北朝鮮の“ゴミ”が近隣国にとって“宝”になる可能性を秘めているわけ(#62)
アートとデザインの間にある違いは平たくいえば「用途があるかどうか」である。
後者はそれがあるものを指す。
ところで浮世絵はアートなのだろうか、それともデザインだろうか。
今ではアートかもしれない。
ただ、元々はその枠に当てはまらなかった。
アートやデザインといった概念は西欧由来のもので、江戸時代にはそんな概念がなかったからである。
そもそも浮世絵は何だったのか?
新聞だった。
そして読み終えた新聞は何になるだろう。
それを“ゴミ”と称しても違和感はないのではないか。
用途を失した浮世絵は“ゴミ”になった理由
ご存知、新聞は最新のニュースあるいは読み終えていない状態で多くが用を足すメディアである。
日刊紙のみならず、競馬、スポーツ等、様々なトピックで展開している。
しかし最終的にアーカイブとしてスクラップなどで保存でもしない限り、読み終えた時点で多くが用済となるメディアだ。
そして多くがゴミとなり廃棄されるか用途を代えて再利用される。
1867年、外国船が来航して以来開国を迫られた江戸幕府がパリ万国博覧会へ初めて出品した年である。
ここに青銅器や磁器、水晶細工、あるいは絵画など様々なものが出展される。
それは当時のヨーロッパ人にとって物珍しく後に「ジャポニズム」と呼ばれ、当世の芸術家たちへ大きな影響を与えたムーヴメントとなった。
そんな出展物は船で運ばれたわけだが、揺れで破損する恐れがある。
その作品保護のため“緩衝材”が必要だった。
このとき使われたのが浮世絵である。
浮世絵は新聞紙、「静止画込の新聞」だから、そしてそんな緩衝材、つまり“ゴミ”にまでヨーロッパ人は興味を抱いたのだ。
このとき、ただの緩衝材だった“ゴミ”はたちまち価値を高めたのである。
なぜ北朝鮮のゴミを“北朝鮮のゴミ”と判別するのは難しい?
隣国韓国の東亜大学姜教授が海岸で北朝鮮のゴミを収集しているという記事をみた。
目的は「北朝鮮の“今”を知る」ためだ。
もし同じことを日本でしようとした場合、障害は何になるだろうか。
一番は言葉だ。
実際、日本にも多くのゴミが海外より漂着している。
2016年環境省調べによると、海外より漂着したゴミの種類別第一位は木材などの自然物を除くとほとんどがプラスチックゴミで、その中でも重量、容積では漁網・ロープだが、個数別一位はペットボトルである。
ペットボトルは全体の約4割を占めている。
仮に韓国のゴミの中に北朝鮮のゴミが混じっていたとしても、判別が難しいのではないだろうか。
なぜなら両国とも同じハングル文字を使用しているからだ。
また、北朝鮮旅行は出来ないわけではないが、北朝鮮から何かを持ち帰るのは原則無理であり、日本着の漂流ゴミから北朝鮮のゴミと判断するには明確に韓国のゴミであることを知らない限り、判定が難しいのである。
しかしそう考えてみればみるほど、ただのゴミが「北朝鮮の」ゴミだとしたら、高額で競売される可能性を有する気がしないでもない。
もし姜教授と同じことができたとしたら、コレクター垂涎の的となることだってある。
また回収すれば環境美化につながるし、不要となれば指定の回収日に捨ててしまえばいいのだ。
今のところデメリットが見当たらない。
ただ現実は気の遠くなるような作業が必要で、北朝鮮のゴミを掴み取ったとしたらそれはそれで達成感に酔いしれそうだ。
ジャンク・アートとは
同じような発想で創作に取り組む人、アーティストたちがいる。
ジャンク・アートとは廃棄物を“寄せ集めて”制作された作品を指す。
単独のゴミでは価値を持たなかったものが、アーティストの手によってゴミを取りまとめ“作品(アートワーク)”へと昇華させた代物である。
ゴミも寄せ集めることで価値を見出すというのは冒頭で登場した浮世絵も同じかもしれない。
一枚ではなく、それが何枚もあったからこそ日本的なものとして再発見され、価値を見出されたのではないだろうか。
その意味では浮世絵もジャンク・アートなのかもしれない。
旧約聖書では神は「土の塵からアダムを作った」とあるが、ゴミも同じように集めて息吹を注がれることでゴミからアートワークとしての人工物に変わったというのは言い過ぎだろうか。
まとめ
北朝鮮と日本の間には今なお国交がない。
また北朝鮮自体も国際的に開かれた国とは言い難い。
しかし、そんな北朝鮮を雄弁に語り、しかも無料で手に入るものが「ゴミ」だった。
入手困難なものとは「(誰かにとって)価値を有す可能性」がある、ということを意味する。
価値は何もすべて需要に依存するわけではないのである。
これは北朝鮮のゴミかどうかに関わらず、ゴミは人の価値観に左右されやすい。
収集には辛抱強さを要し、またモノは嵩張る。
しかし本当に手元に残したいものが何かと考えたとき、歴史がある(=時間の繋がりがある)ものがいいかもしれない。
歴史はある国で独占されるべきものではない。
「ゴミ問題」は国や境界を知るきっかけを与え、我々はそれらを解釈しながら同時に課題とする。
そのときゴミは初めて“共通の課題”になり、豊かな未来への“希望”と変わる。
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