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村上春樹が、純文学がわからない。

アヤノは激怒した。アヤノには純文学がわからぬ。アヤノは、エンタメ好きの中年である。マンガを読み、楽器と遊んで暮して来た。

ある日、竹馬の友のシンタロティウスから一冊の書を借りた。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』という書だった。とても面白いものだという。アヤノは早速持ち帰って読むことにした。


後日、アヤノはシンタロティウスに語勢を強くして質問した。

「さっぱり、意味がわからない。あの書の何が面白いというのか」

シンタロティウスは答えなかった。アヤノは両手でシンタロティウスのからだをゆすぶって質問を重ねた。

「この前借りた『大黒屋光太夫』は確かにすごく面白かった。だから期待していたのに、なんだ、あの書は!意味がわからぬ!」

アヤノはほっとため息をついた。

「あんなもの、不思議ちゃんの世界観の押し付けと変わらぬ」

シンタロティウスは、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。

「お前のような下賤の者には、わからないか。ハルキチはそういうのじゃないのだよ」

聞いて、アヤノは激怒した。必ず、この邪智暴虐のシンタロティウスを除かねばならぬと決意した。まるで、

「今のお笑いシーンは、ランジャタイの面白さがわかるかどうかでセンスが問われる」

と言われているような、一方的な価値観でマウントを取られている気分になった。

また、どうせ数冊しか読んでいないくせに、「ハルキチ」と呼んで一端の"ハルキスト"を気取るシンタロティウスに、アヤノは口惜しく、地団駄を踏んだ。ものも言いたくなくなった。

思えば、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』以外にも、数冊村上春樹作品を読んだはずだが、記憶にも残らずさっぱり思い出せない。確か、どこかに向かう病気の人の話だったような気がする。

それからしばらくして『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年』を読んだが、これはストーリーを感じることができたし、理解できた。ただ、とても面白かったかと言われればそうでも無かった。

村上春樹は、「純文学」と呼ばれるジャンルの作家であり、「純文学」とはストーリー性にとらわれず、文章を芸術に昇華したものや、人の心の葛藤や本質を描いたものだという。そして、話の筋やリアリティがなくても良いものだという。

調べてもよくわからないし、人によって純文学と大衆文学の基準が分かれる場合があるようだけれど、「芥川賞」にノミネートされていれば大体純文学なのだそうだ。


芥川賞作品でいえば、『コンビニ人間』を読んだけれど、これはとても面白かった。確かにある種類の人の性質を描いた作品だったけど、ストーリー性もあったと思うし、あの作品を難解な芸術作品かと言われれば、むしろシュールでおもしろいエンタメ作品では?と思う。

やはり、私は純文学がわからない。感性の表現というものを、それそのままの形でぶつけられても、きっと私には理解が及ばないのだろう。以前、格好つけてカフカの『変身』を読んだりもしたけれど、さっぱり面白味がわからなかった。

『ライ麦畑でつかまえて』もそうだ。正直、よく分からなかった。アメリカの不良少年の心の葛藤の話ということは理解できたが、文化の違いからか感情移入ができるわけでもなく、この作品の魅力はなんだと聞かれてもよく分からない。

マンガや小説のように、「物語」という形式をとっている以上、私は登場人物の心情や話の筋を理解しようとしてしまう。話の展開にハラハラしたり、人物に感情移入がしたいのだ。そして、結果的に話の決着を求めてしまう。オチと言い換えても良い。

以前、読書家を自称する知人にそんな事を話したところ、

「そういうんじゃないんだよなァ、純文学ってのは。もっと、作家性を感じるっていうかさァ」

「で、何読んだの?村上春樹?何冊読んだの?え、4、5冊?そんなんじゃあダメよ(笑)理解できなくてトーゼン(笑)」

「他には?何読んだの?山田詠美?うーわ(笑)懐かし(笑)今読むんだ(笑)」

読書家は嘲笑した。

「仕方のないやつじゃ。お前には、純文学がわからぬ(笑)」

アヤノは激怒した。

「呆れた男だ。これだから自称読書家という人間は生かしておけぬ」

アヤノは、単純な男であった。買い物を背負ったままで、読書家に向かって京極夏彦の書を振りかぶった。

純文学を楽しんでみたい気持ちはあるのだが、楽しみ方がわからず、いつしか私の心に純文学に対する壁ができてしまった。

以前純文学について調べてみたところ、あるサイトでは「ストーリーやリアリティにとらわれない、作家が醸し出す文脈や文章の美しさ」から、読後の充足感や雰囲気を感じるための小説、といったことが書かれていた。

だとすると、私が純文学を楽しめないのは、感性の問題ということもあるのだろう。運転免許の適性検査で、

「融通の効かないデリケート人間。人付き合いが嫌いで人の気持ちを察することのできないカス感性です。事故を起こすならひとりで死んで下さい。 P.S ほとんどビョーキ」

と評された人間性だからである。作者の気持ちを答える問題には強いと思っていたが、そうではなかったらしい。そういうことなら、純文学が楽しめないのも仕方がない。


それにしても、純文学とはストーリー性がなく、現実性もなくて良い、なんなら話として面白くなくていいし、説明不足があっても良いなんて、とんでもない話だ。そんな物語って、なんだよ。

小説を書いたことなんてないけれど、そこまでなんでも有りなのであれば、IQ42でカス感性の私にもそこそこのものが書けるかもしれない。試しに、私なりの純文学を書いてみたいと思う。これが評価されるのであれば、いつかは芥川賞を目指したい。


--------題名:マカロン-------

ネオ・栃木の実家から、待ちわびた荷物が届いた。

保冷された発泡スチロールのフタを開けると、中には採れたてで新鮮なビート板が2つ。初夏の風物詩。夏の季語である。

早速ビート板を取り出して肌触りを確認する。軽く、滑らかな肌触りの良い感触。

念写で見た収穫時の映像でもわかっていたことだが、今年は近年稀に見る当たり年の様だ。これならば明日行われる息子の競技会も怪我なく終えることが出来るだろう。

タケシはビート板の匂いを嗅いだ。夏の匂いに混じって、少し残る土の香り。実家のビート板農園の風景が頭をよぎる。毒々しい紫の茎から大きく真っ青なビート板の実が成り、それが数万本も並ぶ様は壮観だ。


タケシはジャズのレコードを再生してウイスキーを舐めた。湿った埃のような匂いがした。先程届いたビート板を眺めていると、突然鬱屈とした感情を抱いた。

2つも届いているなら去年の分はもう大丈夫だろうと判断し、その場で去年のビート板に火をつけた。

火のついたビート板からカラフルな煙が立ち登る。部屋中に溶かした金属の様な匂いが立ち込め、煙の中に画像が浮かび上がった。ステージの上から見える、大観衆。

それは、タケシの前世である、鬼束ちひろの記憶だった。

「思わず良いものが見れた」

タケシはそう呟いた。

他の住民に先駆けて既に機械の体を手に入れていたタケシは、肘の関節に油を差したあと、覚悟を決めて自ら自爆のスイッチを押した。

これから自爆をするタケシは、肘に油を差す必要などなかったのだが、これこそタケシにもまだ人間らしさが残っていた証拠であり、日本人がはるか昔に失ったと言われているブシドー精神なのであろう。


爆発の跡地では、メレンゲの花が咲いていた。たぶん、今夜はマカロンだ。

ダニエル・キイス

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悪夢なの?思った以上に書けなかった。これは、文章ではあっても文学ではない。芸術性も無い。何かを表現しているわけでもない。ビート板が何かを比喩したりもしていない。そもそも、文章として成立しているかどうかも怪しい。

けれど、私が『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を読んでいる時のイメージは、この文章を読んでいる時と同じような気持ちだったと思う。

よくわからない世界に放り込まれたけど、後でちゃんと説明はあるのか?……なるほど、そうなるのか。なんでそうなるのかはさっぱりわかんないけど。

そんな印象だった。


勿論、「純文学」が悪いわけではない。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』も、多くの人から愛される作品だ。私がカス感性故にその魅力が分からず、意図が汲み取れず、楽しみ方がイマイチわからないだけ、という話である。勿論ハルキチも悪くない。多くの人から愛され続けている素晴らしい作家だ。

純文学の楽しみ方について調べる事がよくあるけれど、話のスジを追うのではなく、書いてある事を音楽のように楽しむ、という風に読むことが出来れば、魅力がわかるかもしれない。

読んだのが10年近く前なので、いつかまた読み直せばまた別の感想になるかもしれないが、今はまだその時ではない。心が純文学を求めていないからである。まだ私の中に純文学に対する壁があるのだ。


別の機会で、再び前述の読書家と『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の感想について話が及んだ。そのときに私は、

「読んだけどよくわからなかったし、なんだか白昼夢を見せられているような気分になった」

と答えた。すると、

「そうそう!それだよ、それ!村上春樹ってそういう感じあるよなぁ。なんだよ、お前もわかってんじゃん」

と言われた。アヤノは激怒した。

「うるせぇ!お前はもう、なんかずっとうるせぇ!!」

私が純文学に壁を感じるのは、多分こいつらのせいでもあると思った。



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