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人を裁く真の意味

 今も昔も人が罪を犯したときには裁判にかけられ法の下に裁きを受けるが、なぜ、このようなシステムが作られているのだろうか?簡単に言うと、法は人が作ったものだが、人が完全な存在でないように法も完全なものではない。法律が整備されていないが故に犯罪を犯されてしまうときもあるし、極々稀に完全犯罪が成立し、被害者が泣き寝入りするなんてことも起きる。そもそも極論、穢れている存在でありどこかで何らかの罪を犯している人間が同じ人間を裁くなど烏滸がましいという意見さえ見かける。なら、なぜ法もとい人間が人間を裁くシステムが現在まで続いているのか?
 自分の結論を言うと、『法は万能ではないが、それでしか、秩序を維持できないからである』と自分は考えている。生物で同じ言葉を話し、コミュニケーションを取っている知的生物は人間しかいない。同じ言語を話せず、そんな思考ができるとは思えない動物に人を裁く役割を任せるなどほぼ不可能である。次に、機械に任せる案だが、AIならともかく、特定の動作しかしないロボットなら様々な状況に遭遇する法廷では対応力に欠けると思われる。AIもこれから技術が進歩し、実用段階になる未来があるかもしれないが、今の裁判へのAI導入は生産性の向上などのメリットが多い一方、悪用や情報漏洩などのデメリットも無視できるものではなく賛否両論である。なら、神に代わって裁くという声もあるがそれも違う。前述の通り、法は人が作ったものであって神が作ったものではない。そもそも神が個人的に悪行を働いたものに不幸を振りかけるなどして天罰を下すならともかく、法の整備に協力もしていない神が法や法廷に意見をするなどお門違いである。そもそも存在しているかも怪しい存在に人の罪の裁定を任せるなど不安しかないのである。
 このように、人が人を裁くのは神や動物に頼るのができないが為に自分たちで人間という存在を律するしかないからである。世の中には必要悪というものがあるが、人が人を裁くというある種の傲慢さは人間が法をもつ尊厳ある生物であるためには必要な傲慢さなのである。傲慢さはある種の罪と言われているが、我々人間が秩序を保って生きていくためには、罪を背負い続けて生きていかなければいけないのかもしれない。

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