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安藤礼二『井筒俊彦 起源の哲学』にて(存在一性論)

今回の記事は、第二章「ディオニソス的人間の肖像」からの抜粋です。

イブン・アラビーは、「人格神をもそれの一つの顕現形態とするような、より根源的な何ものか」を「隠没ガイブ」(ghaib)と名づけた。隠れた神、言説化を拒絶する「あらゆる秘密のそのまた秘密」としてある神、「絶対未発、未展開、未分節の境位における存在リアリティー」、あらゆるものを生み出す母胎となるような「積極性をもった無」である。しかもこの神の以前の神、神の彼方の神である「無」は、「自己顕現」(存在顕現)の意欲、産出の欲望に取り憑かれ、自ら発する「慈愛の息吹き」とともにこの大宇宙、森羅万象の原型を自らの内に生み落とすのである。「無分節の純粋存在が、自らに内在する本性的な現象衝動に突き押されて、自らを分節して現れる」。言語学的に翻訳してみれば、無分節の「内包」から分節された「外延」が生み出されるのである。

――pp.91-92

神に付された無数の名と無数の属性を一つにまとめる「無」から生み出された「一」。イブン・アラビーはそれを「統合的一者」、すなわちアッラーとしたのだ。「無から一をとおって多へ」、「無」(隠没)から、つまりは自らの意志で生まれ出た絶対一者とその世界から、統合的一者とその世界(「一」=アッラー)を通して人間が感覚できる物質的な「多」の世界へ。それがイブン・アラビーの「存在一性論」、存在顕現の哲学の持つ基本構造なのである――「絶対一者は、この訳語自体が示唆しておりますように、内面的にも外面的にも徹底して一。統合的一者は外面的には一、内面的には多。感覚界は徹底して多。そしてこれらすべての究極的根源として絶対無。無から一をとおって多へ、この全過程を貫いて一条の道が走っている、それが存在顕現なのであります」(『全集』第五巻、五七三頁)。

――p.92
身近な電源のマークに、哲学的な考え方を重ねてみたらどうだろう。

イブン・アラビーは意識と世界の根源にあり、それらのすべてを生み出す源泉となった絶対的な一者を「存在」と名付けた。森羅万象あらゆるものはこの無限の「存在」が限定を受けることによって生み落とされる。だから存在者のすべては濃淡の差はあれ、いずれも「存在」を分かち持っているのである。あたかも太陽のようにこの世界の中心に煌めく「光のなかの光」とそこから発してあらゆる事物に注がれる無限に多様な「光」の波動のように、はるかな深みを持ち無限にひろがる「海」とそこにあらわれる無数の波のように――『大乗起信論』もスーフィーたちも、ともに海と波の比喩を用いて、無限の神(無限の如来)と有限の人間(有限の衆生)の関係を論じている。あるいは、イブン・アラビーも老子も、あらゆるものを生み出す「無」(存在)をあらゆるものへ浸透する「水」に喩えている。

――pp.92-93

伊勢神宮の鏡(御神体)は「無」としてあります。
それは、他の神社を鏡に映る像とする仕掛けです。

以上、言語学的制約から自由になるために。