてきて仕方がないんだ。重いというか熱っぽいというか、詰まっているというかわだかまっているというか、なんというか、きみに大脳から視床下部へいそいそ巣を張られているような、とにかく思考がかげってくるんだ。これをはらうには散歩漫歩遊歩なんでも歩くのが一番なんだよ。

 しっかし今日も暑かったなあ。午前中から窓の外はゆらゆら地獄の釜かってくらいだってさ、昼時ぼんやり東の空にスカイツリーがさかしまに浮かんでいたもんな。きみは温度って感じるの? 湿度は感じていそうだけど、どっちみち今はエアコン28℃の六畳間こそが天国だろうね。

 じゃ失敬して着替えるよ。──アア脚が固い、ふくらはぎなんて石みたいだ。やっぱり長いこと同じ姿勢で座っているってつらいな。昔はなんてことなかったのに丗八38にもなりゃもうダメ、ふくらはぎって第二の心臓らしいし、やっぱり一日のうちどこかで適度に刺激を与えてやらないと、知らないうちにポックリ机上きじょう死なんてことも十分ありえそうだ。

 いや、それならそれで諦めはつくよ。でもいかんせんからが心残りなんだよな。気安くうちに出入りする人間なんて皆無だし、歯や骨まで跡形なく溶かせる化学薬品の調合なんぞ文系脳にはドリアン・グレイの夢のまた夢、結句ただ腐敗するに任せるしかない。最期まで恥と手間をかける親不孝ここにありだなんて醜悪すぎてたまらないよ──

 なんだって? 濡れ衣? ああそうか、きみには巣を張る習性はないんだっけ。確かに室内で引っかかったことないもんな、ごめんごめん。でも糸一本くらい垂らしてくれたっていいんだぜ、ちょうどその上で蓮の葉の間から高みの見物きめこんでいるらしいヤツをぶん殴ってやりたい気分だし。

 ところで昨日も思ったんだけど、きみってなかなかきもが据わっているよな。器官として胆があるのか知らないけどさ、実際こんな目と鼻の先にゴソゴソしている人間がいて微動だにしないなんて、きみたちの行動学エソロジー的には異端だろう。そんなにぼくのことが気に入ったかい?

 それにしては、なんだか不満げだね。ふむ、あんまり食餌しょくじが見つからない? ごめんよ、狭いだけが取り柄の牢獄ワンルームだから余計に掃除がしたくなってさ、水回りなんて週に一度は中性洗剤をぶっかけないと気が済まなくて──

 え、「きれいは汚い、汚いはきれいFair is foul, and foul is fair.」? なんと博識だね、どうしてそれを? なになに、この前あまりに空腹でかじってみた古本に書いてあった? ああ、あの本は食い散らかしても構わないぜ、もう暗記するほど読んだから。でもそれは撞着法オキシモロンってパラドクスつまり言葉遊びの一種だし、小腹の足しにもならなかっただろ? な、そんなものしかうちにはないんだ。

 あはは、両手をスリスリするなよ、ないものはないんだって。隣に行ってみたらどう? 近ごろ共用階段をズルズル這い上がってきてはうちの玄関ドアにズルズル体をこすりつけやがる隣人、あいつの居室だ。自分の足音物音にも気を配れないほど躾のなっていない人間だから室内も推してはかるべし、生麦生米生卵が散乱しているに違いないぜ。

 ね、そのスリスリしているのは手なの? いや、節足動物ってのはどこからどこまでが手なんだろう、分類名からすれば8本どれも足なのかな。どっちにしてもその仕草、かわいげがあっていいね。きみが昔から「見つけても殺さないように」って言われるのは人間にとって功利的な一面があるからってだけじゃない気がするよ。

 さあ、17時のチャイムからだいぶ経っちまった。最近のぼくは、あれが聞こえたら雨でも晴れでも散歩に出るパブロフズドギーなんだ。そこのスーパーが値下げシールを貼りだすころに合わせて帰って来られるからね。換気に窓を開けておくけど、隣へはベランダをつたって行くかい?

 そうだ、きみのお仲間に「百」と「足」の名を冠する怪物がいるだろう、ドイチュラントみたいな🇩🇪の。昨日エントランス脇の茂みにそれらしき影を見かけちゃったんだけど、いいかい、絶対うちには寄るなって伝えてくれよ。たぶん隣に用があるんだろうけど、くれぐれもぼくの部屋を経由しないで直行してくれってさ。どうしてもダメなんだよ、やっこさんだけは。出くわしたらそれこそどこかプツリと逝ってしまいそうで──

 え、伝えておくからお礼に、その苔生こけむしていそうな尻を見せてくれ? やめた方がいいよ、読み物に書き物に座りすぎてきたせいで臀部が左右とも床擦れみたくただれて黒ずんじまっているから、その翡翠ひすいみたいなこぢんまりした複眼には毒に違いない。──なに、汗でじめじめしているだろうからかぶりついたら美味そう? バカ!

 まあ、そうだよな、曲がりなりにもきみはぼくの同居人なんだよな。それも隣から排水管等をつたって侵出してくる者どもを退治してくれているんだから、お返しする義理があるよな。こうして誰かに親愛の情から言葉をかけるなんてこのごろ滅多にないし、きみがいるからこそ人間的情緒まで保っていられているわけだし。

 あ、また両足スリスリしてさ、現金なやつめ。ん、これは手だ? どうして言い切れるのさ。誰かに向かって足をすり合わせるなんて躾がなっていないから? ウーンそれでこそぼくの同居人だ。きみは汚らしい残飯ごときにたかるべきじゃないな、まったくいやつめ!

 とは言っても前段のとおり、なにもあげられるものはないんだよな。尻を噛まれるのもごめんだし──そうだ名案、こうしよう。ぼくに万一のことがあったら、あとは万事きみに任せることにする。約束するよ。

 いや、実家に知らせてくれってわけじゃないぜ。そりゃきみの健脚ならぴょんぴょん箱根も関ヶ原も逢坂山あふさかやまもやすやす越えて行けるだろうけど、さすがにあの辺鄙へんぴな山国へ辿りつくころには、ぼくはおぞましき醜態を晒しているに違いない。ぶくぶくじくじく、それだけは避けたいんだ。

 だからさ、もしぼくがここで一人、この部屋で事切れることがあったら、ただちにこの体を食べてくれ。皮も肉も爪も毛も、臓物も血潮も粘液体液も、ひとつ残さず貪ってくれていい。約束だ。どうせなら歯も骨もお願いしたいけど、いくら健啖家けんたんかのきみでもさすがにそれは難しいだろうね。まあその他を綺麗にしてくれるならいいさ。

 悪くないだろう? きみは満腹だし、ぼくはバチェラー独身/学士中年の腐乱死体なんて見苦しい終幕を迎えない、アアそれを思うだけで今から昇天しちまいそうだけど、老親にも迷惑をかけないんだし、三方よしってやつだ。

 やあ、スリスリをやめたね。気に入らないかい? ファストフードも添加物もなるべく避けてきたし、不味くはないと思うよ。アルコールとニコチンは血中に肺胞に大いに染み込んでいるだろうけど、気にすることないさ。

 だってきみは今よりずっと大きくなれるんだぜ。きみの手をスリスリってきみの主食ハエとそっくりだ。その理論でいけば、きみがぼくの全身を平らげるころには、ぼくぐらい大きくなれているはずだね。

 そうなったら、ぼくの意思もまたきみに宿ることになるんだろうな。ふふふ、ぼくの意思か。いろいろあるけど真っ先に思い浮かぶのは、まずもって躾なき人間どもへの殺意だろうなあ。

 いいとも、かっ喰らってくれ。欲望の赴くままに、夜な夜な寝穢いぎたない喉笛をかみちぎって回るがいい。生きるため他者を食らうのはお互いさま、遠慮はいらないよ。

 そうしてきみは現代の土蜘蛛になるんだ。ここから北西にちょっと行ったところの丘陵、その奥深い中腹に神社があるのは知っているね? 何百何千と出向いてきても人っ子ひとり見たためしがない、社務所さえうら寂れて、もう神々にも見放されたのか荒れ放題で朽ちかけているところだ。そこを根城として、生ける神話になるんだよ。な、悪い話じゃないだろう──?

 アッぴょんぴょん天井に、壁に、窓に、外へ出たいのかい? ちょいと待ってな、網戸を開けるから。蚊が難儀だしすぐに閉めるぜ。

 怖がらせちゃったかな。まだ早かったか、こういう話は。まあまた気が向いたらおいでよ。ぼくはいつでもここにいるし、少しは三角コーナーを汚したままにしておくからさ。でも「三角コーナー」ってバカみたいだよな、三角にはもうコーナーがあるのに、「頭痛が痛い」みたいだ。まあいいや、きみ、名前はあるの? 会いたいときにはなんて呼びかければいい?

 あ、もう18時じゃないか。これは散歩していたら値下げシールに間に合わないな。冬だったら先に買物を済ませてそのまま歩き出してもいいんだけど、今の季節はなんでも足が早いからなあ……

 ごらん、夕焼けがきれいだねえ。天頂は濃い金色、西はそれにやや赤みを足していよいよ燃え盛ってさ、青ざめつつある東の侵蝕を必死に押しとどめてさ。こういうのを「残喘ざんぜん」っていうんだ。終末の光景がこんな色合いなら、どうしてどうして死ぬのも悪くないよな。やっぱり「きれいはきれい、汚いは汚い」、そこには歴然とした差があるってものだ。命あるもの散り際が花、ね、きみもそう思うだろう──?

 あれ、いない。早速ブンブンいう音でも聞きつけたのかな、それとも腐卵臭でも嗅ぎつけたか。でもあいつ、鼻ってあるのかな。まあ花より団子のお年ごろってわけか、まだまだ修行が足りないねえ。

 そういえば隣って今だれか住んでいたっけ。はて、去年の春まで陰鬱そうな学生が4年間いたけど、それが出て行ってからこのかた、エントランスの集合ポストも玄関の郵便受けも養生テープで塞がれたきりのはずだし。

 かの学生、何度かすれ違ったけど、挨拶しても「ア……ッ」とか声にならない声しか返してこなくてさ。いつも白すぎるほど真っ白な顔をして、腕も脚も棒きれみたいで、小学生みたいだったな。めったに生活音もしなかったし、一体どんな暮らしをしていたんだろう。今もどこかで元気に暮らしているのかな。

 ま、なんでもいいや、散歩だ散歩。一晩くらい何も食わなくたって死にやしないし値下げシールは諦めた、それよりあのまぶしい夕日の方へ────


 


ところで母さん、アルジェリア駐在長官の鼻の下に
できものがあるって知ってた?

ニコライ・ゴーゴリ 『狂人日記』


《夕暮れのサン・ジョルジョ・マッジョーレ》
クロード・モネ (1908)









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