【日記】4/3-4/6

hosaka

 保坂和志になりたくて、狂った人が何人もいるように思う。あてずっぽうではなく、実際に数人は、目の前で見たと言っていいと思う。
 まず最初に出会った人は、もうあれは二十年近く前になると思う。創作を志す人が集まるウェブサイトの中でのことだった。そのサイトにはチャット機能があり、突然その人がやって来て、周りの人を罵倒しまわっていた、贔屓目に見ても、挑発的な発言を繰り返していた。
 誰もいなくなり、自分とその人だけになった段階で、話を聞いてみた。彼は、当時の保坂和志の読んでいるという本を読んでおり、のみならず、保坂和志が言っている、「読んでいるそのときだけが読書で、読み終わるということは何も積み上げたことにはならない」という発言を真に受けて、読んでいるすべての本を読み終わることがないように、なんと、二百冊近くの本を同時に読み進めていて、どれも読み終わっていないのだと、自信満々に話していた。
 彼はまるで、読書が終わってしまえば、その本は目の前からなくなり、一切振り返ることも出来ず、そうならないためには絶対に読みかけで放置しなければいけないという強迫に駆られているかのようだった。数日間、そのチャットサイトにいたと思うが、すぐにいなくなってしまった。強度と、本当に医療的にそう分類されるかどうかはともかく、あの人は、保坂和志の発言と、自己の立身出世の夢、みたいなものとが間違った形で結びついてしまい、狂ってしまったのだと、仕組みとしてはそうなると思う。
 ただ、そんな風に演技くさくやっている人は、長続きはせず、何年かしたら、その名誉欲みたいなものを胸の奥にしまい、社会に馴染んでいる事だろうと思う。他にも、何年か継続して書いている日記を、自費出版している人もいた。その本を読んでみたら、やはり、保坂がからんでいる本ばかりが出てきて、またか、と思った。
 何だかそんなに大げさな話になるのも変だとは思うが、小説家を目指しているある世代の若者は、保坂とどう距離を取るのかが一大テーマだった、という時期が、確実にあったのではないかという気がする。批評というものも全て切り捨てるものだから、その人々を救う道筋は、ないと言っていい。
 罪なやつだ。

成熟の年齢

 ミシェル・レリスの『成熟の年齢』を読み進めている。
 少なくとも初期のレリスは、ベースとしてある、文学としての美学は、多くはプルーストに依っているのではないか。思い出が美しい、だから書いているものが美しいというわけ、あるいは、自分の過去というものに、神経症的な絶対視を重ねて、それに忠実でなければいけないというルールを課す、その上でのゲームとする、というような。
 やはり、こういう行き方をすると、自分にとっては価値のあることではあるけれども、他人にとってはどうか、という問題がどうしても出てくる。あとは、言葉の連想を使う。シュルレアリスムを通して、フロイトから借りたものだろう。大きな名前としては、このようなものに乗っていると思う、西洋の匂いがこれでもかというほど染みついている、一つはフランスで、一つはドイツだ。自分の人生という、物質的と言っていい素材に、それらのフィルターを通して書いていると言っていいだろうか。
 だから、何か鋭いものをまだ感じない。戦争という惨状に対して、僕はこういう態度でいる、というには、弱くないだろうか。
 前半、四分の二から四分の三にかけては、ほとんど観劇の話だ。本当に劇が好きな子供だったという話。そこから、やや逸脱するように、神話や戦記の話がオーバーラップする。男を殺す女性に魅惑されるという、性的な惹起の話も、同じくらい多く出てくる。
 素材を書き並べているだけだけど、これらがどう運ぶのかを見る読書になるだろう。

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