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残夏


 黄昏に音割れした『新世界より』が響く。17時だ。何処から鳴っているのだろう、と見上げた目が西日をかすめて思わずくしゃみが一ツ出る。

 もう夕方は半袖だと肌寒い。あれほどかしましかったヒグラシも鳴りを潜めた。そろそろ夕涼みもおしまい、明日から散歩は午前中に戻そうかとてくてく行きつつ考える。

 けだし「夕涼み」は夏の季語である。暑かった一日の終わりに涼風を迎える慣わしのことだ。蚊取り線香と風鈴のある縁側や軒先が思い浮かぶ一方、「夕涼みに出る」で散歩を表すこともある。

 似たことばに「夕立ち」がある。夏日の暮れ時にザッと降る雷雨のことで、潤った大地の体臭というかおくびげっぷというか言い難い薫香が立ち込めては爽やかしい気分になる。

 日照りの渇きが水を得る、という意味で近しいところには「打ち水」がある。菜を洗った水を桶に溜めておいて柄杓ひしゃくで撒くという仕種が涼しげなので、水道水をホースで直にぶちまけるのはちょっと違う。

 後二者も夏の季語、でも今年は書物の中にしか見なかった。


 暑さしのぎに視覚・聴覚・嗅覚をも動員するなんていきな文化もあったものだ。そこにあるのは「暑いものは暑い」という居直りひとつ、粋を「あきらめ」から始まると見た九鬼周造は正しかったらしい。

 ところで「西日」も夏の季語である。釣瓶落としの秋、昼過ぎから減衰する冬、宵の前座たる春の夕日には使わない。

春宵一刻直千金春の夜の入り 値千金
花有清香月有陰花かぐわしく 月はおぼろげ

蘇軾 「春夜」

 じりじり沈まず暑苦しい、それでいてどこか物悲しい、あの夏ならではの夕日を際立たせることばである。

 最近あるきっかけで読んだ現代小説の一節に、この「西日」が出てきた。いわく満開の桜の向こうに沈んでいったという。

 「西+日」と視覚要素だけに還元して季節感なく使い回すのは、西洋化のほぼ完了している現代日本らしい感覚の現れなのだろう。"sunset日+落着"と同じ、確かに情緒もへったくれもない。

 いかにも無粋ぶすい、と九鬼周造なら断言しそうだ。でもさ、今ココに生きているのは「西日」なんだよな。生きよ堕ちよ、なんだよな──


 しばし路上にアキアカネと並んで留まり、夕焼け空に眺め入る。雲間からけざやかな金色こんじきの帯が幾条も伸びていた。

 気象学で「薄明光線」、西洋で「天使の梯子(階段)」、俗に「レンブラント光線」と呼ばれる、没する間際の日の織りなす光のあやである。先月からたびたび出くわしているし、晩夏が適しているらしい。

 しかし呼称がしっくりこない。科学用語なんて面白味のかけらもないし、唯一神の下僕ごときに用はないし、レンブラントもそんなに好みじゃない。

もしも楽器がなかったら
[…]
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいい

宮沢賢治 『春と修羅・第二』

 やっぱり賢治が一等賞、と得心するうち光線は破けた黄身のような広がりに溶けた。ものの5分足らず、明日も見られるだろうか。

 アキアカネがピッピッと鋭角に去っていった。


 路傍にこぢんまりとした畑がある。おばあさんが手入れをされていて、今年もキュウリやナスやトマトなど色とりどりにっていた。黄色の錆びた小型トラクターが奥の隅にぽつんと捨て置かれている。

 ハッと息を呑んだ。

 道ぞいに立派なひまわりがあった。野菜かたがた丹精に世話をされていて、この背丈さえゆうに超えては燦々と、ついこないだまで鮮やかに咲いていたのに、枯れているのである。

 全身が焦げたように真っ黒に干涸ひからびて二回りは萎れつつ、やつれて黒ずみしぼんだ頭を夕日の方へうつむかせて、なお地にしっかと直立している。まるで武蔵坊弁慶の散り際、見事だ。

「………」

 山際がどぷんと西日を呑み込んだ。うそ寒い風がひょうと吹いて、燃えかすのようにちぢれた葉がひとつ落ちた。

 あーあ、と腹の底からため息が出た────




残夏ざんげ

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