2023/01/19 BGM: The Chemical Brothers - Let Forever Be

2年ほど前、まだコロナ禍が始まって間がなかった頃私は姫路の東急ハンズに行った。そこで買ったニーモシネというメモパッドに英語でメモを書き始めた。それまで私はメモを書く時は日本語を使っていたのだけれど、どうしても続かなかった。結局友だちの「あなたは英語を使っている時が活き活きしている」という言葉を手がかりに、試しにやってみようと思って英語でメモを書くようにし始めたらそれがすんなりと「腑に落ちた」のだった。それを思うと私は努力とは何だろうと思う。大事なのはその人に応じたやり方を効率的に見つけることではないか、と思う。それがあってこそ努力は活きる。そのことを私はこの事実から学んだ。

かつては私は自分が発達障害者であることをずいぶん不幸で、惨めなことのように感じていた。何もかもこの障害が悪い、と……今はジョブコーチを通して会社に発達障害について知ってもらうことを試みるようになり、私自身の生活においても単に惨めったらしいことばかりとも言えないこの障害について学ぶことを始めた。これらはでも、結局はさまざまな人との出会いがあってのことだ。私1人で過ごしていたらいつまでも私は自分の世界に留まり、したがって孤独を抱え失意に生きていただろうと思う。そう思うと今は本当に幸せなことだと思う。今は大勢の友だちに囲まれて、楽しく過ごすことができている。

今日は夜、毎週恒例のミーティングがあった。そこで今日はサイコロジカル・セーフティについて学ぶ。職場の中で重視される、「何を言っても受け容れてもらえる」という安全性/安心についてだ。私自身はどうしても職場のコミュニケーションの輪の中で空気を読めなかったり的を外したりしたことを言ってしまう「異物」になってしまう。そうした「異物」をも受け容れ、取り入れて発展していくのがダイバーシティ/多様性なのだろうと思う。いや、こうすんなりとうまく行かないのが実態ではあるので、成功例を聞く度に興味深く思ってしまうのだけれど。

その後、時間があったので永井均『〈子ども〉のための哲学』を読む。なぜ「ぼく」が「(この)ぼく」なのだろうか……そのような問いを私も確かに保持して生きていたと思い出させられる。私自身が見る世界は実は私のために用意された仮想の世界であり、誰もがシナリオに則って過ごしている……というのはさすがにテレビドラマの見すぎであるとは思うのだけれど、ならば誰もが「私は私である」という自我/主体を備えている人間であること、そのような人間が集まって世界を織り成しているということ、その事実の中に端的に私は神秘を見出す。ただこの世界があるというその事実こそが神秘なのだ……ウィトゲンシュタインを思い出す。あるいは保坂和志の小説世界を。

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