【日記】カシオとセイコー

 先日書いた腕時計というのは、全く凝ったものではない、いわゆる「チープカシオ」というものだったらしい。
 カシオの安い時計という意味だろう。おしゃれ用語の空気があるので、高い時計ではなく、あえて安い時計をつけているというのをステータスにする、というような意味を持っているのだろうと思うが、自分はそんなつもりもなく、単に今つけるべき時計の中で、安いもの、字が見えやすいもの、電波時計ではないもの、そして防水であるという条件のもとで探した末に見つけただけだった。
 だが、奇しくも、このカシオという会社は、もう何十年か前になる、胸を熱く焦がしたあのゲームウォッチを製作していた会社でもあった。
 何十年越しに、他のブランドのついた時計ではなく、何の変哲もない、だが何か時計というもののイメージを支配するような、カシオという会社の独特の力場に、閉じ込められ続けている、ということを確認したような気持になった。
 一方で、自分の頭の中に原型的にあるのが、学校などで使われるとても大きな時計、小学生のころ、教室の正面で使用していた、単に電池が切れたのだろう、揺さぶればまた動き出すということもあろう止まった時計を、いじくり回していたところ、動き出したので、自分が直したと思い込んで、触れ回ったという、思い出せば恥ずかしいが今となってはむしろほほえましい過去の記憶である、そんなこともあったのでどこか記憶に残っているあの大きくて単なる白黒で単純な見た目をしている時計、あのメーカーはセイコーである。
 私的領域の象徴であるカシオと、公的空間の象徴であるセイコー。
 だから何だ?

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