短編小説 悲嘆惨憺ダップン譚
【閲覧注意】
十月の第一週、勤め先の各大学で後期が始まった。一所で1限から3限まで初回授業を終えたある曜日、午後3時過ぎに電車に乗り込み、朝の窮屈がうそのような空席だらけの隅に腰を落としたら、朝にコーヒー昼に水と飴ふたつ以外なにも入れていない腹がグルルと鳴った。
「おなかと背中がくっつくぞ」
例の童謡かと妙にリズミカルな不平の声に「もうちょい待て」と念じるも、冷蔵庫には納豆と豆腐くらいしかなかったような、と思うやそれが通じてしまったかまたぞろ盛大に、車内は閑散だが数少ない衆目が気になる。
「まあ明日も朝イチだから今夜はその準備にかかりきりだし、心まですり減っちまう前に滋養をつけるとしよう」
そうと決めたらグルルルルの獣は静まった。
最寄りで降りて、駅ビル2Fの寿司屋に直行する。百円皿の回転だ。久々の外食だが財布にはヒデヨ二枚ばかり、それでたらふく食えるのはここしかない、とおやつ時のカウンター席をひとり占めである。
マグロ、サーモン、ホッキ貝
エンガワ、マダイ、イクラ、エビ
よりどりみどり皿ごと丸呑みしそうな勢いで手当たり次第に食い喰らい、あおさ味噌汁をシメに流し込んだら、腹の底からうつらうつらと眠気が込み上がってくる。座っているとそのまま身を委ねてしまいそうで、さっさとお会計に立つ。
「ありがとうございましたあ」
さっき2限にいた女子学生みたいなアルバイトに見送られて退店するや、へその下がギュルルとうごめいた。これはトイレを借りるべし、と踵を返しかけて、
「──ましたあ!」
自動ドア越しマスク越しに、学生バイトに再度お辞儀される。胸もとの「研修中」のせいか見送らねばならないきまりらしく、気の毒で、会釈を返して早々に去った。
素直に戻って「すみませんお手洗いを云々」と頼めばよかったのだ。平成末期に学校生活を送った価値観にとって大便は恥にあらずと何かで読んだこともある。が、平成初期に幼少期を過ごした身にそれは清水の舞台から飛び降りるくらいの一大事という印象がいまだ拭えないんだから是非もない。ジェネレイションギャップというやつだ。
階段を下りていると目方5kgがまざまざ下腹部にある。一歩のたびに一緒に下がってくる。ビルから秋晴れの空の下に出たら、もはや自宅だとまず間違いなく便座にあるだろう頃合い、いわゆるピイクを迎えていた。
拙宅まで5分、出口を刺激せぬよう臀部を双方から締め上げつつ、膝を曲げずに氷上を滑るように歩き出す。腸が弱く下しがちだった10才ごろ取った杵柄、それ以外では足裏の振動がそこにダイレクトで伝わってしまうのでよくないと早くも体得していたのだ。
過敏性腸症候群という名称は平成初期にはなかった。ただの虚弱と見なされて登下校がつらかった。冷え寝不足また精神的な動揺まで腹に来て、少年期にはしばしば野グソをしてもいた。山国の片田舎ならではの芸当である。
上京したてのころ、その名称を大学周辺で初めて耳にし「それワシやワシや」と思うもすでに治っていた。風邪を引いても腹ではなく鼻のどが痛んで、どれほど疲れても緊張しても不摂生をしても便通に支障はない。いつのまにやら、人体とは不思議なものだ。
「へいSiri、どうして急にこんなウンチがしたくなってるの」
ポンッ
「タベスギ デス」
もう第何波かわからない波状の蠕動、気を紛らわせていないと凌いでいられない。なにもかも衰える一方の昨今かつて開かずの門かと鍛えられていた括約筋も頼りない、これは決壊いとど近し、など声なくつぶやきながら気分だけ生き馬の目を抜くつもりでするりするりと帰路を行く。
「へい へい へい ときには起こせよムーヴメン」
青春歌が頭をよぎる。これは気散じではない、と朝一からの語学をまだ引きずっている脳のどこかに教えられる。
「大便は"bowel movement"ともいうがこれは婉曲語法の一種でブラブラブラ」
やっとこさ帰路が半分を越えた、あと3分もすれば天国である。どうしてこんなときほど1秒が10分に10秒が1時間に感じられてならないのだろう。これもレラティヴィティの解説に、──まあ使えまい。
「3てん141592653589793238462……」
気のゆるみを感じてアナごと引き締め直し、目下の思考から一番遠くに格納されていそうな記憶を掘り起こしてはブツブツ暗唱しだしたら、あちらからカートを押しつつやってくるおばあさんにウッフと会釈された。
「申し訳ありません、おばあさん、こちら天下の一大事につき人目を気にする余裕がなくて、お気になさらず、いえいえ変な人ではないですよ、いや三十路半ばを過ぎても非正規でワンルーム独身独居なんて十分変な人だと思いますですけれどもね、ああそんなお笑いになって、うちに着いたら旦那さんに『いま小走りの人とすれ違ったのよ、どう見てもウンチを我慢してた大学非常勤講師だったわねえ』とかお話なさるおつもりでしょう、ええ構いませんのでティッシュをくれますか、たのむ野グソをさせてくれ──」
まだどこかにひそんでいる語学の名残が引き継ぐ。
「トロットは馬術用語で跑足だが人を主語にすれば『トイレに駆け込む』という意味であるところで馬は一日20kgも排便するが馬車が身近だった欧州各地では往来がその糞便まみれになってならぬと女性のヒールが発明されてブラブラブラブラ」
ぷすり
歩を進めるたび斥候が顔を覗かせる。
ぷす、ぷす
いちいちチャイコフスキーの大序曲が号砲なみに轟いている気がしてならぬ。後方を気づかう余裕はない。
「わん、わん」
嗅ぎつけたか挨拶かイヌに吠えられ冷や汗トロットロで角を曲がるとやっと自宅が見えてくる、3階建ての3階、朝干したままの洗濯物──
ほっと一息つきかけてヒュッと口をつぐむ。築30年のオンボロマンションにエレヴェイタなんて利器はない。最後の試練とケツ意を固め早々ベルトに指をかけ、気を取り直しアナ締め直し、エントランスへと飛び込んだ。
思考はとめどなく気散じを試みていた。昔ハイデガーを読んでいて「ダス・マン」という術語に出会い、あれこれ調べてからググってみるも中黒を忘れトップヒットが『うんこダスマン』、絵本である。あれは笑った、なつかしいなあ──
「フンッ……」
走馬灯かと自虐がてら鼻から息が漏れた。それで脱力してしまったか、どこかにあきらめがあったのか、せっかくそこまで耐えてきたのになにを血迷ったのか、常と変わりなく一段飛ばしの足並みで、大股びらきで、階段にさしかかってしまったのである。
バフ!
破裂音がこだました。すわ、許可なき巨塊がもりもり、もりもりあふれる。一段飛ばしの二足めは出せず直立不動、ぬるり溜まりゆく異物感……
経験者には伝わろう、こうなったらもうお手上げである。指を突っ込んで栓をするような臨機応変的対症療法的発想ひとつ出てきやしない。各階に人気ないことを有難がりつつただフン切りを待つのみ、まさに手遅れだ。
「…………」
心地は悪くない。
「フロイトのいう肛門愛とは幼児退行のことでありブラブラブラブラ」
汗ばむ体がひえびえ寒いが、一点だけ、ほんわかぬるい──
やがて快感は去り、現が残った。打ちっぱなしの階段の窓から差し込む西日がまぶしい。まっ白な頭の中で自問の声が渦を巻いている。
「なぜだ、かつて鋼を誇った括約筋なのに」
「なぜだ、少年期でさえ漏らしはしなかったのに」
「なぜだ、なぜだ」
ポンッ
「ロウカ デス」
ゆっくりと、一段ごとに階を行く。まるで初めて地に二本足で立った遠い遠いご先祖のように、しっかり踏みしめる。尻から腿にかけて漱石『夢十夜』か重たすぎる荷を抱えて、ゆるくないのがもっけの幸い、でもなるべく被害が拡がらないよう背筋をぴんと張って、静かに昇る。
3階で、玄関にさしむかう。見慣れたわが家の入口なれど安心安堵ひとつない。だいだい色に染まる覗き穴から朗々たる声を聞いた気がした。
「ここなる門をくぐる者、すべて希望は捨てるべし!」
ただいま、上着を放り、靴を脱ぎ、ベルトを外し、右手のトイレに入り、ズボンと下着に手をかけ一緒にずり下げつつ尻を落とす。
「…………」
見よ、股ぐらに現れしパンツの裏地、ウン、こんもりと、まがまがしき塊を。
「カレーパン焼き上がりましたあ」
握り拳ほどの、ふっくら楕円でほかほか湯気立つ、茶の一塊を。
中央にチョコンと黄の点景あり。コーンひと粒、ゆうべ作ったシチューの具だ。
「これぞ奈落の眺めなり!」
「おどろしきものこれにあり!」
洋式に座位の姿勢で、略式のお茶会かと背筋を伸ばしたまま、立ち昇りくるぬくもりに顔面を撫ぜさせていた。視覚に嗅覚がついてこないのか、はたまたむごすぎる光景に麻痺してしまったのか、匂いは一向しなかった。なんだか無性にわびしくて、むなしくて、しょうがなかった。
「……」
中腰になり、塊をパンツ越しに裏から押し上げて、尻の下にりんと張りつめている溜まりへ、股間の間から手前へ落とし込んだ。
ダプンッ────
温かな、二度と日の目に遭わぬものが、冷たい中へ沈んでいった。
「……」
ユニットバスのシャワーを引いてきて便器の上で尻を洗う。済んだらバスタブ内で汚れ物をば粛々と洗う。もったいなくも湯を流し、石鹸で揉み濯いで絞るを繰り返すうち、泡のせいだか湯気のせいだか、なんのせいだか目がしみた。赤いTシャツ一枚で、おしりまるだしで、ときどき手首で目をこすって、さながらくまのプーさんだ。
「これプーさんの原作の挿絵なんだけど、裸だろ。赤いのなんて着てない、あれはディズニーの後付けだからね。こっちは彩色版、全身は茶ばんだ黄色をしているんだ。英語"pooh"が幼児語で「ウンチ」を意味することも考え合わせると、ぼくらはウンチをかわいがっているってわけだね。もともと童話だけど、子供がウンチシッコに嬉々とするって東西共通らしいねえ……」
お元気ですかT先生、長らくご無沙汰しています。その後お加減いかかでしょう、認知症の方は────
完
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