初夏の夜、ネバーランドに降り立った。
私にとって、語れるほど好きなものはそんなに多くないけれど、でもそれなりに「好きだな」「ちょっと語りたいな」と感じるものはある。
お芝居とピーターパンだ。その好きなもののハイブリッドバージョンを本場イギリスはロンドンで観ることができた。
実は、書物関連やミュージカルは一通り目を通している。
ただ今回は物語を違った視点で観ることとになった。それは、全く予想していなかった視点だった。
ーー母親の視点だ。
物語では全員が母親を欲している。そして最後は皆大人になる。
もちろん一人を除いて。
私はこの作品の主題について、大学時代から下記のように考えている。
子供は、母親を認識することで初めて子供になれるし、だから大人にもなれる。広義でいうと、いったい何が人間(大人)を作るのか、という根源的なテーマを「ピーターパン」は秘めた作品なんじゃないか。
他者との関わりあいの認識において、私たちは初めて自分自身を知ることができ、そこから成長が始まる。そしてその最初の他者こそが母なのだと、私は思う。
今回、「私がお母さんになってあげるわ!」と声高に宣言するウェンディの気持ちが初めてわかった。自分が母親になっていてももうおかしくない年齢になったからだろうか。昔この作品に触れていた時は、この部分のセリフ、そんなに残らなかったのに。
私がもし母親になったら、しっかりと他者として機能して、子供には自分の元で安心して成長していって欲しいと思う。
子供の持つ信じる力と、最初の他者である親からの肯定は、きっと素晴らしい成長へとつながると思うから。
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そして少し話がずれるのだけれど、私はお芝居をする人たちがやっぱり好きだ。その瞬間、表現に向かって誰よりも精一杯生きているように見えるから。
虚構なのに、観ている人を演技で違う世界に連れて行く。それってすごいことだ。舞台は、ただの板張りの空間はずなのに、そこは船上にもなるし、人魚の入江になるし、子供部屋にもなる。小道具のパジャマは演出で泳ぐ魚になるし。もうなんでもありだ。
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話を戻すと、やはり、今回ピーターパンの物語を改めて観て感じたことは、人間は、決して一人じゃ存在できない。他者がいて初めてあやふやな存在から人間になれるんじゃないかと思う。
役者と観客の関係、ピーターパンと母親の関係、私と私以外のあなたの関係、そういったものが全部ぜんぶリンクして、虚構も現実も本当は同じ世界にないまぜに存在しているように思えた。そうだったらとても愉快だ。
そんな爽やかにも哲学的な気持ちになった、初夏の夜の公園でのお芝居だった。
とても、楽しかった。
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