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井筒俊彦『言語と呪術』にて

まずは、呪術とは何かについて。

呪術は哲学することではなく、生きることなのである。呪術は心のたわむれの遊興ではなく、人と環境がとりむすぶ実践的な関係における不可欠な要素、人の生の不可思議にしてなくてはならぬ中心軸であり、現実に向かう人の姿勢の主要な方向を確定しているのだ。〈意味〉のもつ基礎的な働きの謎を解き明かす探索にあたり考慮に入れねばならないのは、このような意味での呪術なのである。

――p.175第九章

そして、探索する言語について。

われわれの言葉や文は、専門的な呪術師や魔術師によって間違った、あるいは悪意に満ちた目的で利用される以前に、それ自体が究極的には呪術的な本性をもっているのである。

――p.87第五章

著者は、幼児の言語に、未開部族の呪術を写し視ています。

言語スピーチ習慣の幼児期における形成を分析すると、以下のことが示される。つまり、誰もが精神的な発展史において多少なりとも区分されうる期間があり、誰もがその期間のあいだに、物が名をもち、これらの名は世界に対して何らかの呪術的な効果をもつという実に注目すべき発見をする。観察者の報告では、子どもは分節されていない言葉のような音を出して遊ぶことから始め、それを夢中になって行い続けるが、その仕方はまったくあてどないものである。それから、特定の種類の音を発することで、物を手に入れることができる奇跡にだんだんと気づくようになる。子どもは、言葉を媒介にして自ら望むすべての事物が自らのところに来ることをみる。言い換えれば、言葉を発話すると、決まって特定の反応が生み出されるのだ。要するに、言語スピーチによって周囲に命令することができることを子どもは理解するのである。

――p.91第五章

マリノフスキーが「未開言語における意味」をめぐる優れた論文で強調するように、この段階の子ども――そして未開人も――にとって言葉は、行為の効率的な手段でもなければ表現の手段でさえないことに注意する必要がある。言葉は本来、事物を獲得するために用いられる。子どもが食べ物が欲しいとき、それを求めて騒げば、食べ物が現れる。「哀れな声で発話された人の名はその人を物質化する力をもっている」。こういったことやそのほか無数の似た経験が毎日繰り返されれば、言葉は実際に力であって、発動されれば目にみえる影響をさまざまな対象や行為に及ぼすほど強力であるという印象が、間違いなく子どもの心に深く刻みこまれる。言葉として発される音によって物を「つかむ」というこの体験を、ポルツィヒは「意味体験」と呼んだ。それは〈意味〉の生き生きとした体験と呼びうるであろう。これこそが言葉に対する未開で呪術的な態度のまさに核にして根源をなしているのである。

――p.92第五章

この書物は、Language and Magic(1956年)の和訳です。

以上、言語学的制約から自由になるために。