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井筒俊彦『言語と呪術』にて(詩の言語)

今回の記事は、過去の記事「井筒俊彦『言語と呪術』にて」の追記です。

井筒俊彦が詩の言語に触れる記述を、一部、取り出しておきます。

 この機会に詩の言語を簡単に扱っておくのは適切であると思われる。直前の節では付随的ながら、対比によって倫理的な言語がもつ「祭礼的」、「儀式的」な性格を際立たせるため、抒情詩の言語がもつ感情的な本性を参照した。だが、これは決して言語の詩的使用が呪術的な連想と無関係であることを意味しない。まったく逆に、詩とはその根源と精神においてまさしく言語呪術の神髄に他ならない。ラテン語の carmen という言葉の本来の意味が示すように、最初期以来、詩はつねに呪文であった。実に、韻を踏んだ詩節の秘めた力を信じることほど、古代人のあいだに流布したものもない。神託や予言は韻文で伝えられたし、祈祷・呪詛・祝福の文章や呪術的な定型文は通常、韻律形式で投げかけられたのである。ほぼつねに宗教は律動リズムまたは韻律によって語られた。ヘブライの預言の高度に発展した段階においてさえ、ヤハウェの啓示に導かれた代弁者はみな詩人であったし、古代世界で預言者は、詩人でないかぎり思い通りに、聴衆の耳を自分の言葉に傾けさせることなど期待できなかったのだ。なぜ宗教、もしくは呪術の言語が世界中で言葉の詩的使用とこれほど密接に関係しているのかという理由の一つ、あるいはそのいくつかは第十一章で詳しく検討する。現時点では、今日でも偉大な詩人たちの幾人かは、その言葉遣いのみならず詩的意識そのものにおいて正真正銘、言語呪術師であるというきわめて注目すべき事実に注意を喚起しておけば十分である。

――pp.70-71第四章

 詩は、言語の内的で呪術的な「枠組みづけ」の手段として知られるものすべてのうち、疑いなく最も未開で、紛れもなく、最も普遍的な手段である。はるか昔から、詩は、あらゆるところで卓越した呪術言語であった。以前の章で、古代世界において詩人、呪術師、魔術師、預言者には、もともと同じ人があてられていたことに触れておいた。古代の人々のあいだで――同じことが現代の未開社会の人々にも等しく当てはまる――詩は単なる文学の特定ジャンルとして、生を飾るものではなかった。詩は、真の生き生きとした呪術の力そのものであったのだ。確かに、詩は人の根源体験に属する。つまり、詩として用いられなければ、かなり薄弱で平板に聞こえる言葉でも韻律形式や律動的リズミカルな形式に置かれると、驚くべき響きと印象深さを獲得することがよくある。そして、言葉はそのとき日々の生の領域から明確に切り離されてしまう。こうした体験は未開の類いの心にとって衝撃的なあまり、詩は物事の自然のなりゆきでさえ統べることのできる超自然的な力を有するとまでしばしば信じられている。

――pp.213-214第十一章

 持続する律動的な動きや音には感情を高揚させたり、高揚を解く効果があるのは、よく知られている。使用された言葉が理解可能な意味を完全に欠いていたとしても、特定の律動や韻律、および声の速さや音量における一定の変調が効果を和らげたり引き起こしたりすることは、詩人のあいだだけでなく、一般の人々のあいだでさえも、ごく普通に起こる。意味をなさない絶叫ですら、韻文形式で発したり調子さえ整っていれば、聴衆にも歌い手にも催眠的な興奮状態を生み出すことができる。律動的な音に反応するというこの能力は現代人も依然として保持し続けているが、古代人においてははるかに傑出していたはずである。未開の人々は、周知の通り、音楽や歌を歌うことがもつ感情を刺激する効果に対して極端に敏感である。律動的な音を聴くことをとおして、単純な諸感情から情熱的な歓喜や恍惚に至るまで、驚くほど変化に富んだもろもろの「態度」がたやすく未開の人々のうちに生じるのである。それゆえ、詩のもつ感情的な効果は、まさしく心理学的・生理学的な基礎を備えており、そこにこそ言語の内的な「枠組みづけ」の手段としての律動と韻律がもつ大いなる価値があるのだ。明らかに、詩のもつ呪術的な力は単純に未開の空想や迷信に帰されうるものではない。このことは、詩がつねに人類のあいだで、個人および社会のきわめて重要な問題において、かくも本質的な役割を果たしてきた究極的な理由をわれわれに理解させてくれるのである。

――pp.221-222第十一章

以上、言語学的制約から自由になるために。