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祈ったり、弔ったり

 ちょくちょく、人の生き死にについて書き連ねているが、ここ数年の自分は死に対して自他問わずドライになり過ぎている気がする。かと言って自分の頭の中でも死生観について取り留めなくて漫然としている。今書いていることを含めて。

 それなりの年月を生きて、近しい人に対しても、遠くて届かないところにいる人に対しても、どうにも仕方ないことだという諦念で悲しみの感情が希薄になってしまった気がする。
 自分自身色々あって心身共に死にかけたので、自分の死に対しても可能性としていつでも容易にあり得ることを意識したらどうも「死にたくない」という執着も弱くなってしまってた。別に希死念慮、自殺願望があるわけじゃない。やりたいことや背負っているものはあるから、可能な限り生きている。でも死に場所は選べないから、事故だろうが病気だろうが災害だろうが、どれだけ死の危険やリスクを避けても来る時は来てしまうだろうと心のどこかで思ってしまっている。

 Twitter(現X)を眺めれば誰かの訃報が流れてくる。それは当たり前のこと。とっくに日本は出生数よりも死亡数の方が多いのだからなんの不思議もない。
 でもその人に対して物凄く思い入れがあっても、そんなに思い入れがなくても、好きでも嫌いでも愛していても憎んでいても言葉が出なくなる。決して死者のことを思わないわけではないし何かしらを感じている筈なのに、何を言ってもしっくり来ない気がして。仮によく思っていなくても死んだ人間を悪く言うのは品がないことだし、無難に済まそうと「ご冥福をお祈りします」「R.I.P.」なんて定型文を呟くのもおこがましい気がして。
 祈るって何を?

 無宗教だしキリスト教に造詣があるわけではないが、聖書に書かれた知っている言葉が頭を過る。

 見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。

 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。

 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。

 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。

 祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。

 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。

 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。

(新約聖書 マタイによる福音書 第6章 1~8節 ©Executive Committee of the Common Bible Translation 共同訳聖書実行委員会 1987,1988 ©Japan Bible Society 日本聖書協会 1987,1988)

 電脳空間の会堂には偽善者異邦人が多過ぎる、何に対しても。本当は金や自分の承認欲求を満たすことににしか興味がないくせにことあるごとにパフォーマンスで何かを物申す輩、バズを狙う輩。
 それがとりわけ、誰かの訃報とかになると冒涜だと感じてしまう。

 著名な人、偉大な人の訃報に対してGoogleで検索して拾ってきたのか故人の写真とか映像とか作品とかを見せびらかしながらなんか気の利いたような言葉を添える直接の関係者でもなんでもない輩がいる。何の資格や権利があってそんなことをする? 少なくとも無断転載の著作権違反で権利なんか無いし、じゃあ資格も無い筈だろう。作品の布教に貢献していると制作者ヅラして漫画や動画を違法アップロードするような輩の精神性の延長線上にある。本当に思い入れがあったら本当にそんなことできるのかよ。故人を思って祈っているフリをしてラッパを吹き鳴らしている。
 最近じゃ異邦人、マジで日本語がわからないようなインプレゾンビ、インプレ乞食が他のトレンドと一緒に訃報・事件・事故・災害に群がって貪る。何の意味もない、関係もないAI生成されたカワイイ動物やオモシロ動画と一緒に理解していない文章をコピペで同じようにくどくどと宣いながら。
 マタイが書き記したまんまじゃないか。なんならもっと酷い。

 祈り、祈るとはなんだろう。
 名作『MOTHER2 ギーグの逆襲』。ネタバレになるが(かと言って今更言ったところで問題ないと思うが)ラスボスを倒す唯一の手段が心から祈ることだ。
 続編『MOTHER3』が最近Switchで配信された。

 物語の序盤で主人公の口から『2』でプレイヤーの誰もが信じて行った祈るという行為に対して懐疑的な問いかけ、アンチテーゼの台詞を言わせる。全編通して『2』とは対照的な暗い、打ちひしがれるような物語と演出が進む。そしてラスボスとの戦いを終わらせる唯一の手段、それは間接的に言えば他者の祈りに答えることでジンテーゼに昇華している。そんな気がする。


 世話になった人の通夜に出た。持病もあって長くはないと聞かされていたし、世話にはなったけど、晩年はこっちがフォローしなきゃならないことも多くてトラブルも被っていた。死に顔を見ても本当に亡くなった実感がない。感じるものが湧いて来ない。ただでさえ普段から言葉数が少ないのに遺族や久しぶりに会った人達にかける言葉がない。でも涙を流す人を見て感じるものはある。
 生きている限り、今を生きている人の為に何かしなきゃならない、誰か、特に目立たないところでひっそりの祈る人の祈りに答えるべきなんだろうなあ。

 正しい弔いの仕方もしなきゃならないこともわからないので、なんとなく今は自分の中での弔い的な曲をウォークマンからかけながら歩く。




 これ書いた時に場所借りたりワイン奢ってもらったりしたことを思い出す。


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