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お弔いの仕方

 昨日書いた記事、いつか『ロング・エンゲージメント』について書こうと思っていて、主演のギャスパー・ウリエルの訃報がきっかけになった次第だが、若干の躊躇いもある。

 内容的にそこまでその俳優について言及してもいないし、前述の通り、個人に深くは思い入れはない。タイミングが良かったから書く気になったのだが、そういうことをするのって、もしも物凄くギャスパー・ウリエルが好きな人からしたらどうなのだろう?
 別にどうとも思わないかもしれないし、普通に話題にしてくれて好意的に見てくれるかもしれない。でも不快に思う人もいるんじゃないかって、そんな気がする。

 Twitterのトレンドに訃報が流れて目に入る。色んな人が悲しむ。自分も悲しむ。幼い時に観たアニメのキャラクターを演じた声優、子供の頃好きで読んでいた漫画家、思春期によく聴いていたミュージシャン、感銘を受けた映画の俳優... 自分だってもうそれなりに長く生きてもいるし、これから自分が死ぬまで誰かの死の知らせが耳に入り続ける。それは止められない。
 流れてくるツイートにどっからか拾ってきた故人の画像の切り抜きだとか過去に描いたイラストを載せるアカウントも目に入る。私自身の性格が悪いし、ひねくれているのもあるが、それは弔いとして正しいのか? そう思ってしまう。
 故人と親交があった人間ならまあわかる。そうでなくても当の本人は純粋な気持ちでやっているのかもしれない。でも何か疑念が拭えない。

 自分なら寝耳に水の話を聞いたら基本思考が働かなくなる。多分言葉を失うだろうし、感情的なツイートするぐらいに留めると思う。例えその人に関連する画像が手元にあったりしてもそれを個人の呟きに流すのはちょっと憚る。思いなんて人それぞれなのはわかっているが、躊躇わずそれができる人って我が強くないかと思う。

 物凄く悪い言い方をすると、お前、それは注目されるために故人をダシにしていないか? 本当に故人に思い入れがあったのか? そんなことをする資格があるのか? ...とすら感じてしまう。自分がムカつき屋で勝手に神経を逆撫でされているだけなのかもしれない。でもそう思い込んでしまうと弔いって一体どうやればいいんだってわからなくなってくる。

 10年近く前に友人が亡くなった時、遺族や周りは私が親友だったと扱ったが、正直なところ親友だったのかわからない。お互い他に気の合う人間がいなかったから不可抗力でそういう関係になったのかもしれないし、生前その友人のことをちゃんと思いやっていたのか、今となってはわからないし、忘れかけてきているし、それを美化することもできない

 誰かの死について、胸に秘めるものはあれど、自分はだいぶ考え方がドライでささくれ立っているように感じる。

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