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イヌと語れば

 犬語が理解できるのなら英語も仏語も独語も古希語も簡体字も忘れてしまって構わない。七面倒なヒトなどもうたくさん、イヌとこそ触れ合っていたいものである。

「雷だあ!」
「ウ●コ中だよ」
かくまってくれよう!」
「しょうがねえな──」
「オエッこれは無理だ、さいなら──」

 実家の柴犬ケンとは意思疎通ができていた。亡き後は種々雑多なイヌの本を読み漁った。代償か埋め合わせか、ますますイヌが好きになった。

 しかし言葉は道具、使わねば錆びるものだ。語学は「習うより慣れろ」が肝心である。そう思い立って書物渉猟をやめ、住宅街を諸兄諸姉が闊歩し始める夕方16時半ごろ暇さえあれば散歩に出るようになった。

「やあ、元気か」
「おう、そっちはどうだい」
「ぼちぼちだな」
「同じくだ」

 当初は吠えつけられたり素通りされたりだったが、三年あまりもそれが続けば目にて云ひ合える仲にもなる。尻尾ふりふり立ち止まっては会釈のような首振りを寄越してくれたり、両耳そば立てにっこりされたり、────

「なんだ、しけたツラしてんな」
「腹減ってるんだよ。そっちはたらふく食えてるみたいでいいよな」
「腹は膨れてもペットフードは考えもんだぜ」
「そんな不味いのか」
「不味かァねえんだけど、どうも臭うんだよな。こうしてゲボ吐かねえとこなれねえし……」

 おもしろいことに最近は初見のイヌでもあまり警戒されない。ヒトの目は胡散臭そうなのに、イヌの目ははなから親しみ深いのだ。どこからどう伝わっているのか、電柱におしっこを引っ掛けた覚えはないのに、かくも犬語とは不思議なものよ。

「ごきげんよう。あなたが噂の御方かしら」
「恐縮です、はじめまして」
「わたくし、こないだ越してきたばかりなんです」
「確かに綺麗な御御足プードル、この辺じゃ見かけたことありませんね」
「おかげさまで登校途中の子供たちが毎朝うちを覗いてきて、やかましくって仕方ありませんの」

 中には目が遭うたび駆けてこようとするやつもいる。何年経っても飼い主に「触っていいか」と頼める度胸も甲斐性もないのに業を煮やしてか、あっちから寄ってくるのである。

「ねえ! おやつをちょうだい! お腹が空いてたまらないの!」
「あいにく何も持って──」
「こぉら! ぴーちゃん!」

 ぴーちゃんは最近よく会う柴犬だ。ほっそり痩せ型で毛艶よく、鋭い顔立ちにも好奇心旺盛な挙動にも幼気いたいけがあって、とにかく元気だ。

 もしも何かひとつ超常的な能力が得られるのなら、リードを自在に切っては繋げられる念力がほしい。飼い主が追いついてくるまでの間だけでも戯れていられるなんて、これに勝る僥倖はない。

 神様とやらよ、長らく女子学生には手を出さずLCCでわめきもせず真面目に渡世しているんだ、そんな質素な願い一ツくらい叶えてくれたっていいだろう。なに、神はとっくに死んでいるだ? アア悪魔よ今こそ来たれ、腎臓ひとつくらいなられてやるから。そうだ、おまえさんは黒むく犬にも化けられるんだし、どうせなら一緒に暮らさないか──

 とかなんとかあだなる夢想に遊んでいた先日、人生で初めてブルドッグと知り合えた。念力ではなく飼い主の不注意のおかげではあるが。

 散歩途中しばしば立ち寄る公園がある。その日いつものように立ち入ろうとしたら、水飲み場で短パン中年が手を洗うそばにずんぐりむっくりが崩れたオスワリをしていた。それが横目でこちらの進入を認めるや素早く立ち上がり向かってきたのだ。

「──あッ待て! ハウル! 待て!」

 片足で踏んづけていたらしい綱の取っ手がずるずる砂地を引きずられる。気づいた飼い主あわてて呼びかけるも時すでに遅し、勇名にもとらぬ動く城がごとき重たげな足取りが前進してくる。

 何度か見かけてきたやつだ、としゃがんで目の高さを揃えて構える。なんと大きな体躯だろう、パグなんて比じゃない。それにあの体つき、まるで筋肉の塊が突進してくるみたいだ。やや気圧けおされていると目前で減速、差し出した両手の甲にフゴフゴ湿った鼻がぴちょんとぶつかる。

「おまえ、いつも一人だな。供はいないのか」
「へい、ワンルームの一人暮らしで」
「それにしては分別ありという話だぞ」
「へい、昔イヌと暮らしていたことがありやして」
「どうりでおれの勘所も当てられるわけか」
「へい、ここがっているでしょう」
「ふん、悪くない──」

 あごをたぷたぷしたら首を垂れたので、ごつい首輪の下を掻いてやる。それから背中へ、特に二足歩行を見上げる四足歩行の大概が強張っている肩あたりを、両の親指で入念に揉んでやる。ついでに胸まわりにも触れてみるが、やはり隆々たくましい。

「すみません、やんちゃな子で」
「大丈夫です」
「こいつ、暑くなってくると足が臭ってしょうがないんだ」
「この時期から素足にサンダルですし、本人も気にしているんでしょうね」
「それなら家に着いたらまずおれより自分の足を洗ってくれないものかな。ほら臭ってきた……ブシュ!」

 恐縮しきりの飼い主へ返事しつつ、上向いた鼻っ面をちょんちょん掻いたら一発盛大なくしゃみ、ブルルッと震えたぶくぶくしい顔つきには妙に厭世家めいた色がある。

「長老によろしく言っておいてくれ」
「へい、ちょうどこれから向かうところで」
「こいつ最近あすこまで登りもしないんだ、暑いからと──」
「ほらハウル、行くぞ」

 充血した目が振り返り、のしのし去ってゆく。短く太い前足をそれぞれ外側から回し込むように出して、大きなおしりをぶりぶり振りながら──

 山手を登り獣道に入ってしばらく行くと、雑木林の中につましい広場がある。一辺が十数歩程度の手狭な土地に木製ベンチとぼろっちい柵があるきりだが、関東西部へ開けた視界は富士の山まで見晴らせる穴場である。

 そこに今時分なら17時を過ぎたころ行くと秋田犬が安らいでいる。晴れの夕方には決まって、飼い主の老婦人をベンチに休ませ、その足もとに伏せて、柵越しに落日をじっと浴びているのである。

「────あら」
「こんにちは」
「……」

 おばあさんの品ある会釈に応えて挨拶しても横目さえ寄越してこず、柵のむこうの西の空をブスッと眺めている。ひげに白の目立つ、かなりの老犬である。

「ゴンちゃん、久しぶりのお兄ちゃんよ」
「…………」
「ごめんなさいね、相変わらずブアイソで」
「いえいえ、元気そうでよかったです」

 大きな体を揺すられても微動だにせず、ただこちら側の耳をちょいとはたくだけだ。そばにしゃがみ込んでみても変わらない。ブアイソなようで、柴犬の生き様を見届けた目には別段なんてことはない。

「最近お見かけしなかったので、心配してたんです」
「お天気が悪いと外に出たがらないんですよ、玄関にへばっちゃって」 

 おばあさんは、日々の散歩で知り合ったうち唯一お話できるヒトだ。初めてその広場を見つけたとき、太々ふてぶてしくも泰然たるゴンの居住まいに心を打たれ、なけなしの勇気を振り絞って話しかけたのである。

「どこか具合でも悪いのですか」
「…………」

 堅めでごわごわしい首もとを撫でてみても、ウンともスンとも言わない。またひとつ老けたようで、垂れ目の奥にはしっかり光が灯っている。

「さっきハウルに会ったんですが、よろしくと言っていました」
「……」

 色褪せた手作りらしい首輪に沿って揉みほぐしていたら、再びぴくりと左耳が揺れた。

「最近ここまで上がって来られないんですって、足の臭い飼い主のせいで」
「────」

 にんまりと口角が下がる。

「まあ、いい顔しちゃって」

 途端にツンとする。

「あらやだ、聞こえたみたい。誰に似たのかしらねえ、この頑固者は」
「あはは」

 おばあさんは皺立った手を伸ばして、茜色に染まる頭にそっと置いた。薬指の古びた銀色が、ちりっと輝いた。

「…………」

 昼間の暑熱が嘘のような涼しい風がひとつ吹いた。今まさに富士のむこうへ落ちてゆく夕陽が、眠たげでも凝然たるふたつのまなこにくっきり映り込んでいる。まるでそれと何かを語り合っているかのように、暮れなずむ空の下で、ゴンはじっとしていた。




 犬もまたこの地球上に生きる一つのいのちである。しかも何千年来の人間の親しい友である。その親しいいのちへの想像力と共感を失うとき、人は人としてダメになってしまうにちがいない。

『ハラスのいた日々』 中野孝次
『フランダースの犬』原作口絵
グスタフ・テングレン (1924)






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