見出し画像

物理学における「実在」は存在していない  ~現代物理学事情(量子力学編)~

アインシュタインは、量子力学をこの世界のもっとも基本的な理論の1つとは見なしていませんでした。その理由の1つとして、日常的なモノの実在性とその決定論的な運動を量子力学は許していないという点を挙げています。量子力学ではない、決定論的な実在の物理法則が他にあると信じていたのです。

『君は,君が見上げているときだけ月が存在していると本当に信じるのか?』

これはアインシュタインが親しい物理学者に向けて言ったとされる言葉です。量子力学はその月の実在性も否定する理論だったので、彼は死ぬまで不審に思い続けていたのでした。しかしアインシュタインが期待したような路線で成功をした理論は現れませんでした。一方で量子力学は、もの凄い精度でその正しさが実験的に確認をされている基礎理論として、広く認められるようになりました。
 
見えていた月が次の瞬間に振り返ってもまだ実在し続けることは、例えば人工衛星やロケットなどへのマクロな応用では問題なく使っていいのですが、実はミクロな領域まで正確にカバーしている現代物理学の基礎から考えると非常に疑問です。皆さんが持っている「実在性が崩れるなんて信じられない」という気持ちも、日常レベルの経験を踏まえると理解はできるのですが、かといって現代物理学における「実在」というものは、それほど強固な基盤を持っているわけでもないのです。たとえば2022年のノーベル物理学賞となった有名なベル不等式の破れの実証により、「そこにモノが在る」という局所実在性が実験で否定をされています。天動説が観測によって覆ったように、我々にとって当たり前な感覚でもある「そこにモノが在る」という思い込みも、現代物理学の実験によって覆ったのです。

実在性の否定と関連するもう1つの話が、有名なシュレディンガーの猫の思考実験です。生きている猫がやがて生きている状態と死んでいる状態の重ね合わせになるという話ですが、この実験を始める時刻を、その猫が生まれる前に持っていくこともできますよね。親猫からその猫が生まれてくる前の状態を量子的な純粋状態として準備すると、異なる猫が生まれる様々な歴史との重ね合わせ状態が生じます。量子力学を信じると、これは外部観測者にとっては確かに事実であり、その異なる歴史の間の干渉効果も、原理的にはその外部観測者が実験で測定することもできます。つまりその外部観測者にとっては、「或る特定の猫がその親猫から生まれ、実在していた」と、もう述べることはできません。その猫が実在した歴史もあるし、実在しなかった歴史もあります。そしてその猫たちの量子系は純粋状態として、それらの異なる歴史の重ね合わせにあるからです。

もちろんその歴史の内部に猫を観察している別な観測者が居れば、その観測者にとっては、その猫は実在したか、またはしなかったかのどちらかになります。生まれた猫の性別や特徴を確認し、名前まで付けられるでしょう。しかしその状況を外部の観測者の立場で考えると、その外部観測者にとっては内部観測者も単なる量子系であり、その内部観測者の記憶自体も異なる様々な歴史の重ね合わせになってます。生まれる猫の性別も、猫に付けられる名前も異なる歴史です。各歴史のなかで内部観測者が確認した「或る猫の実在」は、外部観測者にとってはもう意味がありません。

次にこの猫の思考実験を拡大してみましょう。人類が生まれる前に外部観測者が地球全体を量子的な純粋状態に設定できるという壮大な思考実験を考えてみます。地球の量子状態の純粋性を保ちつつ、量子力学に則って地球の進化を追っていきます。すると地球の外にいるその観測者にとっては、たとえば「日本という島国のある時期に徳川家康という人物は実在したか?」という問いは意味を持たないことが分かります。

前に述べたシュレ猫の親猫実験のように、その外部観測者にとっては家康が実在した歴史の状態も、いない歴史の状態もあり、そして地球系全体の状態は、その異なる歴史の状態の重ね合わせになってます。また原理的には、その外部観測者は異なる歴史の量子的な干渉項も測定できることになります。つまり家康のいる歴史といない歴史の干渉項です。このような思考実験を考えると、歴史における家康の実在性すら、量子力学では危うい概念だと感じて頂けるかもしれません。私たちは家康が生まれた歴史の中を生きていますので、それは確定的であり、普通は実在性の脆さを実感できません。でも我々自体をもマクロな量子系として扱う外部観測者にとっては、その家康の実在性という概念が崩れるのです。これらの思考実験の結果は、多世界解釈などの非標準的な変わった量子論での話ではなく、通常の標準的な量子力学の帰結です。このようにモノや人間の実在性は、決して強固な概念ではないのですね。

そもそも「在る」という直感を人類に養わせてしまった一番の要因は、物理学における様々な量の保存則です。つまりエネルギーや運動量、電磁気学に出てくる電荷の保存則、そして近似的に成り立つ原子数、粒子数の保存則です。見ていないときにも月が空に存在しているという感覚が拠り所にしているのは、それらの保存則の経験です。実際にはミクロ領域で粒子数などの保存則は破れていることが実験で知られています。また非常に大きな領域として、あちこちの空間領域に歪みのある膨張宇宙全体を考えると、普通の意味での物質のエネルギー保存則や運動量保存則も成り立ちません。一方でゲージ対称性に基づいている電荷の保存則では、今のところ実験的に破れている現象は見つかっていません。ただそれは必ずしも絶対なる物理法則のままとは限りません。観測では今の宇宙は弱い加速膨張を起こしていますが、理論的に考えると、その先にあるのは宇宙の相転移かもしれません。そのような相転移の後では、現在の電荷の保存則を保証している対称性も生き残るのか全く分からないのです。その対称性が自発的に壊れて、電荷の保存則も露わには成り立たなく可能性も理論的にはあるのです。

一般に保存則は、物理系の時間発展に対称性がある場合に生じることが、ネーターの定理として現代物理学では知られています。つまり時間発展、もしくはそれを生成するハミルトニアンやラグランジアンという量が対称性を持てば必ずある物理量に対する保存則が現れ、そしてその物理量が時間的に変化をせずに保たれるという性質に基づいて、「実在」という描像が出てくるのです。

しかしこれからの時代に量子コンピュータなどのマクロな量子制御系が実現されれば、その時間発展やハミルトニアン、ラグランジアンは人間が自由にデザインできるようになります。それに伴って、自分が勝手に選んだ物理量が短い離散的時間毎に保存するように時間発展を構成することも可能になるわけです。つまりAIにとって実在を保証する保存則も、人類は自由にデザインできる時代になると期待されます。もし将来の量子コンピュータが意識を獲得するAIになるならば、今のAIと同じように、人間が設計したその保存則に基づいた経験を通じて、量子AIは機械学習的に新しい実在概念を獲得していくはずです。人間の感覚とは異なる、AIにとっての実在概念をそのAI自らが構築し、それを利用していくのです。 

こう考えてくると、人間が素朴に持っている実在の感覚はとてもあやふやなものだと、現代物理学では理解できます。空に浮かぶ月でも、その実在性はAIのように各人が後天的に獲得した感覚でしかありません。「実在」は、後天的に獲得した感覚。例えばお金も人間は無意識に実在と感じてますよね。造幣局で多数の紙幣が刷り上がっていくのを脇で目の当たりにすると、お金は幻だとわかると、昔「ミスター円」と呼ばれた元財務官僚の方が言っていました。それでもお金を無意識に実在と感じることは多いですよね。それはお金の近似的保存則をいつも日常で経験しているからだろうと思います。自分のお財布や銀行口座のお金の出入りで成り立つ程度の保存則です。でもマクロ経済で見れば、お金も、お金の価値も全く保存していないのです。このお金の例からも分かるように、「モノが在る」という近似的な、でも正確には正しくはない感覚を、AIのように人間は経験から学習しています。

ある国際会議のコーヒーブレイクでは、再会した友人たちと「物理学における実在とは?」という話で盛り上がりました。仲間の1人にはまだ2歳ちょっとの小さな子供が居て、その子供と家で面白い実験をしたのだそうです。ちょうど目の前に居た子供に「今パパが隣の部屋にいるかどうかを確かめてきて」と頼んだのです。その子供は、「ここにパパは居るのだから、隣の部屋には居ないよ」という反論もせずに、素直に隣の部屋に行って帰ってきて、「パパはいなかったよ」と報告してくれたそうです。つまり「パパがここに居れば、パパはあそこには居ない」という実在性の概念をまだその子供は持っていなかったという興味深い話でした。「実在」は幼児期の後に機械学習的に身に着けてしまった経験則に過ぎないということを強く示唆する面白い話でした。

「実在」は経験則であり、単なる近似に過ぎないと考えられます。また現代物理学では、何もないはずの真空状態において加速する観測者がその加速度に比例した温度の熱浴粒子を観測する「ウンルー効果」や、1つ次元の高い時空の量子重力理論が無限遠方の境界面の物質場の理論と等価であるという「ホログラフィ原理(AdS/CFT対応)」など、モノや時空の実在性の危うさを示唆する結果は沢山知られています。

なじまない量子力学の考え方を疑う前に、まず「在る」という自分の感覚を疑うべきであると教えてくれているのが、現代の物理学なのです。

 現代的な量子力学の教科書として、講談社サイエンティフィクから『入門現代の量子力学』を出しております。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?