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安藤礼二『井筒俊彦 起源の哲学』にて(哲学的意味論)

今回の記事は、過去の記事「安藤礼二『井筒俊彦 起源の哲学』にて(存在一性論)」のつづきです。電源のマークに「無」を重ねました。

今回は、第三章「始原の意味をもとめて」から抜粋します。

井筒にとって超越と内在を矛盾するがまま一つにつなぎ合わせるものが「神」であった。預言者とは、こうした「神」の領域、言語の「内包」にして言語の「アラヤ識」に直接触れることができ、そうした未曽有の体験をもとに、言語の「意味」そのものが持つ体制を変革し、同時に「社会」そのものが持つ体制を変革することができる人間のことだった。しかしながら、そうした預言者の持つ特別な能力は、「呪術」の時代をいまだに生きている「未開」の人々が、「幼児」たちが、詩人たちが、日々行っていることでもあった。われわれはみな預言者であり、詩人であり、未開人であり、幼児である。それが、『言語と呪術』が導き出すラディカルな結論であった。

――p.108

『言語と呪術』は、文字通り、井筒俊彦の学問にして表現の隠された起源として存在している。若き井筒俊彦は、当時の人文諸科学の最新の成果、考古学、人類学、宗教学、心理学、詩学などの成果を貪欲に消化吸収し、大胆に活用することで、「意味」の始原を探究していった。『言語と呪術』には、井筒の他の著作には一切登場しない固有名も多い。この後、多様な方向へと展開される井筒俊彦の学問にして表現のすべての萌芽もまた、この書物のなかに秘められている。特に、井筒が中国語の文法に関してこれほどの情熱を持って取り組んでいたことは驚きであろう。それが「東洋哲学」の基盤となっている。

――pp.108-109

『言語と呪術』は、そういった意味で、井筒俊彦が大成する「哲学的意味論」の、まさにアルファにしてオメガとしてある。「哲学的意味論」とは、井筒が同名エッセイ(一九六七年)で明かすとおり、エラノス会議に招待されるにあたって、主催者の側から打診された専門領域の名称である。井筒は、まさにその瞬間に抱いた驚きと納得を、こう記している。「哲学的意味論――それは私が最近胸にいだいてきたイデーを他のどんな名称にもましてよく表現しているように思われた」、と。(『全集』第四巻、一三二頁)。

――p.109

日本の大学に繋ぎ留められない知の巨人、井筒俊彦さんの『言語と呪術』に触れて、文系学問の極限に思いを馳せてみてはどうだろう。

井筒俊彦『言語と呪術』は2018年に和訳出版されています。

以上、言語学的制約から自由になるために。