柳流水
柳流水の日記です。
柳流水の読書録です。
日々の読書の抜き書き
柳流水の小説です。
なんでもない文章の塊
小林秀雄『近代絵画』 セザンヌの描写が特に厚い。 セザンヌは、曰く、印象主義の画家のように、光学という科学分析に分解されていく自然を書いたのではなく、「自然の方からやって来て、私に視覚を使わせるもの」、とでもいったようなものを描いていた。これは、小林秀雄の意見というより、ほとんどが、本人の発言の雰囲気をもってきたものだ。自分も読んだことがある。 確かに、セザンヌの芸術論は、言葉としても熱く、創作する者を奮い立たせる何かがある。 小林秀雄の手腕としては、このセザンヌの
小林秀雄 佐々木敦の『新しい小説のために』に出てきたからだったと思うが、柄谷行人という批評家を読むにあたって、批評というものをここまで熱心に他の作家のものを読んだこともないから、小林秀雄の『近代絵画』を読み進めている。悪い癖だが、芋づる式に読んでいくと、本当にきりがない。 もともと、『新しい小説のために』も、山本浩貴の『新たな距離』や、それに関連してミシェル・レリスの『成熟の年齢』に関連して読み始めたのだった。それらも……と、やはり永遠に続く。 小林秀雄、柄谷行人を読
武蔵野 国木田独歩の『武蔵野』を読み進めている。 文語と口語が、地の文とセリフの使い分けも含めて、順列組み合わせ的に使われている。 地の文……文語、セリフ……文語 地の文……文語、セリフ……口語 地の文……口語、セリフ……口語 このような感じ。だが、今順列といったけれども、地の文が口語であるにもかかわらず、セリフが文語であるというのは、ちょっと考えにくいから、おそらくパターンはこの三つだろう。さらに、冒頭の「武蔵野」は、小説というよりは、武蔵野という土地に対する
ロブ=グリエ いつか、「デューン砂の惑星」のDVDを宅配レンタルで借り、枚数がもっとあった方が得だというかなり消極的な理由から、ロブ=グリエの関わった映画も見たいと思い、「グラディーヴァ」などを借りたのだが、半分見ないで返してしまった。つまらないというわけではない、こういう未知の感触を持つ映画を見た時によく起こるのだが、それを見たという単にそのことを自己の中で言葉にしきれないことに耐えられなくなって、視聴をやめてしまうということがあり、自分の中でなぜ見やめてしまったのか言
佐々木敦の『新しい小説のために』を、読み始めた。 以前に読んだと書いた、山本浩貴の『新たな距離』、かなりの部分この二人は同じ視点を持っているように見える、その前哨のような本だ。実際にこの中に引用されていて、書名は聞いていて気になったので図書館で借りてみた。 金井美恵子が、けっこう前に出した本で、『小説論』というのがある、という引用から始まる……。「新しい」とは何だろうか。新しいものが出てきた、と名指すことは、古いものを自動的に価値の減じたものとして見せる効果がある、金井
植物は強い。先日、亀戸天神の藤を見に行ったが、ちょうど散りかけのいい具合になったタイミングだった。綺麗だなあと暢気に見ている分には見世物にもなるが、山をよく知っている人は嫌うらしい。この蔦植物は、いったん山に蔓延ったら最後、どんな樹木にも絡みついて殺し、藤だらけにしてしまうらしい、しかも藤には毛虫が付きやすいという、必然的に毛虫の湧いた嫌な山が出来上がるという、その山に藤があるかどうかで、手入れされた山かどうかが判断できる、と、そういったことに詳しい人から教わった。繰り返し
やや間があいてしまった。 この一週間、大したこともなかったが……。歯の治療をした。虫歯を削る、本格的なやつで、麻酔を、自分の感覚だと、三、四本は打った。麻酔を打つ前に、麻酔の針が痛く感じないようにする、塗るタイプの麻酔もあった。たしかに、その麻酔を塗ってから注射針を刺されてもなんともなかった。だが、そのレベルの麻酔でも、歯を削る時には痛みに耐えきれないということなのか、二重に麻酔をする必要があるということは、そうなのだろう。神経の奥に響かせなければいけない。針のタイプの麻
桜は満開の時より散り際、花弁と花芯と若葉の入り混じった、一見すると汚いようにも見えるけれどもこれ以上なく変化に富んだ多様な色彩を含んだ樹様を見るのが目に楽しいと、今まで思っていたけれどもこれを代弁してくれた人がいてありがたいと思った。判官びいきの感覚もここにはあるかもしれない、季節を外して桜の花見のシーズンは人がいて過ごしにくいので藤を見るのだと言って、花見はせずに有名な藤棚に足を運んだのもいい思い出だ。出店で焼かれていた塩焼の鮎を食い、ビールを飲んだ。飽くことなく、藤の垂
セントエルモの火 本を読んでいたら、「セント・エルモの火」というフレーズが、唐突に出てきた。 何かで聞いた気もするけれども、意味が思い出せない、と最初は思った。ふと、船の舳に、雷か何かが降って光る現象があったのを思い出したけれども、それと「セント・エルモの火」が一致するのかどうか、ちょうど思い出しただけで、自信がなかった。 それで、実際に調べてみたら、本当にそういう意味だった。頭の中で、完全に結びついていたわけではないけれども、無意識の中で、同時に出てきた単語として、
ウネウネした文章の塊を生み出すことは、やっぱり別でやるべきか。
hosaka 保坂和志になりたくて、狂った人が何人もいるように思う。あてずっぽうではなく、実際に数人は、目の前で見たと言っていいと思う。 まず最初に出会った人は、もうあれは二十年近く前になると思う。創作を志す人が集まるウェブサイトの中でのことだった。そのサイトにはチャット機能があり、突然その人がやって来て、周りの人を罵倒しまわっていた、贔屓目に見ても、挑発的な発言を繰り返していた。 誰もいなくなり、自分とその人だけになった段階で、話を聞いてみた。彼は、当時の保坂和志の
昭和レトロ 昭和レトロを主題にしたテーマパークに、この間遊びに行った。商店街の店員を演じている、劇団員か俳優みたいな人たちが、道行く来園客に、分け隔てなく話し掛ける。暖かきいい時代を演出しているわけだが…… むろん、自分がそこまで禁欲的な思想を持っているわけでもないけれども、視点を少し寛容ではない方向に持って行ったとすると、これが演出であるというクッションを挟んでなお、認めがたいコンプライアンス上の問題を含んでいると捉える人もいるのだろうか、と思った。 街路の端々に置
演奏会 とある演奏会で、ウクレレの演奏をした。ここが拙かったなあ……などという反省は、人並みにあるけれども、総じていい経験ではあった。 マイクの前に立つということは、いつ振りだろうか。思い出せないくらい前になる。 軽食付きだった。ローストビーフみたいな肉が二枚、レタスに乗ったものと、ローストチキン、これはひと塊を二等分したようなものだった、何かのスパイスに漬けている感じがした、それから謎の赤い細かいダイスのようなもの、これを今まで食べたことがなかったので分からないのだ
愛とは ビッグ・クエスチョンというのを最近よく聞くが、問うに問えないような、大きな疑問に、あえて答えを出してみようと思った。 曰く、愛とは何だろうか。 いろんなものの愛があるが、特に、人を愛するというのはどういうことか。 それは、その人の強さを一番よく知ること、なのだと思った。 人は、理性的人間、言語を使う人間であるが、それ以前に、生存の波に揉まれつつ、生きてきた生物であり、そのどの段階、どのレベルにおいても、自分を成り立たせるために、自分自身をつねに鼓舞しつづけ
読書 ほとんど柄谷行人の『日本近代文学の起源』、それに引き寄せられて国木田独歩『武蔵野』を読んでいる。 柄谷は、『武蔵野』の内容にほとんど触れずに、道具としての文章に注目している。あまり、そのような読み方はしてこなかった。しかも、その文章が内面をそのまま表現している、透明な道具としてあることが、小説としてのエポックな場面であるといったような主旨。今まで、透明なものに着目するということをしてこなかった。 はじめの「武蔵野」は、一篇を貫いて、武蔵野という土地について、作者
昨日、昨日だか一昨日だかもう忘れてしまったが、何度目かわからないけれども、長く続いていた毎日更新が、途絶えてしまった。 八十二日間、たしか続けていた。もう記録にも残っていない。 もうやめだ! 毎日更新は、さすがに無理だ。 と、いうことで、今後は「毎週更新」に切り替えることにした。 私生活の話をすれば、自分は週二回の休みをもらっている。何かイベントがなければ、その日はほとんど空いている。 この二日間を使って、更新をし、基本的には週二回更新とする。 時間が空いた分、