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似た形の島国ニュージーランドと、入れ墨と多様性について。(#17)

顔に入れ墨の女性外相

アメリカではまだ大統領選の開票作業が続いていますが、先立ってニュージーランドでは11月2日第二次アーダーン内閣の組閣が行われ、副首相に任命したグラント・ロバートソン氏が同性愛者であるということ、そして先住民族マオリのナナイア・マフタ氏が外務大臣に任命されたことが話題に上がっていました。
彼女の顔には“モコ・カウアエ”と呼ばれるマオリ伝統的な入れ墨が施されてあります。

アーダーン首相は2017年からその地位にいますが、彼女自身はニュージーランド初の女性首相ではなく、3人目です。
(※初はシップリー元首相 在職期間:1997年12月~1999年12月)
20人の新内閣には女性やマオリの血を引く議員が多数登用されているそうで、アーダーン首相は新内閣の多様性を誇りつつ、任命は「功績と才能」に基づいたものだと強調しております。
また、ニュージーランドの素晴らしい点の一つとして、こうした質問があまり重要でない場が多いということも述べています。

多様性と同調圧力

ところで、そもそも多様性とは何でしょうか?
性差や民族関係なしに頭数が揃うことでしょうか、違います。
前提として目指す目標があり、そのルールの中に様々な人が揃い、実現されたの後にあるものです。
もしそれがなければ、ただの“烏合の衆”だからです。つまり、秩序や纏まりなく、対立し合うだけになってしまいます。
この秩序や纏まりを生む・育むという点で伝統も同様の意味を持ちます。
“モコ・カウアエ”という入れ墨もマオリの伝統を引き継ぐマオリの方々が持っているひとつの美意識であり、共通意識でもあります。
言い換えれば、“ルール”です。
このルール、“守るべき(受け継ぐ)”と“守らなくていい”との間には個人の問題社会共同体の間で“ずれ”が生じています。
また共同体に関しては宗教、民族、地域など国以外にも何重にもなって個人の問題と共有されます。
たとえば如何なる理由であれ、入れ墨をするなどけしからん、という考え方の人がいたとします。
多様性の観点からいえば認められるべき存在です。
しかしその考え方が多数派を占めたとき、その考え方=“正しい”つまりルールのように幅を利かせて、少数派にその考え方を強いるケースがあります。
これを同調圧力と呼んでいるような気がします。
特に自分たちのルールを自己否定できない状況だったら、過去から育んだものは良いものだけでなく負の遺産までも続いたりしています。「俺たちの若い頃は・・・」のような発言などを思い出してみてください。

ただ別の例はどうでしょうか。
片側一車線法定速度40キロの車道を多くの車が60キロで走っていたとします。
その中で法定速度を守って走ると流れを乱し、余計に危険な状態に陥りかねません。
法定速度を遵守するのが正しいです。
しかし、60キロで走ることを周りは強要します。
これもある意味、同調圧力です。
しかしそれを同調圧力と呼ぶ人は多くないと思います。
なぜでしょうか?
後者は“皆にとって利になる選択”だからです。

実は日本にも…

実は、日本に顔に入れ墨をする伝統を持つ民族がいました。
有名なのは北海道のアイヌ民族です。

過去形なのは現在その伝統が存在していないからです。
理由は江戸幕府・明治政府と続く同化政策によります。
ただ、たとえ今、その文化を復興しようとしても入れる人は多くないかもしれません。
元々は顔のみならず入れ墨は縄文・弥生時代にあった風習ですが、大和朝廷以降完全に廃れていきましたが、ファッション的な意味合いと罰則としての入れ墨があったそうです。
それでも今は特に若者を中心に、一昔前ほど嫌悪感を示されなくなりましたが。
やはり好意的な印象を抱く人は少ないかもしれません。
戦後の“任侠映画ブーム”に原因があるともいわれることもあります。
つまりはこうした様々な歴史的背景が意識の中に潜り込んでいるのです。

他者に寛大でありたい

当然ですが、こうした連綿と続く歴史や文化がマオリのみならず世界中にあります。
個人でいう習慣が地域になると風習と変わり、それが伝統・文化へと昇華します。
何かに対する嫌悪も社会共同体の共通認識かもしれませんが、元を辿れば誰かの個人的嗜好の問題かもしれません。
つまりそうした問題が世界中のありとあらゆる地域に存在しているわけです。
家庭内の不和から世界の紛争まで、関わる人が多ければ多いほど、収拾が難しくなります。

だとしたら、多様性ある社会において各々に何が求められるのでしょう?
それは“あなたにとって利がないときの、あなた以外に対する人への寛大さ”、です。
先のアーダーン首相のコメントにあるように“功績と才能が優先”されなければ、真の意味で多様な社会とはなりえないです。
それは彼や彼女の功績や才能に左右され、決して彼らのバックボーンに左右されないことを示唆します。
あなたが“男性もしくは女性に生まれたから”だとか、“○○人だから”とかそうした範疇に収めるには個人単位では抽象的過ぎます。
だからもっとその人自身その人の“生き様”をみたいですね。

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